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蜂の残した針 21話


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 桐生は、自分に友がいると思ったことはなかった。

 子供の頃から、血縁に周りを固められて、特に祖父があれだ。誰からも距離を置かれていた。

 長じてからも、あいつは態度が鼻につく、プライドが高くて扱いにくいと、悪口を言われていたことを知っている。

 ──ふうん、俗物が嫉妬してるんだな。

 悪口をきっちり体現した男である。自分で自分をそう思う。ただ、そこを短所だとも感じない。

 しかし、その自意識が急速に揺らいでいる。自分はひょっとして、弱い男なのではないか。

 このところ胃のあたりが重く、朝起きるのがつらく、何をするのも億劫だ。気分の波も激しく、言うことをきかない女にカッとして、手が出そうになる瞬間がある。風呂に入るのが面倒で、食欲もほとんどない。

 ──うつ傾向ね。

 桐生をそうさせている女が、そう診断した。酒の抜けている、短い間にだ。悲しそうに見えた。

 ──友達にでも会ってきたら。

 そんなものはいないし、どうだってよい。桐生を家から追い出して、その間に酒を飲み、男を連れ込む気に違いない。そう思ったから、桐生は怒った。

 ──違うわよ。その間、抗酒剤を飲むから。

 男は、抗酒剤では断つことができない。

 ──じゃあ睡眠薬を飲むから。半日くらい眠ってるから、その間にどこかに行って、気晴らしをしてきなさいよ。
 ──監視は、する側だって疲れるんだから。

 される側として、嫌気がさしているだけではないか。桐生はその言葉を飲み込んで、師なりに現状を良くしようとしているのだろうと、前向きに考えることにした。

 友などいない。しかし、それに会えと言われている。

 唯一、ぎりぎり該当する気がするような相手に、おそらく断られるだろうと思いながら、桐生は連絡を取った。





 イオンのフードコートでぬるいコーヒーを飲んでいた桐生は、赤いアロハシャツの男がいるなあと思いながら、ぼんやりとしていた。

 冬だというのに半袖のアロハ。まあ館内は暖房がきいているから寒くはないのだろうが、知能指数が低そうなことこの上ない。半グレだろうか? そのわりには大人しそうな顔を、ん?

 桐生が驚いて立ち上がると、アロハの男は軽く手を挙げた。近付いてくる。

「やあ、桐生くん」
「うわっ!」

 どうも、時間を割いていただいてすみません、お久しぶりです。そんなどうでもいい社交辞令で始めようと思っていたのに、無礼きわまりない第一声を発してしまった。

 南国風の梓土はさわやかに笑って、桐生の正面の椅子に座った。

「先週、髪を切ったんだ。すごく軽くて快適だよ、洗うのもラクだし」
「髪っていうか、どうして半袖なんですか」
「上にライトダウンを着てきたんだけど、花苑に取られたんだ。映画を見てるから、二時間は邪魔されないよ。君はこういうゴチャゴチャしたところが似合わないね。ごめんね、こっちの都合に合わせてもらって」
「いいえ、こちらこそすみません。水入らずのところを邪魔してしまって」
「ぜんぜん。恋愛映画に付き合わなくて済んで、助かるよ」

 友ではないのだろう。しかし、桐生に親切にしてくれる、数少ない男だ。

 山にいた頃と変わらない、さらりとした対応がやけに沁みる。目頭が一瞬熱くなった。すでに、懐かしいと感じる。それと、うれしいと。

「あ──何か召し上がってください。こんなところですが、出しますので」
「今、映画館のロビーでコーラを飲まされたから、大丈夫」
「飲まされた? んですか」
「花苑はいつも、ジュースをふた口だけ飲みたがるんだ。残りを飲まされてる」

 ジュースを少しだけ飲みたいという娘のわがままを、すべて許している。
 なぜか、そのことが桐生に大きな衝撃をもたらした。桐生もたいがい甘やかされて育ったものだが、ジュースを飲み残したとして、それは捨てられたはずだ。桐生の父や伯母は潔癖症であるし、叔父も子供の食べ残しを口にするようなタイプではない。

 どちらかといえば、健全なのは捨てるほうであると思うのに、そうでないほうに深い愛情を感じて、桐生は海に突き落とされたような気分になった。

 山にいた頃ならば、こんな気分にはならなかっただろう。汚ねえな、くらいに思ったはずだ。愛の多寡を測るような部分でもない。

 これがうつ傾向ということなのだろうか。感情の波が大きく、異常な満ち引きをしている。

 梓土は、里もけっこう寒いねと言って、それと同じ調子で続けた。

「大変だろう、女性の世話は」

 どう答えたものかと、桐生は息継ぎのように返事を探す。

 弱音を吐けば、あいつ早くもをあげてるぜと言いふらされることだろう。しかし、会ってくれないかとわざわざコンタクトしておいて、何も問題ないぜと嘘をつくのも、怪訝に思われるはずだ。

 梓土は少し肩をすくめて、アメリカンジョークのように言った。

「俺もずっと大変で、限界になったから、万羽様のところを辞めたんだ。聞いてると思うけど」
「え──ええっ? いえ、知りませんでした。辞めたんですか? とうとう?」
「そう、とうとうさ。ずっと経済的に締め付けられてて、それを弥風様が解決してくれたんだけど──それではっきりわかったから。結局、カネの問題じゃなかったってことが」

 桐生は驚いて、目の前の、いくらか年長の男の顔を見る。これほど朗らかな雰囲気の男だっただろうか。服装と、フードコートの明るすぎる蛍光灯のためだと思っていたが、そうではなかったらしい。いや、服装にはあらわれているのか?

 梓土はリラックスした様子で、「やっぱりビールを飲もうかな」と言った。

「でも出してないのかな、こういうところでは」
「あそこの店が出していますが、梓土さんも車でしょう」
「花苑も免許証を持ってきてるから、運転してくれるだろう」

 また桐生は深海に沈められた。そんな、双方向のやつが。飲みたい時に飲めるのか。帰りの運転を任せられる、心を許せる関係の女がいるから。

 いや、違うのだと桐生は思う。自分はけして、この世にひとりではない。父も伯母も叔父も、桐生のために車を出してくれたことがある。今でも頼めばそうしてくれるだろう。

 では、自分が今、泣きたいほど羨んでいるものは、いったい何なのだろうか。

「つれえ……」

 何もかもわからぬまま、そう口に出していた。

 梓土は穏やかな顔をしたまま、「うん」と頷いた。

「つらいか。それは経済的なことで?」
「いえ、そこは、どうにかなるんです。今なんか、わっとなって、なんだろう」
「俺がなにか言っちゃったかな」
「いいえ、違うんです。なんだろう──花苑さんとの信頼関係? 違うか、なんていうか」

 ふた口だけジュースを飲みたいとか、車だけどビールを飲んじゃおうかなとか、それを自分は言うことができないと思ったのだ。

 羨ましい。花苑のことが、梓土のことが。生まれて初めて、桐生は何かを見上げている。

 桐生はひとりではないが、ふたりでもない。そのことが、自分でも信じられないほどに悲しい。

「俺もほしいです。飲みたい時に飲める権利が」
「うん、そうだと思う」

 桐生の言うことがわかるのだろう。ずっと、その権利を奪われていた男だからだ。

 思えば、梓土の境遇のつらさというものを、桐生は真剣に考えたことがない。金がなくて大変なのだろうという程度に思っていた。自由と権利と、信頼の問題であったのか。今、突然すべてを理解した。

「女に枷をつけられることが、こんなにつらいとは思っていませんでした」
「うん、つらいね」
「俺が全部を捧げているのに、向こうはひとつも返してくれないことが、すごくつらい」
「そうだね」
「見返りがほしいわけじゃないんです。ただ、努力をしてほしいんです。してるのかな、でも、俺にはそう思えないんです。俺が運んだ水を全部飲んで、俺の飲む水は? 俺って何なんですか? 奴隷なのか? いえ、自分が選んだくせに被害者ぶって、変なことを言っているのはわかるんです。でも」
「わかるよ」

 梓土はそう言って、少しだけ声を落として、という仕草をした。

「すみません……」
「いいよ、一般名詞でしか話してないから、聞かれてもそんなに困るわけじゃない。でも君は変な目で見られたら嫌だろう」
「はい」
「俺はね、典雅様のことを、立派な方だなとずっと思ってた」

 自分に親切な男が、仇敵を褒めても、さほど苦しくはなかった。続きを聞きたいと思う。梓土はゆっくりと話した。

「あの方は、お子さんたちに水を運んで、姉弟子にも水を運んで、自分が飲みたいとは言わなかっただろう。言えない状況で、飲みたいという素振りも見せなかった。今もそうだよ」
「俺が間違っていたっていうことですか」
「違う違う、きみと比べてるんじゃないよ。見返りがないのに水を運び続けられるっていうのが、才能ならすごいし、才能じゃないならもっとすごいだろう。どっちかなのは間違いないんだから、すごいなと思ってた──すごいすごいって、子供か俺は。馬鹿っぽいね」

 この男は、桐生ほど美しくも長身でもないが、同じくらい女から好かれる。それは、こうした飾らない物言いのためなのだろうかと、桐生はやはり初めて考えている。

 桐生はしばらく迷ってから、切り出した。

「俺は間違っていたんでしょうか」
「わからないよ、俺なんかには。悪いけど、考えたこともない。きみたちのことも、きみがいなくなって寂しいな、くらいにしか思ってなかったし」
「う」

 嘘でしょう、と言いかけて、その卑屈さに自分でびっくりして飲み込んだ。

 わからないとか、考えたことがないとか、その話ではない。

 寂しいと思ったなんて、嘘だろうと、そう言おうとしたのだ、自分は。

 桐生はそのことを恥じる。俺は女か? ただの世辞に、何を甘えて突っかかろうとしているのだ。

「嘘じゃないよ」

 桐生は両手で顔を覆った。馬鹿か俺は、絶対にこのリアクションではない。しかし、顔を隠したいというプライドが勝り、一番違う行動が出力されてしまったのだ。

「俺なんかはきみの力になれないし、金も貸せないけどさ」
「あっ、そうか……すみません」

 だから真っ先に経済的な探りを入れられたのだと気付いて、桐生はぱっと顔から手を離した。

「用件も言わずに呼び出してしまって、すみませんでした。お金のことは大丈夫です」
「いやいや、まさか俺に金の相談をするわけないよなとは思ってたし。俺が誰よりも金を持ってないことはみんな知ってるだろう。ふふ、そうじゃなくてさ」

 アロハシャツの男はテーブルに肘をついて、少しラフな姿勢になった。

「きみが用もないのに俺と会いたいと思ってくれたんなら、うれしいなと思って。とか言って、何か用事があった? だとしたら今のはナシにして」
「いえ」

 何も用事などない。正直に言えば、会いたかったわけでもない。しかし会ってくれるとは思わなかった。

「会いたかっただけです」

 嘘だ。

 しかし今、嘘ではなくなった。

 桐生の友は、「そっか」と言って笑った。



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