蜂の残した針 19話
赤ん坊というのは、こんなものだったか。
小さな弟がようやく泣き止み、眠ったことにほっとして、西帝はそんなことを考える。
これほど軽く、これほど顔をくしゃくしゃにして泣くものだっただろうか。もっと重たく、もっと頬が丸く、もっと可愛らしかった気がするが。
甥が特別に可愛らしい赤子であったのか、記憶が美化されているのか、それともまだ少年であった自分が物事をよく見ていなかったのか。
どうも、三つめであるような気がする。自分の見る目のなさを、つくづく痛感する日々だ。
西帝の部屋に赤子を連れてきた姉は、長椅子にもたれて居眠りをしている。自分だけ安らかだなと、嫌味のひとつでも言ってやりたいが、そうすれば弟がまた起きて泣き出すだろう。
姉という女のことも、もう少しは面倒見がよいと思っていた。世話をしないわけではないのだが、長く泣いたりすると、西帝や兄に預けにくる。そしてよく泣く赤ん坊なのだ。昼となく夜となく、まるで母を恋うかのように泣き続ける。
こんなもんだろと兄は言うが、西帝はうんざりしている。三人がかりで世話をして、これだけ疲れるのだから、ワンオペの者などはさぞつらいことだろう。
手がかかるというよりも、目が離せないという時期だ。いつうつぶせに転がり、息が詰まるか知れない。慈しむというよりも、その責を負わされるのが恐ろしい西帝は、こうして弟を抱いている時間が長い。
「寝たの……?」
姉が目をこすりながら、小声でつぶやいた。
「今やっと寝たよ。姉さんほど寝つきがよくないんだな」
「昨日の夜はずっと泣いて、あたしが見てて大変だったんだから。よくあんな大きな声で泣き続ける体力があるものね、こんな小さい身体で、ぎゃあぎゃあと」
「他の何にも体力を使わないからだろ。そのうちどうせ、俺よりも大きくなるんだろうよ」
それは瞬く間であろう。桐生はこの前まで四つ足歩行だったのだ。いつの間にか二本足になり、西帝の背丈を追い越した。そして今では、一丁前に女を守って暮らしているらしい。
姉は立ち上がると、近付いてきて赤ん坊の寝顔を覗き込んだ。
「桐生ほど可愛くないのよね」
「あ、やっぱりそう?」
「赤ん坊の時の顔なんかどうでもいいけどね。将来美しくなればいいのよ」
「美しくなくたって、健やかであればいいとか言うべきだろ」
「わざわざ醜くなる呪いをかけることないじゃない。祝福なんて多い方がいいんだから」
善意が悪辣さに見える性分なのだ。そして、それで得をしている不思議な女である。
「どうして赤ん坊って鉄くさいのかしら。もっといい匂いをさせればいいのに」
「血しか飲んでないんだから、当たり前だろ。赤ん坊がいい匂いなんかさせてたら、捕食者に狙われるリスクばっかり上がるだろ」
「里の子は甘い匂いがするらしいわよ。ネコなんかも日なたの匂いがするじゃない。犬は臭いけど」
「だから、掟で禁じられてなきゃ食べるだろ。俺たちが赤ん坊を。上位捕食者を喜ばせてどうするんだよ」
どうでもいいことで苛立っていると自分で思う。育児疲れというものか。
姉はガーゼのハンカチを取り出すと、赤子のよだれをそっと拭った。
「醜くたって別にいいけど、子供がだんだん美しくなっていく姿はいいものよ。あんたは前髪を切るのを嫌がって、せっかくの顔が見えなくてつまらなかったわ」
「昔の話だろ」
「先月までの話よ」
別に前髪を短くしたわけではない。ピンで留めているのだ。赤ん坊の世話をしている時、顔にかかると煩わしいからだ。
「万羽様が、いつでも預かってくれるって言ってたけど」
「夜泣きでただでさえ迷惑かけてるんだから、これ以上借りを作るのはやめなさい。食えない女よ」
「そんな悪いかたじゃないよ」
「この子はあんたに似ればいいわね」
突然褒められて、西帝は照れた。姉はハンカチを畳みながらつぶやく。
「斎観も桐生も、女にコロッと手懐けられて、やってられないわよ。あたしのそばにいればいいのに、根性がないのね」
「根性って。いつまでも家族にべったりはしないだろ、そりゃ」
「どうして? いいのよ、ずっとべったりしてても。あたしが幸せにしてあげるんだから。ちょっと痛いのくらい我慢しなさいよ」
何を何で比喩しているのかわからない。兄と甥が我慢できなかった痛みを、西帝は耐えているのだろうか?
「要するに、姉さんは寂しいの?」
「あたしのことなんかどうでもいいのよ。愚行権の話。この子には、できれば愚かにならないでほしいわ。吹雪に裸で駆け出して、風邪をひいて死ぬのを眺めるなんて、馬鹿馬鹿しくてストレスが溜まるのよ」
なんとなく、桐生のことを言っているのだろうとわかる。
姉は神秘の力を持つ女であるらしいが、そのこととは関係なく、骨太な世界観を有している。体育会系なのだ。西帝の師と通ずる気配がある。
鬼コーチの、そして教祖の素質というものだろう。率い、痛みをもたらし、そして幸福を与える側だという自覚があるのだ。逃げる羊のことも意外に追わない。
なんとまあ高みにいることだと、地に暮らす西帝などは呆れながらも感心する。幸せだの痛みだの愚行権だの、そんなことを考えているから頭も痛むのだろう。
「最近はあの不吉な占いやらないの?」
「女へのプレゼントを金か銀で迷ったら、金にしなさい」
「アクセサリーって重すぎない? 思いつめててキモッとか思われそう」
「そう思われるくらい進展してないならやめなさい。プレゼントはあくまで自分の好意を示すものであって、相手の好感度を稼ぐ手段じゃないから」
「言うことにパンチがなくなったね」
姉は微笑むと、赤子を抱くのを代わってくれた。
「ああいう澄ました女に限って性欲が強いのよ。溜まってそうな時に押し倒して、そこで上手くやればなし崩しよ」
「赤ん坊抱きながら言うことかよ。それでなし崩しになって、俺は何を得るんだよ」
「いつでも抱ける女が手に入るじゃない」
「そんなもんいらないよ、兄貴じゃないんだから」
「わからないわね」
作り物のような女言葉を頑なに使う姉は、子を抱いていても母親には見えない。女優が映画の中で、預かり物を扱っているかのようだ。
「抱きたいわけじゃないのに、女を好きになるの? それはいいとして、手に入れたいとは思うんでしょ」
「思やしないよ」
「斎観から奪ったじゃない」
「知らないよ、向こうの心の働きは。横取りしようと思ったわけじゃない」
言いながら、これは少し嘘だなと考える。少しどころか、だいぶ嘘だ。取るぞ、絶対にと思いながら眠りについた夜が幾度もある。
しかしまだ、取れてはいないのだ。兄と別れてくれただけである。それは彼女の気まぐれに過ぎないのかもしれない。
金のアクセサリーなどいったい幾らするのだろう。あまり貯金はないが、とにかく、調べてみようと考えた。
焼いた餅にバター醤油をつけて食っている師を、和泉は注意深く観察している。
師は布巾で手を拭いながら、むっとした顔で抗議した。
「詰まらせやしないっつうの」
怪しいものだ。老の中でも老なのである。肺も弱っているから、詰まった時にリカバリーもできまい。
「餅くらい食わせてくれ」
「召し上がっているでしょう、三つめを」
「もっと自由にという意味だ。いてもいいが、そうあからさまに監視するなよ。お前も食えばいいのに」
「炭水化物は苦手なんです」
「意識高いっぽく聞こえるな。どうせ消化できないのに」
益体のないことを言っている師の湯飲みに茶を足した。
「白鷺は食うけどな、餅を」
「最低なジジイ……」
他の女と比べて、目の前の女を批判するというのは、許されない悪徳である。和泉はむくれた。
「妬いてんのか?」
「は? 怒っているんです。いいように解釈しないでください」
「怖っ。そんなに怒んないでよ~」
まあ、この老爺にデリカシーがないのは今に始まったことではない。怒るだけカロリーの損だと、和泉は気分を切り替える。
「四つめを焼いてきましょうか?」
「今日はもういい。美味かった。きなことかで甘くしたヤツも食いたいな」
「明日はそうします。きなこがなければ、あんこでもいいですか」
ヤダヤダと師はジェスチャーした。そういえば、小豆が嫌いなのだったか。
「では、あとできなこを買ってきます。他に用事はありますか」
「面白い話をしてくれ。ゴシップ系がいい」
「買い物の用事を聞いたんですが……ゴシップですか。芸能人の?」
「いや、身近なやつをくれ」
「桐生君は経済的に苦労しているようです。先生は若い頃からお金をお持ちですから、生活水準を下げられないらしいですね」
「ふうん、つまんない躓き方だなあ。典雅が聞いたら喜ぶだろうが」
「喜びませんよ」
彼は姉弟子を独占したかったわけではないのだ。彼なりに良かれと思うことをして、それでも競合相手に勝てなかっただけだ。新しい男との暮らしが破綻したからといって、それみたことかと喜ぶ男ではない。
「少し援助してさしあげることはできませんか? 幹部会から」
「簡単に言ってくれるが、ぜいたくな暮らしをしたいから金がいると言われて、どこの予算を割けというんだ。此紀から申請があれば、これまでの慰労金として少しは出してもいいが、桐生の泣き言なら聞く耳を持てない」
「同一世帯でしょう。何が違うんですか」
「寝たきりの老人連れて山を下りて、俺たちから金をせびろうとするやつが出てくるだろ。目の届かない場所に行った以上、桐生の行いはすべて自称だ。それが山を下りるということなのだから」
筋は通っている。和泉は少し切ない気分になって、それから言葉を付け足した。
「桐生君が泣き言を言ったかどうかはわかりません。苦労しているらしいと、なんとなく聞いただけです。彼はプライドが高そうですから、言わない気がしますね」
「無理なら無理で、早くギブアップして戻ってくれないと困るのだが。いつの間にか此紀が死んでたとかいうことになったら、万羽が出陣しちゃうぞ」
「あの年齢の方が亡くなって、責任を負わされるのも酷ではありませんか」
「だから、山を下りるというのはそういうことなのだ。弱者を支えるというのもそういうことだ。典雅が長老継承権を失いながら、ここを出て行かないのも、出ればより悪くなるからだ。俺たちは、俺たちを捨てた者を厚遇しない」
「私の父は冷遇されてはいませんが」
「あいつの名前の権利書がたくさんあるからだ。結局、これの話なのだから」
この世はすべて金、のハンドサインを作っている。
確かに、すべて金の話だ。もっと愛とか屈折とか、そういった問題のような気がしていたが、さすがに年の功で、問題の本質をよく見ている。
「重い話は疲れる。もっと無責任に面白がれるゴシップをちょーよ」
「なんだろう……万羽さんが従者にいよいよ愛想を尽かされそうらしいですが」
「とうとうか! あそこ酷かったもんな~。むりやり右近から取ったわりに、待遇ひどくてさあ」
前傾姿勢になっている。いやしい趣味だ。薬草を摘んで楽器を演奏していれば、絵画のような美少年であるのに、餅を食ってゴシップで喜んでいると俗物の極みだ。
「万羽は金持ってんのに、男に自由を与えるのが嫌なんだよな。めっちゃDV体質で、そりゃ従者もキツいだろうよ」
「不器用な方なんですね」
「不器用って、なんか擁護的な含みがある言葉で嫌なんだよな。モラハラDV女を不器用呼ばわりされたら、その被害を受けてる従者はたまらないだろ」
「ああ、確かに」
深く考えずに使った言葉であるが、これは一理ある。うまく表現できぬだけで、心はあたたかいとか、そういう連想を呼ぶ言葉だ。
「けっこう言語感覚が鋭いですよね」
「意外に、という含みがあるな」
「含ませました。ほかは、どういうゴシップがあるかな……。西帝さんがお兄さんの女を寝取ったという話は?」
「え? 知らない。詳しく」
「見かけによらず、かなり床が上手いそうです。それで色舞さんが鞍替えを」
「マジか。西帝って上手いの? ぜんぜん見えんな。へえ、ふうん。女ってそういうところ現金だよなあ。兄弟を両方食って、上手いほうを選んだのか」
「噂ですから、どこまで正確かはわかりませんよ。より丁寧に扱ってくれる男を選んだことで、そんな言われようをされるのは不当ですし」
「でも兄弟いくか? そういう感じの女だとは思わなかったけどなあ。えーっ、お前はどうするう? 俺より上手い男が現れたら」
自分のことをそこそこ上手いと思っているのか? その言葉は、さすがに思いやりでこらえた。
「どんな男が現れても、あなたを選びますよ。ずっと」
師は餅が喉に詰まったような顔をした。もう食い終えているのだが。
「なんですか」
「いや、そんなステキなセリフを読んでくれるとは思っていなかった」
「セリフを読んだことはわかるんですね」
実際、他の男を選ぶことはない。和泉はこの師のことを愛している。しかしそのことと、口に乗せた言葉は関連しない。
「器用さというのは、セリフを読むだけの能力だと思うことがあります。賢いオウムでも、あなたを愛しているくらいのことは言える。そのセリフに愛を感じてしまう者は、器用ではないでしょうね。相手の心を察する能力もない。セリフに踊らされるのがお似合いです」
「誰をdisってんの? 俺?」
「昔の自分です。父はセリフの男でしょう。あれに一喜一憂した頃もあったなと思うと、恥ずかしいですね。──だから父は万羽さんのことが苦手なのかな。セリフが通じないから」
「そんなに嫌悪器官が発達した男か? 単に、権力争いに関わりたくないだけじゃないか。知らんけど」
父のことを論じるのもカロリーの損であるから、和泉は話題を変えた。
「今年の抱負はなんですか」
「餅をたくさん食う」
「もっと脳を使って喋ってください。一分待ちますから」
「うーん、生きるだけでいっぱいいっぱいなのだから、そんな立派な志を求めないでほしい。生きているうちにあと何個餅を食えるか、本当にわからん身なのだから」
「すぐそのカードを切るのはずるいですよ」
百年ずっとこの芸風なのだ。死ぬ死ぬ詐欺と白鷺は呼んでいる。
師は一分と数十秒考えてから、セリフを読んだ。
「お前たちを大事にする」
「まあ、いいでしょう」
どうせセリフなのだから、お前を大事にする、と言ってくれてもよかったと思うのだが。
しかしこの気の利かなさも、師の持ち味であろうと、和泉は微笑みながら考えた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。