蜂の残した針 34話
どういうわけか、台風が来ると、あの犬は脱走する。
最初は心配して、暴風雨の中を探しもしたが、過ぎ去った頃にけろりとした様子で現れるから、最近は気にしなくなった。あまり汚れていないから、どこか雨風の吹き込まないところを知っているのだろう。
それでも一応、怪我をしていないか確認した。おかげで手が犬くさい。
裏庭の水道で手を洗っていると、アーチェリーを担いだ姉が通りがかった。
「ヒマそうね」
「デカい弓を持ってる女ほどじゃねえよ。今日の後場は捨てんの?」
まだ十四時である。
姉は怒った。
「土曜よ!」
「そうだっけ? 金曜のような気がしてたわ。あっ、やべ」
土曜はシフトが入っているのだ。手をびちょびちょにしたままダッシュし、裏口から師の部屋へと急いだ。
大きな座椅子にもたれて、神無は居眠りをしていた。唐草模様の刺繍が入ったショールが腹に掛けてある。布団は片付けられていた。茶と菓子を済ませた形跡もあり、つまり、白威が来たのだ。
あーあと、斎観は師のさらさらとした髪を撫でながら思った。やらかしてしまった。その髪にも櫛が入れられており、いい香りの油も塗られている。嫌味の確定演出である。
認知症ガチャにおいて、徘徊しないというSSRを引きはしたが、だから目を離していいというものではない。寂しいと癇癪を起こすのだ。わりと頻繁に様子を見に来る必要がある。
せめて茶器を片付けようとして、それがずいぶん高価そうなものであることに気付く。金縁のティーカップだ。赤とピンクの花が描かれていて、白威のセンスとは違うように思う。引き出物か何かだろうか。
そこで、ぞっとする。急いで神無の呼吸をみた。頬に軽く触れると、長いまつ毛が持ち上がって斎観を見る。
「大丈夫ですか」
「何がだ」
「この茶、誰が持ってきました?」
「白威だ」
「なんだ! あーっ、寿命縮んだ」
誰かに薬でも飲まされたのかと考えてしまった。そんなことをして得をする者はいないのだが、目を離してしまった負い目で心配になる。
かつて、この小さな師は長老──当時は違ったが──に憎まれていたものだが、継承権を放棄してからは、どうでもいいものとして扱われている。クリスタルの文鎮のようなものだ。美しく重たく、それ以外に用を成さない。
斎観と白威は、この文鎮を磨くことを生き甲斐としている。もうさほど意思が疎通することもないが、外見はずっと美しい。別に、醜かろうと構わないのだが、触れる時に厳粛な気分になる。介護というよりはお仕えという気がして、それはなかなか悪くない。
「無畏の夢を見ていた……」
「すみません」
「何がだ。どうせ夢だ」
亡くした子のことを神無はときどき語る。蛇が嫌いだったとか、甘い菓子が好きだったとか、他愛のないことだ。多くの者は蛇が嫌いで、甘い菓子が好きであろうから、どのくらい正確な思い出なのかはわからない。斎観も白威も、師の子供にはあまり関わらなかった。
「豪礼はどうだ」
「はあ、元気です」
適当に答えておいた。恍惚の人に事故や死の話をぶり返しても仕方あるまい。精進落としには神無も少し顔を出したのだが、特に口をきいたりはしなかった。
問うたことを忘れたらしく、師は自分の手をかざして爪を眺めている。小さな爪にはギラギラとした銀色のマニキュアが塗られていて、斎観はどうかと思うのだが、神無は気に入っているようだ。
桃色のワンピースの裾には、白い糸で花の刺繍が入れてある。爪の色とまったく調和していないが、まあ、着せ替え人形とはこういうものかもしれない。
「せっかく可愛い服着てますし、散歩にでも行きますか? 畑に苺でも摘みに行こうかと思ってたんです。あの白い帽子かぶったら、アメリカ文学みたいで可愛いですよ」
「雨だ」
「快晴ですよ。行きたくないんですね、了解です。お手洗い大丈夫ですか? なにか召し上がりますか」
神無は答えず、また爪を見ている。
「お気に召されたんですね。よかったですね、キレイにしてもらって。その刺繍も。白威は細かいことがよくできますからね。菓子とかも、なんか凝ってるし」
「面倒を見てやれ」
「白威のですか? 見るような面倒ないですよ、あいつには」
また答えない。
それでも、今日は会話が成立するほうだ。昼寝をしたから気が冴えたのかもしれない。
「犬くさいな」
「すみません、触ってたんです。手は洗ったんですが」
「犬は良い。十年で死ぬところ以外は」
ヨーロッパの詩人が言いそうだ。神無は読書に興味を示さないが、長く生きているから仕入れ先はあったのだろう。
「お前の姉は?」
「え? 裏庭で弓射てます」
「ゆみい……」
「弓を射ています」
変な姉を持つと、変な口語を発する羽目になる。神無は「弓」とつぶやいた。忘れているのかもしれない。
「こう、説明難しいな。木? が円弧になってて、そこに弦、あー糸張って、矢をつがえて飛ばす……矢はこう、先を尖らせた棒で、動物とかを仕留めるんです」
「動物を痛めつけるな」
「いえ、姉貴が射てるのは木ですよ。本来はマンモス狩るために開発されたのかな? すみません、弓の発祥に詳しくなくて」
説明しながら、つがえるというのは弓矢専用の動詞であろうか、あっ、番いから来ているのか、では英語で言うとペアリングか? などと考える。
「弓くらいわかる」
「失礼いたしました」
「木なぞ射てどうする」
「さあ、趣味なんでしょう。変な女なんです」
防衛の名目で予算が下りていることは伏せた。
師は少し笑い、肩掛けをつまみながら言った。
「刺繍は権力者を飾るだけだが、矢は弱き者を守る。志が高い」
「白威を腐さずとも」
「低さではなく、高さの話だ。犬を見たい」
「え、はい、見に行きますか。変わり映えのしない犬ですが」
手を貸して、小柄な師を立たせる。そうするといっそう服装の可愛らしさが際立った。ピンク色の服に白い肩掛け。目に力があるので、乙女のようとはいかないが、戴きがいのある本尊だと斎観は思う。
師は昔から、氷菓子のような体臭を持っている。高利貸しでもあった。自分と弟弟子は、ずっと利子を取り立てられている。
廊下を少し歩いて、見えた縁側に犬が待機していて、斎観はぎょっとした。神無が駆け寄って、縁側にちょんと前足を乗せた犬を撫でる。
「利口だ」
なぜだ。斎観は犬をじろじろと見る。姉の占いさえも、これほど緻密ではない。だからデイトレードで苦心しているのだ。
犬は神無に撫でられて得意顔である。しっぽをよく振っている。舌も思いきり出ていた。
「知性をまったく感じねえ顔してるくせに、求められてる気配を察知したのか? 勘のいい犬だな」
「お手」
ドヤ顔でお手をしている。頼まれていないのにおかわりもしていた。犬好きの師が笑みをこぼす。
「お前は利口だ。それに健康だな。毛並みがいい」
「俺だって利口で健康ですよ。血統だっていいし」
「お前の血は頭打ちになった」
今日の師は本当に冴えている。そうなのだ、長寿の父を持つことが、すなわち優れた血統とされる。死んだ父はもう年を取らない。とはいえレコーダーではあろうが──おや、今は父の死を認識しているらしい。
神無は裸足で庭に下りた。犬が二本足で立ち上がって甘える。
「危ないですよ、石とか踏んだら怪我します」
「犬も同じ条件だ」
「う、鋭い。いやあ、そいつは肉球が丈夫なんだと思いますよ。神無様のすべすべのおみ足とは違います」
「そうなのか?」
そう言いながら犬の前足を取り、肉球を確かめている。
「なるほど、硬いな。犬はいい。お前たちとは違う」
「どういう意味ですか……?」
「目の前の者を好きか嫌いか、犬はそのことだけを考える。ウイ」
フランス語で何かを承知した? 愛いか。
もともと、師の言葉は古い。そこに認知の乱れが入ると、斎観がその語を知らぬだけなのか、誰も知らぬものなのか、判断がつかない。もっとも、ゆみいてますよと今日発声した者も、世界に斎観一人のような気がする。言葉は限定的だ。揺れるしっぽのほうが多くを伝えている。
甘やかされてテンションの上がった犬は、神無の肩掛けにかぶりついて引っ張った。するりと落ちたそれをくわえて、ぐるぐると回りはじめる。
「気に入ったか。お前にやろう」
「いやっ、神無様、それはちょっと。白威が頑張って刺繍を入れたんでしょう」
「ぼろ切れをやるのとは違う。カシだ」
「菓子?」
下賜か。気に入っている物を、気に入っている者に譲渡するという意味で言っているのだろうが、白威はどう思うだろうか。
意外と気にしないのかもしれない。斎観は、白威の心の動きを今ひとつ読み切れぬところがある。
神無は軽く首をかしげるようにして斎観を見て、それから犬を手で軽く制し、肩掛けを取り返した。下賜は取り消したらしい。少し土のついたそれをまた羽織っている。
「雨だ」
「快晴ですよ」
不快を表明する時、神無は架空の雨を訴えることがある。斎観が口を挟んだことが気に入らなかったのだろうか。
犬は神無の足元に伏せて、まだしっぽを振っている。今気が付いたが、斎観には見向きもしていない。さっきまでは全身をまさぐられて気持ちよさそうにしていたくせに、移り気な女だ。
神無がつぶやいた。
「雨は降る。いつかどうせ、必ず」
深みがあるのかないのかわからない。汎用性はある言葉だ。そりゃそうだからである。
犬は感じ入ったような顔をして、神無を見上げている。単純な生き物だ。四つ足なだけある。
「名前は?」
「斎王を観察する者、斎観です」
「やれ」
犬、ワサビは、なんと斎観を睨むようにして、うーと唸り声まで上げた。
「お前さあ、毎晩エサやってるの誰? なんて恩知らずな犬なんだよ」
ちなみに朝と昼は西帝が給餌している。恩知らずな犬は神無の手に鼻をこすりつけていた。しょせんは犬畜生であるから、より上位の者を察知して媚びているに違いない。
「犬を見下すから見下される。愚かな男だ」
「犬ッコロのことなんかわざわざ見下しやしませんよ。俺のほうがデカいし、前足じゃなくて手があるから料理もできるし」
犬にマウンティングをしていると、近くの部屋の襖が空いて、女が出てきた。
そこは典雅の部屋であり、女は色舞であった。斎観をちらりと見たが、神無に向かって会釈をする。
「ごきげんよう、神無様。あらワサビ、よかったわね、遊んでいただいているの」
神無は軽くうなずく。犬は神無に寄り添ったまま、色舞を見上げてしっぽを振った。
空気の読める色舞は、それ以上話しかけてくることはせずに、廊下を歩いて行った。
「誰だ?」
「典雅様のお嬢さんで、色が舞う色舞ちゃんです。典雅様は和服のハンサムで、あなたの好きなお顔ですよ」
「典雅はわかる。子どもか。似ていないな」
「似てる息子さんもいるんですが、中身もお父さんに似て、女があんまり好きじゃないらしいです。鼻こすりつけたらダメですよ」
「ふん」
忘れているのだろうが、何度かこすりつけているのだ。そのたびに迷惑そうに抗議され、謝罪しているのは斎観なのである。
「あの娘に振られたのか」
「おい、お手」
ワサビは無視して神無の足に顔をくっつけている。
「お前さあ、ここでお手しなくていつすんの? 働かざる者食うべからずって言葉知ってる? 誰のおかげで三食食えてるかわかってんのか?」
モラハラを見舞っても犬はすまし顔であった。神無は笑い、犬を撫でる。
「利口な犬だから、お前でなくとも誰かが養う。赤子の愛らしさと同じよ。この犬には生くる力がある。雨も嵐も、この力に及びはしない」
「誰でしたっけ、雨の日にどうこうっつうの」
「万羽には水の災いがある。口に入れるものに気を付けることだ」
はて、それは初めて聞く気がするなと思ったが、まあ誰でも飲食物には気を付けたほうがよかろう。
かつて神無の予言は百中を果たしたが、心身の悪化とともにそちらの精彩も欠くようになった。いつしか斎観の姉が占いを中てるようになり、そのことを不自然にも感じない。霊感を自称する女はありふれている。中には本物もいるだろう。
「どこの木を射ている?」
「姉ですか?」
聞いてから、姉以外に木を射ている者はいないなと思って続けた。
「裏口からちょっと上がったとこだと思います。いつもそのへんで練習してますね」
「近いのか。危ない」
「ちゃんと上がる道をテープで封鎖してますよ。馬鹿じゃないんですから、道の側には射ませんし」
「犬はテープなど知ったことではなかろう」
「ああ、だから急にそいつを気になさったんですか。今まで事故起きてないんで、大丈夫なんでしょう」
「おかしな論法だ。すべての事故は、起きるまでは大丈夫なものだ」
「まあ、そりゃそうですが」
三百年、無事故で車を運転していようが、一度崖を滑れば記録ストップである。死ぬまでは生きているとも言えた。
犬は、自分の身を案じられたことがわかったというのか? きらきらと潤んだ目で神無を見上げている。なんだこの犬。斎観は架空のしっぽを膨らませて威嚇した。
「犬に妬くな、でかい図体をして」
「ちょっと図体が小づくりで可愛いからっつって、俺と白威を飛び越せると思われたら困るなあ? ワンさんよお」
犬に向かってオラついてみた。神無が笑う。今日は機嫌がいいようで、斎観も冗談の飛ばし甲斐があるというものだ。
良い日ばかりではない。未来は明るくはないだろう。しかし今は楽しい。
斎観は寛大な心をもって、恩知らずの犬のことも許した。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。