蜂の残した針 6話
色舞にとって桐生は、情夫の息子である。当然産まれた頃から知っており、すくすくと育つ様に年月を感じていたものだ。
それにしても育ったわねと、傍らの大男を見上げる。桐生が押していると、ホームセンターのカートが小さく見える。父親や祖父と同じように、長身で手足が長く、さほど逞しくはないが強くフェロモンを感じさせる男だ。顔立ちの美しさならば色舞の父や兄が勝るかもしれないが、男としての色気では完全敗北を喫している。
並んで歩いていると、少し気恥ずかしい。自分は見劣りするだろうと思ってしまうからだ。
「才祇さんはいかがされましたか?」
「熱帯魚のコーナーにでも行ったのでしょう。好きなのよ。猫がいるから飼えないけれど」
街のホームセンターに来る時にも容赦なく和装で長い髪を下ろしている兄が、あまり人のいないコーナーでじっとしているのなら、それはそのほうがよい。
桐生も一族の習いの通り、髪を伸ばしている男だが、色舞の兄よりも社会性があるので、目立たぬように首の後ろで小さく団子にしている。黒のハイネックと合わさって、デザインか音楽を生業としているようにしか見えない。まさかこの男が小間使いと思う者はないだろう。
「あなたも何か買い物がある? 少しくらいのものなら、一緒に会計するわよ」
「いいえ、大丈夫です」
「こういう時は小さなものを持ってくるものよ」
周りの者は桐生に気を使っているが、色舞にはわかっている。この男は、年長の女に指導されることが好きなのだ。ただし指導の仕方には注意がいる。
「あなたみたいに美しくてなんでもできてしまう若い男は、疎まれることもあるでしょう。かわいげを示すチャンスがあれば、全部拾うくらいのつもりでいたほうがいいわ。あの狭い世界でうまくやっていきたいのなら」
「勉強になります……」
その表情は真摯と言えた。自分の得点を上げることが好きなのだ。若いから、そのことを隠せていない。
「若者にかわいげを要求するなんて、前時代的でどうしようもないハラスメントだけど、私たちの家はそういうところだから」
兄は若い頃から今に至るまで、いっさいそうした圧力に屈することなく、不愛想を貫き通している。そのせいで多くの損をしたところを見た色舞としては、若者にはアドバイスくらいしてもいいだろうと思うのだ。
「あなたのお父様ほど芸をしなくってもいいとは思うけれどね」
「それは、恥ずかしい限りです」
「別に恥ずかしくはないのよ。師を最大限喜ばせてやろうという企業努力だもの。ただ、あの生き方ができるかどうかは先天的に決まると思うから、あなたには難しそうだわ。そう長く此紀様のところにいるつもりもないのでしょう」
桐生は立ち止まった。園芸用品の棚の前だ。
「何か買う?」
「猫車があると便利だと、父が言っていたなと思いまして」
色舞は猫を乗せて進む小さな汽車を想像した。かわいい。
桐生が値札を確認したのは、大量の土を運ぶのであろう一輪車だった。かわいくない。
「それを買うの?」
小さなものにしろと言ったはずだが、のちほど買う網戸の次の大物である。
桐生はいいえと首を振った。
「今度、自分で来た時に買います。かさばりますし」
「そのほうがいいわね。網戸も積まなければいけないし、車の中がみちみちになるわ。……あとで食料品のコーナーに行って、木の実と干した果物を買いましょう」
桐生は美しい顔にかすかな怪訝を浮かべた。
「何か?」
「いいえ……平安時代のような言い方をなさるので、その、風流だと」
「え? あら、そうね。供物のような言い方をしてしまったわ」
ナッツとドライフルーツという語彙がないわけではないのだが、色舞は古い言葉を口にしがちだ。若いふりをしていると思われたら嫌だと、どこかでそう思っているのかもしれない。
「水も買って行きたいけれど、重いのよね」
「運びます」
「ありがとう。でも、そんなに気を使わなくてもいいのよ。今日は休みなのでしょう。あなたなら用事が色々あるんじゃないのかしら」
「女のことでしょうか? 今は、それほどは。此紀様の身の回りのお世話を早く覚えたいので」
どうもこのあたりは、本当にそう思っているらしい。詳しく聞いたことはないが、恩義のようなものを感じている様子があるから、怪我でも治してもらったことがあるのだろう。
此紀はさほど心が優しいわけではないが、親切な女であるから、そういうことがある。色舞の父は逆だ。心は優しいのだが行動を起こさない。どちらが尊いかといえば、それは此紀のほうであろう。
優しいだけの男は意味がない。桐生は休日をつぶして、師の弟弟子の娘―――言葉にすると赤の他鬼であるが、これから付き合っていかねばならない相手――の買い物に付き合う程度には、行動を示すつもりがあるようだ。
見込みがある。別に査定する立場ではないが、色舞はそんなことを考えた。
「あなた、お料理はする?」
「いいえ、いたしませんが」
「強要はしないけれど、簡単なものができるといいかも知れないわね。肴が胃に入れば、その分、お酒が入らなくなるということだから」
色舞は果物や菓子を食わせているが、此紀は塩辛いもののほうを好む。乾き物では胃が痛みそうだ。しかしコンビニで買った総菜類は食わない。
桐生の父が作った燻製肉などを出すと食う。酒で焼けても舌は肥えているらしい。
「料理ですか」
桐生は真剣な表情で考えている。
「父に教わってみます」
「何もかもしようとしなくていいのよ。ただ、あなたはなんでもすぐにできてしまうから、そのうち時間を持て余すことがあるかと思って」
此紀の従者はタイムカードで勤怠を管理されるから、勤務中はぼんやりするというわけにもいくまい。
色舞の言うことが伝わったらしい。
「お気遣いをありがとうございます。色舞さんは、お料理をなさるのですか」
「それが全然なの。火を使うのが怖くって、どうも向いていないのね。原始人じゃあるまいしと自分でも思うんだけれど」
「原始人と言いますと?」
「火が怖いなんて、文明人の言うことではないでしょう。火事の夢って、あなたは見る? どのくらい一般的なのかしら。私はよく見るんだけれど」
「火事の夢は……記憶にありませんね。犬にはよく追いかけられるのですが。逃げようとしても、いつもうまく走れなくて」
「夢の中では誰でもうまく走れないそうよ。みんな怖いものを夢に見るのかしら」
背後で軽く咳払いがされた。若い夫婦が立っている。
園芸の棚の前で、少し長く立ち話をしてしまったようだ。色舞は夫婦に軽く会釈をして歩き出した。
桐生がカートを押してついてきて、小声で言った。
「色舞さんが頭を下げるようなことではありません」
「頭? まあ、今のをそう思ったの」
本当にプライドの高い男だ。その誇りは一族の血にまで及ぶらしい。
これはなかなか難物だわと、色舞は心の中で苦笑した。
おすわり、お手、おかわり、伏せ、右に回れ、今度は左。
命令をすべてこなした犬は、ドヤ顔で斎観を見上げている。
縁側に座り、日を浴びてビタミンDを生成していた白威は、率直な感想を述べた。
「何の意味があるんだ」
「意味? 犬と意思疎通を図ることに、意味がいるのか?」
「トレーニングか? 本番というのは何なんだ。狩りでもさせるのか」
「コミュニケーションの意味を知らないロボかよ」
「友達なのか」
犬をよしよしとしながら、兄弟子は目をすがめた。
「なんでそういう微妙に引っかかる言い方をするかね」
「別に他意はない。寂しい男だなとでも聞こえたか? お前には犬以外の友もいるし、家族もいるし、そんな幻聴を聞くような身じゃないだろう」
「あれ? 俺のこと友達だと思ってくれてんの?」
「俺じゃない。東雲さんだとか……東雲さんだな」
「一人じゃねえか。まあ、実際そうだけどな」
それは兄弟子のコミュニケーション能力を低く保証することでもない。そこそこ高齢で、血統高貴であるから、気安く接することのできる者ではないのだ。貴族が貴族としか狩りに行かぬように、身分の釣り合う者としか親しくできないという話であろう。
犬を伴って歩いて来た斎観は、白威と少し距離を開けて縁側に座った。犬もちょこんと足元に座る。
「セックスフレンドという言葉には欺瞞しか感じないんだが、どうなんだ? そこに友情が発生するためしがあるのか」
「やめてよ~、犬が聞いてるのにそういう話さあ」
「何も理解していない顔をしているが」
「誰のこと当てこすられてるのかわからん。らんこちゃんのこと~?」
「何人いるんだ」
「数えさせんなって。セックスくらいするだろうよ。他になんにもすることねえんだから」
なあ、と同意を求められている犬はおそらく処女であろう。避妊手術をしないのならば番を与えるのが道徳というものではないかと白威は思うが、強制的に婚姻を結ばせるものと考えると、それこそが道徳に反することかもしれない。見合いとて、妥協できる相手を選ぶものであろう。
「街に下りて女を引っかければいいだろう。店にも行くんだろう。なにも、蘭香さんと色舞さんに二股をかけることはないと思うが。三股四股だとしても、その二人を入れるのはあまり賢い行いじゃない」
「そう見えるのはわかるが、大丈夫だよ。典雅様の寵愛を競っちゃいるんだろうが、だからこそ俺なんて二番目の男だし、俺の心のありかに嫉妬するような女は、そもそも俺を選ばねえだろ。首輪ガチガチについてんだから」
「種付けに貸し出されているということか」
「なんでいちいちキツめの言葉で表現するんだよ。付けねえし」
あいつ嫌なヤツだなあ、と犬に話しかけている。犬は首をかしげた。
「お前がバレる浮気をすると、神無様が不機嫌になって、俺が機嫌を取らされる」
「それは本当に全面的にすまん」
「お前にかかっているストレスも理解するから、やめろとは言わないが」
「気をつけろってか」
「というか、さっき桐生君が色舞さんと出かけるところを見たが」
兄弟子は犬と同じ角度で首をかしげた。
「仕事じゃねえの? それが何?」
「乗り換えるんじゃないのか。お前から桐生君に」
「それはねえよ。色舞ちゃんはそんなに倫理観のない女じゃねえって」
「自分はその程度の倫理観の分際で、鬼の倫理観は信用しているんだな」
「俺と色舞ちゃんの倫理観の程度は無関係だろ。あの子はちゃんとしてるよ。桐生が赤ん坊の頃から知ってんのに、でかくなったからって急に色目で見やしねえだろ」
「誰でも赤ん坊の頃から知っているだろう。この家で産まれて育つのだから。神無様はギラギラの色目で桐生君のことを見ているぞ」
「だから、神無様は俺と同じで倫理観イカれてるからだろ。色舞ちゃんは違うって」
情婦を庇いながら師を侮辱したことに気付いたらしく、手で口を覆って天井をあおぐしぐさをした。体格のためか、そうした欧米的なジェスチャーが似合う。
聞かなかったことにしてやる。
「皇ギ様の占いというのは、一回いくらなんだ」
「内容による。え、頼むの? あんまりお勧めはできんぜ。半分くらい詐欺だし」
「半分は本物の神託なんだろう。いまいち活用されていないのがよくわからない。半分当たるなら、占いとしてはものすごい打率だと思うが」
「50%つうより、中てられることしか中てられねえだけだ。天気予報としてはたまに機能するが、馬券屋としてはポンコツ中のポンコツだから、そういう使い方はやめとけよ」
特定の法則性を持つということは、以前から聞いている。その詳細を知りたいと白威は思うのだが、それは商売の種を明かせということであり、だから明かされるわけもない。
電卓を知らない者にとって、常にそろばんよりも速く計算ができる者は、天才か神秘に見えよう。魔女として狩られない限り、電卓の存在を明かすことはあるまい。
犬がうとうとし始めた。その頭を撫でながら、兄弟子はつぶやく。
「あんまり勧められんぞ、本当に」
「高いのか」
「家族が新興宗教に傾倒しようとしてたら、止めるだろ。教義が善か悪かはわからなくても、わからないからこそ一応。桐生の次はお前まで姉貴の神託に啓蒙されたら、俺の夢見が悪くなる」
「桐生君がそんなことに?」
かつては赤ん坊であり、可愛らしい幼児になり、小生意気な子供になり、不愛想な少年になり、今では美しい青年に落ち着いている。礼儀正しく、理系の勉学が得意で、父親よりも知性的だ。占い師が伯母といえども、その胡散くささをむしろ懐疑するようなイメージがあるが。
その父は犬をまだ撫でている。猫ならば喉をころころと言わせるのだろうが、犬は心地よさそうにしているだけだ。
「大丈夫なのか、桐生君は」
「わからねえから困ってる。なんでアル中の女になんか執着するんだ? まあ美人だし、胸もでかいが、あいつが背負える荷物じゃねえだろ」
「それは俺たちにも跳ね返る言葉じゃないのか」
「あーっ、そうか? 俺は背負えてると思ってたんだが、それは傲慢ってことか」
「いや、お前は背負っていると思うが」
その苦労について言及したつもりである。神無は美しい女で、胸が小さく、重い荷物だ。魅入られたから背負っているだけで、それはもはやそういう妖怪であると、白威はときどき考えることがある。
白威は弱く、薄く、儚い存在だ。神無に巻き取られるだけであっても、それが最大限の幸福というものだと思う。
しかしこの兄弟子には、もう少し選択の幅があるだろう。そのことを自身で省みることはないのだろうか?
まあ友ではなし、追及するほど親身になることもないと、白威は黙って日光浴を続けた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。