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蜂の残した針 5話


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 目を覚ました時、隣にいた男の肌の匂いを感じて、此紀は安らいだ気分になった。

 雪見障子に入る光からして、そろそろ昼だろう。夜明けまで付き合ってくれる男はいても、この時間まで寄り添っていてくれるのは、弟弟子のほかはこの男だけだ。

 相変わらず、端正な寝顔だ。久しぶりに見るような気がする。色舞がんでくれたのだろうか。

 男の頬にそっと触れる。まつ毛が長いのよねと思っていると、そのまぶたが開かれた。鳶色の瞳が此紀を見上げる。

「昼か?」
「たぶんね。二時には従者が来るから、もう少ししたら起きてもらえる?」
「ん? 今は従者がいないと聞いてたが」
「豪礼が責任を取るから、また取っていいということになったのよ。身の回りの世話もね、色舞にさせてるのも悪いし」

 斡旋されたのは豪礼の孫であるから、実際はお目付け役ということだろう。しかし利発な若い男で、よく言いつけも聞くから、しばらくは使おうという気になっている。顔もよい。

 そうかと言って、宣水は目を細めた。

「よかったな」
「そうね」

 素直に返事をした。二人の昔馴染みの前でだけは、此紀は何も考えずにいられる。

「まだ何日かいる?」
「決めてねえが」
「いてよ」

 布団の中で足を絡める。色気の通じる男ではないが、通じるふりをしてくれるのが長所だ。

「いてもいいが、暇で仕方ない。お前たちはこんな山の中で何をしてるんだ」
「豪礼におもしろい映画でも教えてもらって、配信サービスで見てりゃいいじゃない。私のアカウント使っていいから」
「映画はあんまりな」
「夜はすっごいことしてあげるから、昼はなんとか時間つぶしてよ。庭の草むしりとかしたら、刹那から日給が出るわよ」
「そうか? じゃあそうするか」

 この男の操縦法を知るのは、自分と豪礼だけだろう。

 頼めば聞いてくれるのだ。それだけである。少しでも持って回った言い方をすると駄目だ。たちまち論破される。

 取り引きや陰謀を抱えず、ただ率直に頼みごとをする者というのは、存外少ないものだ。特にこの男に対しては。

「素手でむしらないのよ、手が切れるから。ちゃんと軍手を借りなさいね」
「グンテ?」
「知らないの!? まあ、手袋よ。業務用の? そういえば私も定義は知らないけど」

 かつては軍用の手袋を指したのだろうか? あとで調べようと考えた。今は、あまり山に居つかぬ旧友の胸に甘える。

 思えば、この男がいたから自分は女として生きることを決めたのだ。もう二百年も前の話であるが、忘れるものでもない。

 別に、それほど愛したわけではない。何かを誓い合ったこともない。ただこの友が、優しく触れたから、お前は美しいと言ったから、この身体で生きようかと思っただけだ。それを呪いと言う者もあるかもしれないが、祝いであったと此紀自身は思う。

 もう一人の友が乱暴であったから、優しかったこちらの記憶が美化されているのだ。そのこともわかっているが、それを込みで、大事な思い出だと感じている。

「あんたは昔から変わらないわね」
「手技か? 性格か?」
「手技は良くなってるわよ。そういうことを言う性格は、そうね。変わらないわ」
「お前の手技もすばらしかった」

 宣水のほうも、此紀に対しては美辞麗句がやや雑だ。一応言っておくかという程度のいい加減さが感じられる。
 互いにもう飾らないのだ。此紀はこの男のためにはわざわざ化粧をしようと思わないし、宣水はどうやら二度寝をするつもりらしい。

「起きてよ。従者が来るって言ったでしょ」
「見られて困る身体じゃない。ゆうべ激しい女に絞られたから、疲れてる」
「喜んでたくせに」

 首を軽くくすぐる。
 くすぐり返された。

「きゃあ」
「ふふ」
「だめ、あんまり大きい声出させないで……万羽が聞いたら二乗のやきもちを妬くんだから」
「妬かせておけ。あいつももういい年だろう。いつまでも甘やかすな」
「冷たいのね」
「お前は熱い」

 本当に適当なことを言っている。もっとくすぐってやろうと身体を起こした。

 すると、雪見障子のガラスの向こうに、しゃがんでいる万羽の姿が見えた。スカートだからパンツが丸見えで、眉をきゅっと寄せている。

「あーあ」

 此紀が声を漏らすと、宣水もそちらを見た。

 万羽が障子を開ける。

「先生!」
「なんて野暮な女なんだ、お前は。この姿を見て開けるな」
「なによ、朝から! もう年のくせに! たいしたエッチしないくせに」

 ほう、抱いたのか。少し感心したような気分で男を見ると、珍しく不機嫌そうに顔を曇らせていた。

「完全に憶測でものを言うな。俺がお前を抱いたと思われるだろ」
「なに言い訳してんのよ!」
「だから、抱いたかのような言い回しをするな。わざとか? お前はそういうところ、昔から性根に問題があるな」
「いーだ!」

 かしゃんと乱暴に障子を閉めて、万羽は走り去った。

 宣水は眉間を揉んで、それから此紀を見た。

「抱いてねえぞ」
「そうでしょうね。でも、あとで弥風からお説教があるわよ」
「俺に落ち度があるか?」
「女を寂しがらせてる男は、それだけで悪いわ」
「お前が抱いてやればどうだ」
「そうしてるわよ、たまにだけど。でも男にしか埋められない穴があるでしょう――物理的にも、精神的にも」
「知らん。俺は持ち合わせてねえからな」

 話を続けたくないというように、目を閉じている。
 近頃すっかり老練が板についたこの男の、若い頃の姿が重なるようで、此紀は少し笑った。




 女が大男にしがみつき、高い声でキーキーと喚いているのを横目に、才祇は父の部屋へ茶を運んだ。

 座卓で書き物をしていた父は、ありがとうと言って湯飲みを受け取った。そうしても火傷をしない温度にしてある。

「騒ぎは何だった?」
「万羽様がおヒステリあそばされて、豪礼様に何やらおダダをおこねあそばされているようですね」
「じゃあつまらないことだな」

 父は卓上の紙を重ねてまとめた。書いたものを隠したのだろうと理解しながらも、才祇はひとまず尋ねてみた。

「何を書かれていたんです?」
「ないしょ」
「誰にかわいい言い方をなさっているんですか」
「ほんとは恋文」
「今時、手書きでそんなものを寄越されたら恐ろしいでしょう。また振られますよ」
「あの男の話はもうよしてくれ」

 切なげに言って、父は長い髪をかき上げた。

「今日は髪を下ろしておいでなんですね」
「ああ、色舞が寝坊しているから」
「色舞がいないと髪も上げられないのですか?」
「あの子に結ってもらうのが好きなだけだよ。容子や蘭子は優しいから、どうも括り方が緩いんだな。色舞は遠慮がないからきちっと上がる」

 自分で結わないのかと問うたつもりであったが、どうでもいい話ではある。

 万羽が何やら喚き立てている声が、数メートルの距離と襖越しに聞こえてきた。

「ふうん、大変だな」
「聞き取れましたか?」
「宣水にまた部屋を与えてやれとか言ってる。そうしないと此紀の部屋に泊まるから、風紀が乱れるとか」

 父は聴覚が敏感だ。うんざりとした顔をしている。

「風紀とは?」
「要するにやきもちだ。自分が蚊帳の外で気に食わないんだな。わがままな女だ。いつまでも気性が変わらなくて、困ったものだな」
「ととさまは万羽様を批判できるほど立派ですか」
「おや? 今日は厳しいな」

 父はなぜかダブルピースをした。

「なんですか?」
「たしかに、のジェスチャーだ」
「何が? それほど立派ではない、の意味ですか。使うタイミングが下手ですね。――いいえ、すみません。私も少しおもしろくなくて。万羽様と同じことが」
「というと? ん? 宣水は男を抱かないよ。でも一応頼んでみようか?」
「なぜそちらを。何を頼むおつもりなんです。たまにふらっと帰っては、此紀様の理解者ヅラということのほうです。ととさまのほうが顔も良いでしょうに」

 良い顔の父は、「へえ」と言って良い微笑みを浮かべた。

「お前もやきもちか。私に甲斐性がなくて、お前たちの母親を取られてしまってすまないね。間男はどうせすぐにまたどこかへ行くから、そうしたらおっぱいを吸わせてもらうといい」

 なぜアメリカンヤンキー風に煽ってきたのか。そこで才祇は、ひょっとすると父も多少はわだかまりを覚えているのかもしれないと考えた。
 日頃、不安定な此紀を支えているのは父だ。それこそ実際上の配偶者と言えよう。間男の出現がもっとも不快なのは誰か、考えるまでもない。

「失礼いたしました」
「お前が何を考えているかだいたいわかるけど、そういうわけじゃない。いてくれる間はいいが、いなくなった時にまた荒れるだろう。それが少し面倒くさい。女を恋の沼に落とすだけ落として立ち去る、ああいう男を罪作りと言うんだな」

 よくそれを言えたものだと思ったが、気遣って黙っていてやることにする。遥候がいたとすれば同じ対応をするだろう。蘭香と色舞は「おめーだよ」ということを言うかもしれない。此紀は確実に言うだろう。

 思えば父の周りには、女ばかりだ。だからいつでも疲れているのか、才祇と二人でいる時は隙のある物言いが多くなる。

 女という生き物は、声が高くて胸がふくらんでいて性器が受容的だと、そういうことではない。父を監視するのだ。愛情を独占したいから、父を睨み、父の周りの女たちを睨んで、そうして父をうんざりさせる。

 だから実際は、性器の形の問題ではない。父は男を摘まんでは食うが、不味いと思ったらぺっと吐き出している。そうした父のことを、誰よりも男女平等主義者なのではないかと才祇は思っている。寄ってくるのは女が多いから、はたき落とす機会も多いというだけではないか。

「ととさまは男の従者をお取りにならないので?」
「ん? 昔は取ったことがあるよ。半善なかぜんはお前が小さい頃に世話をしてくれたんだが、忘れてしまったか」
「覚えていないな。すみません」
「女と同時に取ると、言いやすい男のほうにばかり用事を頼んでしまうから、どちらかだけに寄せることにしてる」

 では、しばらくは男を取ることはしないのだろう。父のない遥候と、次期長老の孫娘である蘭香を、父が放り出すことはあるまい。親切心と政治的判断の混成が父という男である。さほど物事を考えていないわりにはバランス感覚に優れ、将来も安泰であろう。

 バランスの取れている父は緑茶をすすった。

「お前の淹れてくれる茶はいつもおいしい。色舞は、あれはもう嫁に行く気はないのかな」
「私は聞いておりませんが、必要がないのですから構わないでしょう。矢代様が亡くなったことがだいぶこたえていたようですし、プレッシャーをかけないでやってください」

 師事を嫁入りと形容するスラングは、昔から使われる。色舞は出戻りだ。女の師に仕えていたが、逝去によって未亡人となった。

 才祇は誰にも仕えたことがなく、これからもそうだろう。それこそ必要がないためだ。父がおり、此紀がおり、しっかり者の妹がいる。勝ち組というやつである。
 色舞の配偶者は、発言小町に『ニートの義兄がおり、未来も働く気がないようです』と嘆きの書き込みをするかもしれないが、顔はとても良いのですと書き添えれば、置き物だと思えばいいじゃんとレスをする者もいることだろう。

 自身を嵩のある置き物だと思っている才祇は、せめて丁寧に茶を淹れて父に出す。此紀が酒を飲みすぎてふらついている時は肩を貸す。色舞の愚痴を聞いてやり、朝露の着替えを手伝う。
 他の者とは口をきくのも億劫だ。注意を受けることもあるが、これで暮らしているのだから、放っておいてほしいと思う。立派ではなくとも幸せなのだ。誰かのすねを消費し続ける生き方だということは、考えそうになると、頭の中に歌を流して忘れることにしている。

 ごくつぶしとして、才祇は養い主の気に入りそうな話題を考えた。

「此紀様の新しい従者のことですが」
「うまくやってるか?」
「ええ、まあ。一度言ったことは覚えていて賢いのですが、少し鼻っ柱の強いところがありますね。扱いには気を付けてください」
「生意気なのか」
「いいえ、生意気にならないようによく気を使っています。そういう自分に高得点をつけているタイプというか」

 ナルシストで、プライドと理想が高い。実力が伴っている上に、ヤクザのバックがついているから周りは手をつけられない。
 見目麗しく優秀だが、そばに置きたいかどうかは意見の分かれる若者であろう。

 父はなるほどと笑った。

「言いたいことはわかったような気がする。若い頃は私もそういうところがあったかもしれない。まあ、此紀なら大丈夫だろう」
「此紀様は大丈夫でしょうが、ですから、ととさまが不用意なことをなさらないように気を付けてください」
「承知した。――そういえば、このところ虫が出るそうだ。殺虫剤を買っておくか」

 政治的な話が開始するのだろうか。才祇は構えたが、茶を飲む父の顔はのんきだ。

「離れに蜂か何かが出たらしい。危ないな」
「山の中なのですからどこにでも虫は出ますが、蜂は危ないですね、たしかに」

 ダブルピースをしておいた。

「蜂の毒というのは、人が死んだりするんだろう」
「ええ、アレルギー反応の重いものですね。死ぬほどの症状が出るのは、百人にひとりだとか聞いたことがありますが」
「1%か。なら大丈夫だろう」

 何の根拠もない楽観視だ。自分の末子が低確率の障害を持って産まれたということを忘れているのだろうか。
 障害だとは、父は思っていないのかもしれない。そのことの是非について論じられるほどには、才祇もまた知識を持たない。

 此紀の計らいで、朝露を専門の医者に診せたことがある。思っていた通りの診断を下されて、それだけだ。いくつか受けたアドバイスは実施している。

 あの妹が幸せなのかそうでないのか、才祇にはわからない。色舞や父にはわかるようだ。才祇は他者と心を通じ合わせることに慣れていない。最初から通じていた者たちとのみ関わって暮らしているからだ。

「殺虫剤のたぐいは、朝露の手の届くところに置くとよくないのではありませんか」
「そうかな。それじゃあ、窓に網戸をつけるか」
「ついていないのでしたか。それはつけた方がいいでしょうね。私が計測してホームセンターで買っておきます」
「助かるよ。ありがとう」

 ごくつぶしの腕の見せどころである。お任せくださいと、才祇は業者のような口調で請け負った。



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