蜂の残した針 最終話
レリーフで波と人魚があしらわれた、その水色の缶は、朝露の宝箱だ。元はクッキーか、チョコレートが入っていたのだと思うが、缶だけをアンティークショップなどで父が買ったのかもしれない。それほどしゃれた、可愛らしい缶だった。
中には、色ガラスのついた手鏡や、ヘアピンにリボン、レースのハンカチ、それに飴玉などが入っている。
色舞はそこに、小さなマニキュアのビンを入れてやった。水性のもので、においがしないから、塗ってやれば朝露は喜ぶだろう。
こんなものがあるということも、色舞は知らなかった。普段は自分の爪にも構わない。
──この前、わたくしのネイルをずっと見ていらしたので、興味がおありかと思いましたの。
何を言われたのかわからず、蘭香の爪など気にして見たことがあるだろうかと、色舞は自分を回顧したほどだ。まさか、朝露へのプレゼントだとは思わなかった。
──ついでがあっただけですわ。
その言い方で、父からの評価を狙ったわけではないこともわかり、色舞は恥じた。
蘭香は手触りの冷たい女だが、心根はそうではない。だから父が使っているのだ。そのことをわかっていても、色舞は彼女のことが苦手だった。きっと、同じものを違う角度から求めているからだろう。
蘭香には、優しい父親以外のすべてが備わっている。色舞には、それだけがある。遥候にはいずれも無いが、彼女は際立って美しい。
この妹は、そんなことを考えたことがないのだろう。眠っている朝露の前髪をそっとかき上げながら、色舞は羨みのため息をつく。そしてそんな自分をまた恥じた。
色舞の心を乱すのは、蘭香でも遥候でも、妹でも兄でも、男でも父でもない。彼らのふりをする、自分の孤独だ。形を持たぬそれは、彼らの姿を真似る。今は強いて言うのならば、此紀の姿にもっとも近い。彼女は去った。おそらく永遠に。もう色舞の手を引いてはくれない。
桐生が寛解させてくれることを願う気持ちと、諦めて戻ってくることを願う気持ち、両方が色舞の中に存在している。会いたいと思ってしまうと、愛していないということになってしまうのだろうか。そんなことを誰にも断じられたくないと色舞は思う。
この妹のことを、重荷と感じたことは幾度もある。しかし、大切だと思うことも本当だ。真実と嘘の関係ではない。虫と自分の関係だ。父や兄にやましい気持ちを感じる自分と、実際にはそんなことを望まぬ自分の関係だ。意思と意志の関係だと、此紀なら言ったかもしれない。
理知で色舞を援護してくれる伯母は、もういない。刃のような悪意も、忌まわしい嫌疑も、色舞が止めるしかないのだ。貫通されれば朝露が傷つく。
女にしか発せず、見えず、効かない攻撃というものがある。刹那や父は貫通に気付かない。痛いとどれだけ訴えても、せいぜい同情してくれるだけだ。けして防いではくれない。
──男なんて役に、いえ。
立たないと思うことも多いが、守られることも多いのだ。あまり被害者ぶると、与えられた庇護さえも透過してしまう。そこを矢が射る。
「あねさま……」
朝露が薄い布団から身を起こしていた。
「あら、ごめんね。せっかくお昼寝していたのに、起こしてしまったわね」
「ううん。おふろ?」
「お風呂は明日よ。蘭お姉さんが、マニキュアをくれたの。朝露によ。マニキュア、わかる?」
「まねきあ……」
自分の爪をしげしげと見ているということは、知ってはいるらしい。
缶を持ってきて、小さなビンを取り出してやると、朝露は目を丸くした。
「あさに、あさにこれくれたんですか? ほんとう?」
「ええ、朝露のものよ。きれいなピンク色ね。塗ってみる?」
喜ぶかと思った朝露は、うつむいて悲しそうな顔をした。みるみる目に涙が溜まってきたので、色舞は慌てる。
「どうしたの、今日は」
「これのりさまのごびょうきがなおらなくなるから……」
父や兄ならば困惑するだろうが、今回に限っては、色舞は完全に妹の思考回路を理解した。だからすぐに否定してやることができる。
「違うのよ、朝露。私たちが何かをがまんすれば、此紀様が治るということじゃないの。おりこうにしていたら、それは、此紀様も喜んでくださると思うけど、お爪をピンク色にするのは悪いことじゃないのよ」
そう説きながらも同時に、確かに、塗った爪を母屋の者には見られない方がいいだろうとは思った。その説明はとても難しい。
「こっちのおうちにいる時だけ、塗っていていいことにしましょう。向こうのおうちに入る時は、あねさまに教えてちょうだい? 落としてあげるから」
「こっちのおうちではいいの?」
「ええ。せっかく蘭お姉さんがくれたんだし、あねさまも塗ったところを見てみたいわ。いや?」
朝露はぱっと顔を明るくして、首を横に振った。
「あさも、あさもぬってみたいです」
「そうでしょう。お手てを出してみて? 私と違って色が白いから、きっと似合うわ。蘭お姉さんにお礼を言わないとね」
マニキュアなど扱うのは久々だったが、なかなか綺麗に塗ることができた。朝露の爪は色舞が気付いた時に切っているが、やすりで研いでやる方がいいかもしれない。
桜貝のような色になった爪を、朝露はじっと見つめていた。その目がきらきらと輝いている。
「かわいい……きれい……」
「そうね。まだ触ったらだめよ、少し乾かさないとね」
「おねえさんのつめみたい……」
「朝露ももうお姉さんなのよ? お布団も畳めるようになったし、髪だって自分で梳けるようになったじゃない。こういうお化粧くらいしてもいいのよ」
「おけしょう? ほんと? くちべにもしていいんですか……?」
「口紅をつけたいの?」
朝露は頬を染めて「はい」とうなずいた。
「まあ……知らなかったわ。お化粧をしたかったのね」
日にほとんど当たらない肌は透けるようになめらかで、頬や唇は明るいバラ色だ。化粧など必要ないように見えるが、少女が憧れる気持ちはわかる。
「こっちのおうちでなら、お化粧をしてもいいわ。あねさまの口紅を貸してあげる。今度、朝露のを買いに行きましょうね」
「あさの? あさのくちべに?」
「そうよ。赤とピンク、どっちがいい? オレンジとかベージュとか、違う色もあるのよ」
「あさのくちべに……」
飴色の瞳がぼうっと宙を見ている。それは嬉しい時と、悲しい時の朝露の顔だ。色舞は妹の髪を撫でた。
「ごめんね、口紅が欲しかったのね。あねさまは知らなかったわ。ときどき、教えてちょうだい。欲しいものとか、したいことを。あまり叶えてあげられないかもしれないけれど」
「ひかるくちべにでもいいですか……?」
「光る? どういうこと?」
「きらきらの……ようおねえさんみたいな」
遥候の化粧を思い出してみるが、ピンとは来なかった。パールかラメか、あるいはグロッシーなものを指しているのかもしれない。
「お買い物に行く時に探してみましょう。遥候にも聞いてみるわ、どこのお店で買ったのかとか」
「いいの……えっと、いいんですか」
「ええ、朝露はお姉さんなんだもの。歯磨きもドライヤーもちゃんとできるわよね」
「できます! おふろのかがみもきれいにふきます。おもちもたべます、いかも」
「お餅はいいのよ、あねさまもあにさまも食べられなかったわ。毎日ちょっとだけ頑張って、できることをしたらいいの。蘭お姉さんも遥お姉さんも、あねさまもととさまも、此紀様も、みんなそうしているのよ」
兄のことは省いておいた、教育に悪い存在だ。
毎日、少しだけ頑張る。それを何十年も続ける。口で言うほど簡単なことではないが、それをできない者から堕落する。
政治や経済や勉学よりも、その習慣こそが重要だと色舞は思っていた。まずは小市民として立派に生きることだ。少しずつ相続や金勘定を学び、刹那が亡くなったら父や和泉を補佐する。この立場の弱い妹を守るために、色舞ができるのはそうした地道なことしかない。
長老は、横暴で残虐だ。しかし色舞の首は切らない。健康で勤勉な小市民を守るために、そうでない者を排除する長であるからだ。気まぐれを起こすこともない。彼は彼の決めたルールに従い、断罪と庇護を与え続ける。
「あねさまも頑張るわ、ちょっとだけ。毎日」
朝露は首をかしげて、微笑んだ。
遥候が珍しく茶など淹れてきたから、才祇は言葉に詰まって、女の顔を見下ろした。透明な光る塗料を口につけているなあと思う。綺麗な顔をしているのだから、何も塗らなくてもよさそうなものだが、そう言うと女が怒ることは知っている。
「なんですか」
ぶっきらぼうな女だが、不機嫌なわけではない。才祇は率直に言った。
「茶は飲まないことにしてる。悪いが」
「そうでしたっけ?」
「此紀様が酒を断てるように……」
最短の言葉で説明した才祇に、遥候は怪訝そうな顔をする。
「お茶断ちっていうやつですか? そういう願掛けみたいなのは、終わりのあることに対してやるものじゃないんですか。アル中は治らないって、前におっしゃってませんでしたっけ」
「そうなんだが、その、だからだ」
「は?」
怖い。怯みそうになったが、説明を加えた。
「俺も、気持ちだけでも──多少は頑張ろうと」
「すご。精神論にしても無意味すぎ。電話とかで此紀様に伝えてるんですか? 自分も我慢してるから、そっちも頑張れとか」
「いや、俺が勝手に」
遥候は気が遠くなったかのような顔をしたが、深呼吸をして持ち直したようだった。
「そもそも、願掛けって精神論ですもんね。でもなんか、お嬢さんとか、怒りません? そういうの」
「色舞か。怒られると思うから、言ってない」
合理的なことをひとつもしない上に、頼まれてもいない非合理的なことをする兄を、妹は叱るだろう。
「でも、色舞は別に、棘のある女じゃない」
「わかってますよ。お嬢さんが怒りんぼに見えるのは、周りが怒らせてるだけなんですから。西帝さんとは特に良くないですよね、相性」
「そうなのか? 反対していた父が正しかったのか」
「っていうか、西帝さんはいちいち童貞なんですよ。お嬢さんが教育したら、そのうちマシになるかもしれませんけど」
いちいち童貞。あまり聞かぬ形容詞だ。
きっと才祇のことも、陰で様々な形容を駆使して悪く言ってきたのだろう。まあ、それは言うであろう。自分ほど褒めるところのない男も珍しいと、才祇は承知している。
そんな男でもいいと言った、希少な女を見る。物が少ない才祇の部屋で、することがないためにダルマの置物を揺らしていた。
「遥候」
「大事なダルマですか?」
「いや、父が置いて行ったどうでもいい土産物だ。退屈か」
「はあ」
首肯である。普通は気を遣って、そんなことないとか、一緒にいれば楽しいとか言うものではないだろうか。そう考えて、まずは自分が遣うべきだという、子供レベルのことに気が付いた。
「俺は、お前といると楽しいが」
「は?」
怖い。メンチも切られていた。
いや、才祇はこの女の「は?」が、「といいますと?」に近いものだということは理解している。しかしいつまでも慣れず、おおうと思ってしまうのだった。自分よりも愛想のない者を、才祇は他に知らない。
「なんで急に歌詞みたいなこと言ったんですか」
「そういうものかと……」
「才祇様も童貞の星のかたですね」
半笑いである。たまに見せた笑顔がこれか。しかし、そんな顔をしても美しい女だ。
不愛想で口数が少ないが、寝坊や遅刻をしない。かといって実直という風でもない。あまり内心を見せない女で、期待や甘えを持ちかけてくることをしない。
心を分け与えてこない女は、気が楽だ。そばにいたいとかいたくないとか、愛してほしいとか離れてほしいとか、複雑なクイズは色舞に出される分で精一杯だった。
自分に女が必要だと思ったことはない。しかし、ずっといた女が生活から消えると、ぽつんとした気分になった。無意味に茶を断ち、心を寄り添わせている気分になって、まったく、何かしらの執着心が丸出しだと自分で思う。そこに遥候がするりと入ってきた。
需要と供給のそこそこの一致だ。この女がいれば、才祇は寂しさや苛立ちを周りに見せなくて済む。蘭香が父に抱かれる機会も増え、彼女は機嫌がいいと色舞や朝露にも親切にしてくれるから、八方丸いというものだろう。
才祇が望むものは、愛や性や欲ではなく、つつがない日々である。遥候はそこを補ってくれる。大事な女だと言えないこともない。
「お前がいてくれると幸せだ」
才祇なりに誠実さを見せているつもりである。事実を一番良いように伝えている。
遥候は退屈そうにダルマを揺らしながら、そうですかと答えた。
幹部の居室がひとところに集まっているのは、意味があってのことだったらしい。
沙羅の部屋の隣室が、右近に新しくあてがわれた部屋だ。猫を足元にまとわりつかせた甘蜜が、洋服の入った段ボール箱を運んできてくれた。
「風がよく入って、よろしいところですわね。前のお部屋よりも広くって」
「風通しがいい分、プライバシーがあんまりないのよね。わざとそう作ってあるんだって。寝首かかれにくいように」
「まあ、戦国自体のよう。野蛮で嫌ですわね」
「慣れるまで居心地悪そうだから、遊びに来てよ。お茶くらいご馳走するしさ。ヤッちゃんも一緒に」
ヤツデは右近の膝に乗って、にゃんと愛想よく答えたが、甘蜜はつれない。
「どうしましょう。沙羅さんが妬かれるかもしれませんし」
「へ? そういうアレだったの?」
「そういうアレではありませんけれど、沙羅さんはお友達が少ないので、私が他の方と仲良くしていたら寂しがると思いますの。最近はナーバスでいらっしゃるようですし」
「んー……」
ふわふわとした小さな生き物を撫でながら、右近は考える。確かにこのところ、沙羅は悄然としている。どれほど酷い男でも、愛していたのだから、失えば尾を引くものか。
遺体が見つからないから、心を切り替えるのが難しいのかもしれない。ならば、探してやるか。時間はかかるだろうが、おおよその範囲は絞り込まれているのだから、そのうち見つかるだろう。
ロープとナイフと、あとは犬だろうか。調べて、必要なものを揃えようと、右近は考えた。
犬は尻尾を振りながら、姉の足元をぐるぐると回っている。
「鬱陶しい犬ね。何か用なの? 腹でも減らしてるんじゃないの」
「慰めてるつもりなんだろ、姉貴を」
「巨大な世話よ」
剣のある言葉のわりには優しい手つきで犬の頭を押さえて、回転を停止させている。散弾銃を背負っているから、どう見ても猟犬を連れた猟師だ。
「鉄砲を撃つ時はついてこないで。危ないから」
犬は承知したのかしないのか、舌を出して満面の笑顔である。
「なんて危機感のない犬なの。あんたたち、どういう教育をしてるのよ。熊の前でもシッポ振って回るんじゃないの?」
「いいだろ、別にそれでも。熊だって愛らしいと思ってご機嫌になるんじゃねえの」
斎観が適当なことを言うと、姉は「適当なことを言わないの」と睨んできた。
「それでこの犬が熊に食われた日には、あんたが一番落ち込むくせに。愛してるならそばに置いて、ちゃんと守っておきなさいよ」
「愛って、犬コロに大袈裟だな。かこつけたお説教?」
「長老がイラついてるから、あんたの師がいらんことを言わないように、ちゃんと見ておきなさい。頭がマシな時があるんでしょ? そのタイミングで長老の不興を買ったら面倒よ」
「だから、いらんことを言えねえような場所に移そうかと思ってんだが」
姉は凛とした両目で斎観を見上げて、低い声で言った。
「やめなさい」
「いや、前から考えてた。どうせ老い先短いんだから、最期くらいは静かなとこで、好きなようにさせてやりたい」
「あんた一人で面倒を見られるわけじゃないでしょう。桐生ほど丈夫じゃないわよ、あんたの弟弟子は。神無に責任能力がない以上、あんたの責任よ、弟弟子の身辺の安全は」
「わかってる」
「わかってない。自分のせいで立場の弱い者が死ぬっていうことを、あんたは真剣に考えてないわ。あんたはそのことに耐えられるタイプじゃないもの。やろうとしてる時点で、考えてないのよ」
無敵の理論である。真剣ならばしない、すなわち、するならば真剣ではない。子供の人格を全否定して捏ねる母親の理論であり、この女の得意技だ。
「白威もいい年の男なんだから、自分の身の振り方くらい自分で考えてるよ。俺も神無様も、何も強要してない」
「馬鹿のふりをするのはやめなさい。ついて来いと腕を引くことだけが、強要の形じゃないわ。あんたが一番わかってるはずでしょ」
「なんでそんなに食い下がってくんの? 白威のこと占ってやってんだっけ? 情でも移ったのかよ」
「あんたの身辺の安全は、あたしの責任だからよ。あんたの師には責任能力がないんだから」
モラハラの才能は、往々にして論理構築の才能であり、姉のそれは見事なものだ。話したことをすべて何かの伏線とする、短編小説のような女なのである。
姉はしゃがんで、犬を撫でた。尻尾がさらに振り回される。
「ワサビもそう思うわよね。思うなら、おじさんのところに行きなさい」
犬はワンと吠えて、斎観の足にじゃれついてきた。
「俺のことをおじさんだと思ってんのかよ。ヒゲ剃ったらけっこう美青年だぜ、俺。わかってんのかよ、犬コロよお」
「剃りなさいよ、そのヒゲ。不潔だし見苦しいわ。神無だって美青年を侍らせたいでしょう」
「俺が本気出したら、白威が可哀想だろ。バランス取らねえと」
「いい年の男なんでしょ? 変な気を回す方が失礼よ。いいわね、あんたはどこにも行かない。ヒゲも剃る。犬を連れて帰る」
斎観は黙って、犬を撫でた。歩き出すとついてくる。屋敷の庭まで、一人と一匹で散歩をした。
散歩などしたくない。部屋で茶を飲んで甘い菓子を食い、猫でも撫でていたいと主張したが、二人の従者は譲らなかった。
森の小道を少し歩くと、案の定すぐに疲れて息が上がった。
岩に腰かけた刹那に、和泉が白い日傘をかざし、白鷺がペットボトルの水を差し出してきた。
「もう帰りたぁい」
水を飲みながら訴えると、和泉が青い目を細めて、聞き分けのない子供を見るような顔をした。
「もう少し頑張りましょう。体力をつけないと、長生きできませんよ」
「誰に言ってんだ。ギネス級に長生きしてるだろ。あーっ、疲れた。おっぱい揉ませてくれ」
和泉は困ったように苦笑いをしたが、白鷺が肘で腹をつついてきた。
「困らせないの。うちの美少年はいつまでも甘えん坊で困りますね、和泉さん」
「ええ、本当に。いつでも揉めるものをわざわざ外で揉みたがって、小さな子どもと同じですね」
二人の妻から幼子のように扱われるのは悪い気分ではない。ふふんと刹那は鼻から息を吐いた。これが甲斐性というものだ。
「何ドヤ顔なさってんですか。もうちょっと歩くと滝に出るらしいですよ。マイナスイオン垂れ流しで気持ちいいって、まつもっちゃんが言ってました」
「ぜんぜん興味持てん。川か滝か知らんが、水辺なんかに行って落ちたらどうすんだ。泳げないぞ、俺は」
「私と和泉さんが助けますよ。私たちは運動神経抜群ですから」
「え、知らん。そうだったのか」
和泉は「言ったことも聞いたこともない」という顔をしていた。
「適当なこと言うなよ! ヤダー、怖い。帰りたい」
「落ちるほど近くに寄らなきゃいいだけでしょ。休憩はしててもいいですけど、あんまりゆっくりしてるとトイレ行きたくなっちゃいますよ。もともと刹那様は近いんですから」
「言うなよ、そんなことを。耽美の国の住民はトイレとか行かんし。日くらい浴びるのはやぶさかではないが、歩くのはだるい。人力車みたいなやつ引いてくれよ」
たわごとを言っていると、和泉につんと額を押された。
「あなたを愛しているから、私も白鷺さんも、あなたに長生きしていただきたいんです。わがままをおっしゃらないでください」
「ふふん。最初からそう言えばいいのだ」
「最初から言っていましたよ」と従者たちの声がユニゾンした。
そう言われちゃ仕方がないので、刹那は腰を上げた。水も飲んだし、傘もさしてもらえている。もう少しは歩いてやろう。
「行くぞ、妻たち」
金髪の方の妻は「はい」と言い、中性的なほうの妻は「はいはい」と言った。刹那は満足し、胸を張って歩き出した。
川から上がると、バスタオルを持った師が不機嫌そうに立っていた。
「うわっ! どうなさったんですか。何か、急ぎの御用ですか」
「うわじゃないよ。お前、これ僕の部屋に置いてっただろ。まさか手ぶらで来たのかと思って、見に来てやったんだよ」
西帝は、あちゃちゃと思った。出がけに茶を所望されたから、師の部屋に寄り、その時にタオルを忘れて行ってしまったのか。そこそこの頻度で似たようなことをやらかしてしまう。
恐縮して、九十度の礼をした。
「わざわざありがとうございます。ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありません」
「お前が水浸しで歩いてると、僕が従者を虐待してると思われる。雑なところ直せ。ToDoをメモしろ」
「そういたします」
投げて渡されたタオルで、浴衣の上から全身を拭く。髪も拭いた。
弥風は森を見上げるようにしてつぶやいた。
「下の道から帰るぞ。上から馬鹿どもが来るから」
「どなた様のことですか?」
「いいから、早く拭け。靴どこだ」
このところ気苦労が増えた師に、心なごませるジョークを飛ばしてみることにした。
「政敵ですか? 突き落として行きましょうか」
「向こうもそれを警戒して、複数で動いてるんだ。馬鹿の考えは休むに似るんだから、さっさと行くぞ」
馬鹿の西帝は靴を履いて、師から一歩下がって歩き出した。
しばらく歩いて、森の中で弥風は立ち止まった。西帝を振り向いて、ぽつりと言う。
「お前はどう思う?」
何がですか、と馬鹿丸出しの返事をすると叱られるので、当て推量で答えた。
「ドラム式洗濯機を買ってもらえるのなら、いくらか出してもいいと思っている者は多いようなので、予算が足りないのでしたら寄付を募ってもいいと思います」
「当てずっぽうで答えるな。……お前も欲しいのか、新型の洗濯機」
「一台二台入っても、女性が優先的に使うでしょうから、私には関係ないと思っておりますが」
「なんで女が使うんだ」
しまった、ジェンダー周りの話は師の禁忌だと思い出して、西帝は急いで他の話題を探した。
「最近、私が童貞だという噂がまことしやかに流れているのですが」
「自分でまことしやかって言うか? そんな情けない噂を流されるような隙を作るな。まさか本当にそうなのか? 万羽に頼んでやろうか」
「いえ、ご配慮には及びません。ただ、何に由来する噂なのかと不思議に思いまして。考えてみますと、兄も素人童貞っぽい雰囲気があるなと」
「お前たちは手に入らないものを追いかけるのが好きそうだからだろ。絵に描いた餅が好物で、実在の餅には興味がなさそうだ」
自分と兄の、目に見えぬ共通項を言い当てられたことに驚いて、西帝は師の黒い目を見た。実在の餅しか捏ねないタイプであるから、そうでない者のことは視認しないのではないかと思っていたが。
「お見それしました……」
「何がだ。しょうもないことを言ってないで、早く帰るぞ。いくら若いからって、そんな恰好でぼんやりしてると風邪ひく。風呂に入れ」
はて、なぜ立ち止まったのだったかと考えてみたが、師に急かされているので、西帝は考えるのをやめて歩き出した。
畑からの帰り道、蘭香は立ち止まって、西の空を見上げた。暮れ始めた空に金星が光っている。宵の明星と呼ぶのだと、子供の頃に祖父から聞いた。
「宵の明星ですわ」
「そうですね」
白威も立ち止まって、それを見ている。まあ、教養があるわ。ロマンチックに講釈を垂れてやろうと思っていたのに、あてが外れて、蘭香は理不尽に少しむっとした。
「白威さんも星が好きでいらっしゃるの?」
「いいえ、私はよくわかりません。神無様がお詳しいので、いろいろ教えていただいたのですが、もうほとんど覚えていません」
「んもう、神無様のことばっかり。プラネタリウムにでもまいりません? やたらとエッチなペアシートを置いているところなんかもあって、意外と楽しいですわよ」
「そういうデートをされるのですね、普段」
蘭香はぷんすかと地団太を踏んだ。
「子供のようにいなさないでください。わたくしのようなかわいこちゃんが水を向けているのですから、今度の土曜日に行こうねとか、話を具体化させてくださいな」
「すみません。いかがわしいプラネタリウムには行きたくないなと思ったものですから」
「まだお若いのですから、なんでも行ってみたらよろしいじゃありませんの。楽しいか楽しくないかは、体験してみないとわからないものですわよ」
説教をしてから、白威はむしろ体験型の趣味を多く持つ者だと気付いたが、気付かなかったふりをして続ける。
「今度の土曜、いやらしいプラネタリウムに行くかどうかは別として、またお茶を飲みにまいりましょうよ。かわいいお店を見つけたのです。映えるフルーツティーを出していて、素敵でしたわ」
「すみません。次の週末は斎観とシフトを替わったので、神無様のお世話をしなければいけないんです」
結局、いつも神無には勝てない。悔しく思うが、さすがにそのことを口に出せば、分別のない女だと思われるだろう。
「いつも神無様に勝てなくって、悔しいですわ!」
口に出してしまった。分別のない蘭香を、白威は不思議そうに見た。
「競っていらしたのですか、神無様と」
「当ったり前じゃありませんの。神無様が男性でいらしたならともかく、美しい女性なんですもの、妬けますわ。お人形みたいに髪を梳いて、爪に色を塗って、うふふとか笑い合っているのかと思うと、心が休まりませんわ」
「確かに、そういうことをして笑い合っておりますね」
蘭香は頭に血がのぼるのを感じて、落ち着くために白威と腕を組んだ。ふん、今この瞬間はわたくしが一番の仲良しですわ。心の中で神無にあっかんべーをする。
珍しく、白威が声をあげて笑った。そのことが嬉しくて、蘭香も笑う。
ガスボンベの運搬を手伝ってくれた男が、あまりに非力なので、沙羅は笑ってしまった。兄弟子は、あれで体力のあるほうであったらしい。
裏口の式台にぐったりと腰かけて、扇子で首元に風を送っている男に、労りの声をかける。
「大丈夫か? 冷たいものでも持ってこよう」
「いや、少し休めば平気だ。悪いね、かえって迷惑をかけたみたいで。ラジオ体操では腕力はつかないな」
長い髪が汗で顔に張り付いて、セクシーになっている典雅はそう言った。力仕事をする時くらいは洋装をすればいいのに、頑なな着流し姿である。
沙羅は隣に腰かけて、男の背中をさすってやった。雅やかな沈香系の香りがして、若い娘たちがこの男に夢中になるのもわかる。金も力も持たずとも、さすがに色男だ。
「君はいつもあんなに重いものを運んでいるのか? 立派だな」
「私は力持ちなのが取り柄だからな。刹那の頃は、もっと小さなボンベを使っていた。頻繁に取り替えるほうが面倒だと私は思ったから」
「離れのボンベも交換してくれているんだろう。すまないね、面倒をかけて」
微笑まれると、どきりとしてしまうような美しい男だ。沙羅はそっと視線をそらした。
「手伝ってくれて助かった。ありがとう」
「いや。君は、少しは元気が出たのか」
「どうだろう……」
明確な場つなぎの世間話でも、いちいち真剣に答えてしまう自分の融通の利かなさを、沙羅は気にしているのだが治らない。心の内を話してしまう。
「いつか帰ってくるのではないかと、どこかで思っている気がする。もう会えないということが信じられない。斎観を見ると、一瞬、戻ってきたのかと期待してしまう。背格好がそっくりだから」
「そういうものかな」
気のない相槌である。その程度の空気は読めるから、沙羅は違う話題を振った。
「ラジオ体操を続けているのだな。身体にいいのか? 私もしてみようかな」
「みんなそう言うが、誰も一緒にしてくれない。まあ、格好良くはないからな、あれをやっている姿というのは。私はやめると娘に怒られそうだから、やめられないだけだ」
「あなたの健康を心配しているのだろう」
「それはそうなんだが、私を試しているところもあると思う。女はみんな試験を出してくるな。節目タイプなら、その都度合格してやるかどうかを考えたらいいが、継続タイプは厳しい。一日でも落ちると、それまでの合格も帳消しにされる」
沙羅に負けず劣らず、ヘビー級の話を繰り出してきた。答えに困って、「うーん……」と自分の行いを振り返ってみる。
「私は、試験を出すとしても節目タイプかな。出しているつもりはないのだが、ときどき東雲に指摘される。鬱陶しい女だと思われているのかな……」
「恋人はともかく、家族が出すなら、それは出させている側に問題があるさ。だから反省して、ラジオ体操を続けてる」
「ずっと、一日も休まずに続けるのか」
「めちゃくちゃ風邪をひいたりしたら休むだろうが、そうでなければ、ずっとだな」
やや婉曲的であるが、愛のラリーの話であることはわかる。球を一度でも落とした時点で、愛でなくなってしまうというのは、厳しい世界観だと思うが。
──いや、違うのか。
愛は愛か。その上に築くものの話であろう。沙羅と兄弟子の間にはあり、沙羅と師の間にはない、その建築物の名を、信頼と呼ぶような気がする。右近はひとりで足元に築いている。その形は、なんとなく三角形であろうと思う。彼女の織る愛や信頼は、番ではなく、三位一体によって発生している気がするのだ。
「君はいつも難しい顔をしているが、何を考えているんだ。豪礼のことか?」
「今は、父と子と聖霊のことを考えていた」
「無理だ、君の試験に合格するのは。おもしれー女が過ぎる」
褒められたのだろうか? 沙羅は照れて、足を小さくばたばたとさせた。
信頼は、二日で棄損される。三日もてば立派なほうだ。
桐生が買い物に出た一瞬の隙に、此紀はまたコンビニで酒を買って飲んでいた。缶はひとつしか落ちていないが、睡眠薬が残っていたのだろう、身体を丸めてソファで眠っている。
──まあ、家で飲んでくれてよかった。
そう考えることにして、桐生は空の缶を拾った。外で飲酒して昏睡した日には、警察沙汰になる。さすがに、それを避ける程度の理性は働かせたのだろう。
それならば、酒を飲まないという理性も発揮してほしいと思うが、病院で何度も説明を受けている。脳の異常によって、理性も思うようには働かない、それが今の此紀の症状なのだ。
「此紀様、ここではお身体が冷えます。ベッドで寝ましょう」
そっと揺り起こすと、手を振り払われた。
「触んないでよ……」
「では、ご自分で起きて、寝室まで歩いてください」
「あたしが買ったソファなのよ!」
おむずがりである。桐生は諦めて、寝室から毛布を運んでくることにした。
ソファから怒鳴られる。
「あたしを置いて行ったくせに! 一人にするくせに! だから飲んだのよ!」
嘘だ。桐生が留守にした時間からして、置いて行っただの一人にしただの考える間もなく、すみやかにコンビニに直行して酒を買っている。隙を狙っていただけなのだ、警戒音を発する蜂のように。
此紀の警戒音は、継続的に発されていて、ずっと抑えておくのは不可能である。わずかな隙に刺す。どれほど口で約束を交わしても、針が収納されることはない。
毛布を抱えて、ソファに戻る。
「おそばにおります。置いては行きません。あなたが一人になりたいとおっしゃらない限りは」
「一人になりたいのよ!」
「私は梨のほうが好きですね。リンゴは、どれが甘い品種でどれが酸っぱい品種なのかわからないので」
毛布を掛けてやると、此紀は黙って目を閉じた。
この日々を、自分たちは繰り返すのだろう。断酒は継続的な試練であり、一滴でも飲めば失敗となる。何度も失敗を繰り返し、ずっと続く。
「おそばにおります。あなたの試練が終わるまで」
「うるさい……」
言葉は、針ではない。毒も無効化した。桐生には免疫ができている。
「お水を召し上がりますか? それか、果物を。梨を買ってまいりました」
「いらない」
「かしこまりました」
期待は裏切られ、約束は破られて、好意は拒絶される。
それでも、共に暮らすのだ。
蜂の残した針 了
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。