蝶のように舞えない 17話
長身の男だ。
高価そうな黒のスーツや、高く結った長い髪、端正な顔立ち。この男を見て、最初に感じることはそれぞれ違おうが、蘭香はまず思った。これほど頭身の高い男であったかと。
正月に会う親戚の子供は、大きくなっているものだという。まさか今さらまた背丈が伸びたというわけでもあるまいが。
三年、五年、十年とは行かないか? 前に会ったのは、いつであっただろうか。
「相変わらず可憐だ、蘭香」
その声は懐かしく響いた。
小豆を炊いていた蘭香は、まず鍋の火を止めた。
礼をする。
「お久しぶりです、宣水様。本当に」
「料理の邪魔をしてすまねえな。何人かと会ったが、目を背けられた」
「まあ、それは失礼いたしました」
この男の姿と名を知らぬ、若い者であろう。血族に列していることは見ればわかる。しかし誰の血筋かはわかるまい。この男の子供は、親族の誰にも似ていない。
様子からして、玄関からこの台所へ直進してきたらしい。誰も出迎えなかったということは、一報さえ入れず、突然帰国したのだろう。宣水の里帰りはいつもそうだと祖父が愚痴を言っていた。
「お茶をお持ちしますので、客間でお待ちくださいな。祖父を呼びますか? それとも和泉様を?」
「厚意に感謝を、喫茶は遠慮する。そしてお前にはこれを」
唯一の手荷物である、大きな黒い紙袋から、ピンク色の小瓶を取り出した。
蘭香は男に近付いて、それを受け取った。剥き出しではあるが、新品の高価なマニキュアだ。色もやわらかなローズピンクで可愛らしい。
「どうもありがとうございます。だいぶ早いサンタクロースですわね」
「お前に似合うだろう。奥に行っても?」
「わたくしどもの、そしてあなたの実家です。ご自由に」
「セキュリティに問題があるな」
「その通りですので、せめてご用件を教えていってくださると、有事の時のわたくしの責任が軽くはなりますわ」
蘭香に責任が発生するのは、もう会ってしまったためだ。台所へ行ったと証言する者もいよう。記録を取り消すことはできない。秘密は二人の間でのみ守られる。三人目が現れれば、その花園は観測されて、雑草畑とも言われよう。
三人目さえいなければ、あらゆる秘密を守ってくれそうな色男は、微笑んだ。それは典雅とはまた違う、海外式の親しさを示す優しげな表情で、蘭香はときめいてしまった。不覚だ。
「豪礼様にお目通りを」
「様?」
その男と、この男とは古馴染みにあたる。気安く名を呼び交わしていたはずだが。
「この屋敷では次期長老と呼ぶんだろう。そしてそれを敬う習いだ。郷に入れば郷に従う」
「そうしたことを気にしてくださるのでしたら、まず長老のほうに挨拶をして行っていただきたいのですけれど」
「まさしく、お前の祖父をどうこうしようという陰謀に呼ばれたんだが」
「まあ」
これは、どういった指し手であろうか。蘭香は男の鳶色の目と、手の中の薔薇色のマニキュアとを交互に見る。まさか経皮の猛毒などという、中世のヨーロッパのようなエレガントな武器でもあるまいが。
この男は知恵者だ。そして化け物である。知恵だけで化け物になれる、そのポテンシャルを誰もが恐れた。
「豆を煮ているのか。美味そうだ」
「あんこをお忘れに? 甘いですわよ。餅にでも添えてお出ししましょうか」
「甘いのなら要らん。そうだな、この国の菓子は甘い豆によって形成されるんだった」
日本語としては正確ではないが、概念としては的を射ている。甘い豆なくして、少なくとも今日の和菓子は成立しない。
「わたくしの祖父に害をなすおつもりでしたら、この煮えたぎった豆をその海外の俳優っぽいお顔にぶち撒けますわよ。粘性ですからよく焼けますわ」
「熱い豆で撃退されるというのは、童話的だな。突拍子のないところが」
「チョークを飲んで声を変えるというのは、翻訳段階でのミスを疑っているのですが、実際のところはどうなのですか?」
「Chalk? 岩石を? 飲むのか」
この知恵者はおとぎ話には詳しくないようだ。だから童話に対するイメージが適当なのか。たしかに七匹の子ヤギは、グリム童話の中でも、白雪姫ほどは有名ではない気もするが。
「あなたのラプンツェルも後回しですか。冷酷な父王ですわね」
「土産を山と買ってきた」
「そういったことではなく。陰謀を話し合うより前に、娘の顔を見ようとは思いませんの? 見がいのあるお顔でしょうに。別に血が繋がっていなかったとしても、見られるなら見たほうが得をするほど美しいですわよ」
「ならば見よう。しかし、先に次期長老だ」
蘭香は鍋を見る。見ておりますのよというジェスチャーだ。
宣水は蘭香の、マニキュアの瓶を握っているほうの手に触れた。
「通してくれるか?」
「色仕掛けでわたくしが、祖父への悪意を見逃すと?」
「お前の祖父は善良な男だ。俺に悪意などない。ただ誘われただけだ。イーピゲネイアでも差し出されるのかもしれんな」
「なんですって?」
イー何だかを聞き取れなかったという意味で言ったのだが、内容を咎めたと解釈されたらしい。手を軽くトントンと指で叩かれる。長い、いかにも女をたらしそうな指だ。
「アガメムノーンをなだめるために来た。あの女は美しいが、生贄とわかっている女など抱く気にならない。それに父親に似ている。グロテスクだ」
アガメ何とかも聞き取れなかったが、言わんとすることは理解できた。より高位の教養で殴り返されたのだろうということも。
「あなたをまさか、女で懐柔できるとは思っていないでしょう。満腹でしょうに」
「美味ならばそのために胃を空けられる。フランス人ならば」
「日本人もそうですわね。別腹という言葉がありましたわ」
「まさしくそういう意味だ。英語にも同じ概念がある。オランダ語では知らんな。つまり、生贄に空けるスペースはないから安心しろと言いたいんだ。お前が来てくれるのなら空けたい」
いつの間にか耳元でささやかれている。ぞくぞくと甘い鳥肌が立つので、蘭香は自分の首を手で払った。こんなものは虫と変わらない。
「生贄ではなく、合意の好色女が用意されていたら、どうなさるんですの」
「それは抱くかもしれねえが、お前の言うように、俺は女では動かない。金でも。足を斬られたとしてもだ。俺の心はここにはまつろわない」
その点においては確かに信用できる男ではあった。糸の切れた凧という言葉はフランスにはあるのだろうか。カイトとは何語なのだろう。
ノンポリティカルとはこの男のためにある英語だ。用法としては和製英語に近いか? どこにも属さぬ男だ。
「なだめていただけるので?」
「できる範囲でだ。此紀が死んだ以上、俺しかあいつのことを理解できない。二時間経って戻らなければ、俺の足も斬られたと判断して和泉を寄越してくれ。最期ならばあいつの顔を見たい」
「わたくし、二時間ここにいるわけではないのですが」
「では斬られそうになったら大声をあげるから、駆けつけてくれ」
「承知いたしました」
答えながらも、二時間ここにいようと蘭香は思った。祖父を助けてくれるかもしれない男だ。耳も澄ませていようと考える。豆はもう少し煮て冷ます。爪でも塗って時間を潰そう。
煙草を吸いたいと、西帝は考えている。
盲人としてのレクチャーなど受けたことはないが、全盲の喫煙者は存在するはずだ。視力は後天的にも衰えるし、それで依存症が治る道理もない。
しかし、けして推奨されまい。火傷は仕方がないとして、火の不始末の代償は、自分の命ばかりでは支払いきれない。
吸殻の火というものは、視認できない者にとって、消えたかどうかの確認は困難だ。缶などに水を溜めておいて、そこに放り込めば確実だと姉に訴えたことがあるが、なぜか却下された。ニコチン毒が溜まるためだと、最近になって気が付いた。色舞によって。
目の視えない者のそばに、猛毒があって良いことは何もない。
西帝は兄がそばにいる時だけ、既定の喫煙所で煙草を吸える。姉のそばでは吸う気にならない。姉は吸うのだが。
「兄ぴ……」
煙草を吸いたいあまり、恋する乙女のようにつぶやいてしまった。
兄は留守だ。代わりに父が在宅している。姉も忙しいようだから、西帝はひとりで自室の長椅子に寝そべって、兄が早く帰ることを願っていた。ワイヤレスイヤホンの充電が切れたからラジオの録音も聞く気にならない。
だから気付いた。廊下から足音が近付いてくる。男だ。細身で長身、足も長い。洋装で紙袋を持っている。
誰だ? シルエットは兄に近いだろう。しかしもっと足取りが軽快で、西帝は少し恐ろしくなる。知らぬ男だ。そんなものが屋敷を闊歩しているわけはなく、つまりエラーである。幽霊だ。
「失礼!」
幽霊がすぱんと西帝の部屋のふすまを開いた。西帝は身体を起こす。
「マジで誰なんだ!」
西帝は声で屋敷に住まう者の全員を判別できる。知らぬ声。本当に幽霊だ。
幽霊は西帝の長椅子のそばまで近付いてくると、畳に膝をついた。いや、そうだ、足がある以上、幽霊ではないのだ。幽霊観のとぼしい西帝はそんなことを考えた。
「間の抜けたサンタクロースだ。久しぶりだな、西帝」
「あー」
声の記憶ではなく、算出で割り中てた。条件に該当する者はひとりしかいない。
「宣水様ですか」
「そうだ。すまない、ここでも視えないか? 名乗りながら入ってくるべきだった」
「いえ、名はあとでいいので、入っていいかどうか聞いてから入ってきてくださいよ。目が視えなくたって性欲はあるし、やましいことしてるかもしれないでしょう」
「豪礼が、行っていいと言ったから来たんだが」
父の許可は西帝の許可ではない。が、小理屈を言っても仕方あるまい。西帝はまぶたを閉じて会釈した。手でサイドテーブルを探ると、そこにあったサングラスを弾いてしまった。
宣水は拾って手渡してくれた。装着する。
「どうも。すみません、服もテキトーだな」
「構うはずもない。起きて平気なのか?」
「はあ、ヒマなのでぼんやりしてただけです。近い、顔が。耳はちゃんと聞こえますよ」
「近くならば少しは視えると聞いたから、すまないな」
穏やかに言って離れた。父や兄のように特徴のある美声というわけではないが、包容力のある豊かな声である。接客業や介護職、その中でも特に適性を持つ者の、あなたを愛していると一瞬で伝える声。それはもちろん性愛ではなく、アガペーというものであろう。こんな声の持ち主であったのか。以前は気が付かなかった。
つまり、前に会ったのはまだ目が視えた頃で、相当前だ。西帝の師の葬式にも来なかった。
「お久しぶりです」
「ああ。美しくなったな」
「女だと思ってます? ときどき間違われますけど」
「どちらであってもだ。香水は使わないか? 水煙草はどうだ」
「最高だぜ」
水煙草という言葉は初めて聞いたが、最高なような気がしたのだ。
「それは察するに、火を使わない煙草ですね?」
「いや、正式なものは葉を燃やす」
「燃やすんかい」
「これは簡易携行式の、火を使わない電子タイプだ。紙巻き煙草くらいのサイズで、充電式。使い捨てのリキッドアトマイザーを接続して、水蒸気を発生させて吸う。加熱式と違って熱くはならない」
「ほほう」
がっかりした気持ちがまた上向いてきた。それにしても、欲しい情報を適切に伝えてくるものだ。介護職のセンスがある。五分前はゼロであったのに、急成長だ。
「そんな最先端っぽいものをいただいてしまっていいんですか? お高いんでしょう」
「そう新しくもないし、高価でもない。日本でも同じ仕組みのものは売っていると思う」
「ほう、全然知りませんでした」
「そもそも加熱式の煙草を知らないか? あれは燃焼させないから火を使わない。人里でももう一般的に吸われていると思うが」
「ほほう!」
名に違わぬ宣教である。あとで調べてみようと考えた。
しかし客観的に見れば、視覚障害者に火を使わぬ煙草を教える者は、悪に類するような気もする。いや、それは知の否定であり、失楽園の脅迫か。
蛇にリンゴを教わっているとしても、西帝にとっては福音だ。
「今日は、此紀様にお線香でも?」
「お前に会うために来た」
「はあ、どうも」
伊達男ジョークだと思ったのだが、続きは発されなかった。
不安になる。
「目の視えない女がお好きとか……?」
「違う。お前が女ではないこともわかる。正確にはお前と、お前の父に会うためだ。お前は苦労しているらしいな」
「え? いえ、別に。もう慣れましたし」
「目のことじゃない。触れても?」
「どこにですか? けっこう怖い」
「ならば触れない。頭痛があると聞いたから、ヒーリングタッチを試みようとしただけだ」
「やべっ。どこかに入信しました? あなたならもう幹部でしょう」
「いいや。手当ての語源だろう。他者が手を当てるだけで和らぐ痛みもある」
「お気持ちはありがとうございます。今は痛くないので、大丈夫です」
障害者に親切なタイプであったらしい。以前は、これほど距離を詰められたことはなかった。親戚のおっさんの中では、父の友であるから、ぎりぎり親しいほう。その程度の男であった。
「お前は宗教に詳しいのか? あるいは療法に」
「いいえ、まったく。その方面は特に浅学です」
「森田療法はわかるか?」
「うっすら聞いたことあるかな? なんか、うつ病とかを自然に任せて治そう的な、そういう?」
「なるほど、うっすらだな」
西帝は音声読み上げのソフトによって本を読むが、その手のものはさっぱりだ。興味がない。わずかに、兄の気鬱を晴らす手掛かりにと思い、数冊読んだくらいだ。ちなみに結果は無意味であった。
「祈祷性の精神病というものがある。恐山のイタコはわかるか。目の不自由な巫女が、死者の霊を下ろすという」
「あーっ、言いたいことが全部わかった」
そのため両手でバッテンを作った。
「大丈夫です、困っていません」
「そうか。フランスは好きか?」
「好きとか嫌いとか考えたことないです」
「俺とパリで暮らさないか」
「全部何!?」
全部わかったと思った五秒後に全部わからなくなった。乗ったことがなく、これからも乗ることのないであろう、ジェットコースターというものを西帝は想起した。
「本当に全部何なんですか?」
「お前の父はお前のことを心配している。敵の多い男だ。お前は自分の身を守るすべを持たない。いいや、ないということはないな。だが、普通よりもかなり少ない」
「すごい! 全部わかった」
ジェットコースターであり、スイッチだ。オンとオフが完全に分かれている。
「お前の姉も賛成している。兄には、お前から話すようにと」
「姉を出されると弱え~よ」
父のことはどうでもいいが、姉と兄は西帝のウィークポイントだ。自分が彼らのウィークポイントであることが、西帝をそうさせる。円環だ。悪循環とも言う。
西帝は、多くのことにこだわらない。視力をほとんど失ってからは特にそうなった。
どうせ、自由に屋敷からは出られぬ身だ。そこが日本であろうが、ヨーロッパであろうが、たいして変わらぬ気はする。イヤホンでラジオを聞き、読書をして、電子性だかの煙草を吸う。先進国であるならば、どこでも成就する望みだろう。
それで円環が切れるのならば。兄の心を西帝から離すには、まず物理的に距離を置いた方がいいということもわかっている。
「皇ギは会いに行くと。少なくとも、半年に一度は。電話もすると」
欲しい情報のすべてだ。介護に向いている。兄よりも。
西帝は、この男とならば暮らしていけるかもしれないと考えた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。