断章 「姉の寝顔Ⅰ/Ⅱ」
姉はよく眠る女だ。ロングスリーパーというものなのだろう。
デイトレードをしているから、朝は早く起きている。その分、夜も早く休む。昼寝をしていることも多かった。
今も西帝の部屋の、古い長椅子で、肘置きを枕にして眠っている。髪をほどいているから、うたた寝ではなくシエスタなのだろう。
西帝は日課のランニングから帰り、着替えるために戻ってきたところである。師は身だしなみにうるさく、汗くさい男など許しはしない。
特に予定が入っているわけではないが、呼びつけられたらすぐに参じるのが仕事だ。姉は弟が戻ったことにも気付かず、すやすやと寝ている。邪魔だなあと思った。女のいる部屋で服を脱いで着ることに、西帝は抵抗を覚えるたちだ。
「姉さん、ちょっと」
肩を揺り動かす。大柄な姉は骨格がしっかりしていて、男のような手ごたえだ。力で勝てたためしがない。
「悪いけど起きてくれよ。ちょっと俺、部屋使うから」
「いや……」
姉は目を瞑ったまま眉を寄せて、起きたくないことと、不機嫌とを表明した。
「今いい夢見てるから、邪魔しないで……」
「あるけどさ、そういう時。続きは自分の部屋で見てくれよ」
「いいじゃない……あんたも寝たら?」
珍しく甘えたような声を出しながら、西帝の手首に触れてきた。ひんやりとした感触で、姉が手袋を外していることに気付く。
なんだか妙だと思っている間に、手を引っ張られて、姉の豊かな胸に導かれた。西帝はびっくりして、身体ごと離れようとしたが、姉に強く手首を押さえられている。手のひらにどっしりとした、それでいて柔らかい重み。
「ちょっとちょっとちょっと!」
「え? あら」
姉はまぶたを開くと、西帝の顔をじっと見て、それからようやく手を離した。
「喋り方が斎観に似てるのよ」
「いや、それは、知らないっ、けど」
「ちょっと間違えて腕引っ張ったくらいで何よ。大袈裟ね」
西帝が動揺したのはそこではない。しかし深追いしたくなかったので、聞こえなかったふりをして話を戻した。
「部屋使うから、出て行って」
「冷たいわね」
そう言いながらも、多少は気まずいのか、姉は素直に身体を起こした。香水の匂いが鼻先に漂ってきて、西帝は軽く息を止める。
「あんたたちの部屋のほうがよく眠れるのに。あたしの部屋は寒いのよ。北側だし、隙間風が入るから」
「でも自分の部屋で寝なよ?」
兄の部屋には行くなと言外に伝えたつもりである。桐生の教育に悪い、というのは建前で、兄の精神衛生に悪い。
姉は長い髪を手で直しながら、不満そうに息をついた。
「あたしを邪魔者扱いするようになったのね。あたしのおっぱい吸ってたくせに」
「不気味な過去を捏造しないでくれよ!」
「ただの比喩じゃない、カリカリしないでよ。あんたも斎観も、あたしのことを汚いとでも思ってるの? 不愉快だわ」
「そんなこと思ってないし、カリカリしてるのはそっちだろ。どうしたの、何か──何かあった?」
気を逸らすような話術に引っ張られてしまったが、よく見れば顔色が悪いような気がする。寝起きだからだろうか?
「兄貴と喧嘩でもした?」
「ねえ、あたし綺麗でしょう」
「自信家の口裂け女? まあ、そりゃそうだけど、急に何?」
「頭が痛いのよ」
「え、そうなら早く言ってくれよ。じゃあいいよ、そのまま寝てなよ。薬飲んだ? コーヒーでも淹れてこようか」
姉は何か言いかけたが、また身体を横たえると、億劫そうに目を閉じた。
「要らないってこと? 俺、着替えるからね」
「見やしないわよ」
「そうですか」
西帝は押し入れを開けて、着替えと、夏物の薄い毛布を取り出した。
一日で二件のオペを担当したという姉弟子は、助手席でうとうとと頭を揺らしていた。
「後ろのシートで寝たらどうだ? 首を痛めるよ」
赤信号で停車しながら、典雅はそう声を掛ける。
街の病院を出て、いくらも経っていない。村まではまだしばらく走らねばならず、山はさらに遠い。
「検問があったら困るじゃない……」
「ないだろう、こんな時間に。せめてシートを倒したらどうだ」
「あんたの運転は乱暴だから、落ち着いて眠れないわ」
「それは失礼」
深夜に迎えに来てやったのに文句をつけられていることに、別段腹も立たない。くたくたになるまで働く、立派な女だと思う。
「もう少し行くとラブホがあるじゃない。泊まりたいわ」
「薬なんか持ってきてないよ」
このところ、強壮剤なしでは途中で駄目になることが多い。この姉弟子が相手の時は特にそうだ。それで叱られて、さらに難しくなるという悪循環である。
若い頃から絶えず旺盛な姉弟子は、退屈そうにあくびをした。
「眠りたいだけよ。二時間でいいの。駄目?」
「それなら構わないよ。どうせ帰っても寝るだけだし、朝まで休むか」
「ありがとう」
疲れている時の此紀は素直だ。典雅は立派な姉弟子を休息させてやるため、ホテルに向けて車を走らせた。
ホテルの部屋に入るなり、此紀は上着だけをソファに脱ぎ捨てて、すぐにベッドへ寝転んだ。
典雅はちりめんの着物が皴にならないようハンガーに掛けて、タオル地のガウンに着替えたところだ。眠るつもりはないが、横になって消音で字幕の映画でも見ようと考えている。
「腕枕して……」
そら来たと、典雅は広いベッドに上がって、姉弟子の要望に応えてやった。左腕で女の頭を支える。病院でシャワーを使ったのだろう、うっすらと苦いような匂いがした。無香料の石鹸の匂いだ。
此紀の両腕が典雅の腰を抱いてきた。さほど性的な雰囲気ではない。抱き枕を欲している時のそれで、だから長い脚も巻き付けてきた。
「キスして……」
「ん」
これにも親愛を示して応える。化粧を施していない唇はかすかに乾いて柔らかい。
「ねえ………」
腰をすり寄せてくる。これはもろに性的な動きだった。
「抱いてよ……」
「だから、薬を持ってないんだ。勘弁してくれ」
「おっぱい揉んで……」
腕枕をしていない方の手で揉んでやる。服と下着の生地を通しても柔らかい、同性愛者の男にとってさえ魅力的な触り心地だ。子に乳など与えることのない女の、男を挑発するためだけに湛えた果実のような部分。歯を立てれば果汁がこぼれそうなほど熟しているのに、けしてそうならない。
果汁が染み出すのは、別の部分だ。その音まで聞こえるようだと典雅は思う。
「あん……ねえ……」
「そんな声を出されても、物理的に無理なんだから、今日のところは諦めてくれ」
「何よ。ヘテロの女だって、あたしがおっぱい触らせたら顔赤くして抱きついてくるのに」
「あまり悪さをするなよ。レズの女は相手を見つけにくいから、生きにくいらしい。目覚めずに済むならその方が楽だろう」
「あたしがその分、いい思いさせるわよ。あんたにもさせてきたつもりだけど、何がそんなに不満なの」
「生まれつきの嗜好の話だから、不満とかそういう問題じゃないよ。眠らないのか?」
「血を見たから身体が熱いのよ……」
甘ったれた喋り方をしている。これは早く寝かしつけなければ、機嫌が悪くなるパターンだと経験からわかる。疲れた幼子がぐずるのと同じなのだ。
指使いを意識して胸を揉みながら、膝でタイトスカートの裾をたくし上げる。そのまま膝で面倒を見てやろうとしたが、耳たぶを甘噛みされた。ささやかれる。
「指入れて……」
すでに出された指示のうち、解除すべきは胸を揉む方だろう。腕枕は続けながら、スカートの中に手を入れる。一応、下着の上から形をなぞり、性急にならないようにした。思った通り、すでにその生地は湿っている。
挿入行為を完遂しろと言われると厳しいが、こうして慰めてやるのはそう嫌ではない。甘えられることも、嬉しくないわけではないのだ。期待に沿えなかった時に叱られるのが憂鬱なだけである。
下着をそっと下ろして指を入れてやろうとすると、腰が逃げるように引かれた。
「どうした?」
「焦らしてよ……」
「そう来たか」
言われたことをするばかりが奉仕ではないか。ヒモ業の長い典雅はそれを知らぬわけではないのだが、この姉弟子に言われたことには従ってしまう癖がある。
ひとまず指では太ももを撫でておいて、頭を抱き寄せた。
「ん……」
何か想像しているのか目を閉じて、自分で乳房を揉んでいる。
可愛い女だなと、唐突に典雅は感じた。そして、もったいないことだ。美しく豊満な肉体を持ち、色気を溢れさせている、この女を抱きたい男はいくらでもいるだろう。なにも使い物にならない男の腕の中で、自分の身体をまさぐらなくてもいいだろうに。
そう思わせるところに、この女の魔力があるのだと思うこともある。強気の背後に儚いところを透かし、それで男を惹きつける。若い頃は計算だと思っていたから憎んだ。無意識なのだと今ではわかる。
そういえば、今日は耳飾りを着けていない。服装も地味だ。初めて入るホテルのベッドということもあって、見慣れぬ女のような気がした。
「あぁ……んっ……」
切なげに声を漏らして、ぎゅっと頭を典雅の胸に押し付けてきた。
久しぶりに、薬に頼らなくとも成せる気がしてきた。どれ、少し気合いを入れるかと身体を起こそうとして、腕の中の女が寝息を立て始めたことに気が付いた。
──なんて勝手な女なんだ。
しかし、今に始まったことではない。そっと下着を履き直させてやり、腕枕をしたまま工夫して掛け布団を引っ張り上げた。
「お疲れ様、ねえさん」
前髪をそっと退けてやる。姉弟子は子どものような顔で眠っていた。
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