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なぜ加害者の被災者性に着目することが社会復帰に効くのか──「プリズン・サークル」

正直、私はいじめ被害者としての過去もあるので、犯罪加害者のことなんてまったく同情できないな、うんうん、などと思って見始めたのですが、鼻水が出るほど面白かったです。

(1)被災者としての加害者

  • プリズン・サークルという映画は、島根県にある男子刑務所で実施されている Therapeutic Community (TC)についてのドキュメンタリーです。TCでは、40名ほどの希望者が、「改善指導」(現場では教育と呼ばれる)の対話的・ピアサポート的なプログラムに参加し、過去を振り返り、犯した罪に向き合います。

  • 結果として、TCを受けていない他の4万人ほどの受刑者と比べて、TCに参加した受刑者の再犯率は半分程度まで低下する、エビデンスも出ています。

  • なぜTCは効果があるのか。逆説的ですが、自分の帰責性のない、選択の余地のなかった過去(典型的には、親は選べないということ)と向き合うのことが、自分に帰責性のある行為(罪)と向き合う上でも大事なのです。

  • 映画では、どうしても窃盗をやめられない受刑者が出てきます。彼は、ビニール傘はよくパクられるから自分もパクり返す、それと同じような感じで、財布をみたら息をするようにパクってしまうし、その瞬間に「悪いことしているな」とかそういう罪の意識はまったくない、刑務所に入った今でも罪悪感がない、みたいなこと言うわけです。それだけ聞くと、更生の余地のない、とんでもない野郎だな、という印象を受けます。

  • しかし、TCの中で、過去の人生を振り返ると彼への印象はガラッと変わります。

  • 例えば、親から虐待を受けていたり、そもそも親が子育てを放棄していたり、預けられていた施設でいじめ・暴力を受けていたりするわけです。そうした周囲の環境からの被害は、本人に帰責性はまったくありません。加害者にも、過去には被害者としての側面があったわけです。

  • こうした、本人に帰責性のない被害を受けている人を、便宜的に「被災者」と呼びたいと思います。地震や津波の被災者と同じく、本人に選択の余地がなかった、という点で共通しています。親も育ちも選べないわけですから。

  • では、加害者に被災者としての側面に目を向けさせることに一体なんの意味があるのでしょうか。

(2)加災者としての加害者

  • 逆説的ですが、加害行為を行った当時の自分が、自分に帰責性のない外部環境に追い込まれて、加害行為に走る以外になかった、ということを認められてはじめて、「加害以外の行為も概念上はできたはずの自分」の可能性を実感を持って想像することができる、という構造があります。

  • 例えば、あなたが、狩人に四方を囲まれてしまった、狩り立てられた獣だと想像してみてください。唯一逃げ道になりそうな道があれば、やむを得ずその道を行くしかないでしょう。そしてその道が別の獣を踏みつけて行くしかない道であっても、正直そんなことにかまっている余裕はないので、ドシドシ踏みつけて行かざるを得ないでしょう。

  • そうした事情を全部無視して、最後の逃走途中の踏みつけ行為を「加害」として認定され、処罰されても、「え?俺ってそんな悪いことしましたっけ?」とキョトンとしてしまうでしょう。

  • しかし、現実には、狩人たちの加害行為は不可視なので、誰もその事情を勘案してくれることはありません。

  • この構造のなかで、狩り立てられた獣は被災者(帰責性のない被害者)でもあります。その側面に着目すると、帰責性のない加害者でもあり、ここでは便宜的に「加災者」と呼びたいと思います。

  • 暴力を受けて育ったことで、暴力の連鎖にまきこまれ、自らの身体が暴力という行為の「座」となっている状態です。それは燃え広がる森林火災の中の一本の木のようなもので、周りが燃えていたら、自分も燃えるし、それによって後続の木も燃やさざるを得ない、そこに選択の余地はない存在です。

(3)中動態としての加災者

  • 過去を振り返り、「加災者としての自分」に気づくということは、能動態として加害をしたわけでもなく、かといって誰かに強制されて(受動態として)加害したわけでもない――すなわち、中動態としての自分に気づく、ということでもあります。

  • そして、中動態であった自分に気づけて初めて、能動態として行動できたかもしれない可能性に目が行く余裕が生まれるのだと思います。

  • 映画の中で、出所者の一人がこんなことを言っています。TCで、自分の中にあるモヤモヤとしたものを全部吐き出すことができた、そして空っぽになれた、そしてその吐き出した内容に(他の人が)応えてくれた、と。ここのシーンは、個人的にかなり泣きそうになりました。

  • あまりうまく表現できないのですが、おそらく「被災者としての自分、加災者としての自分、というのは頭の中でぐるぐる考えていても、ずっと反芻されてしまって、その選択の余地のなさに圧倒されてしまうけれども、一度ゲロってしまえば、それは他者の応答の対象でもある、外在的なひとつの物語として眺めることができる、そうすることで、ようやく、能動態としての自分に向き合う余力が生まれる」、というような感じがしました。

  • 加災者になってしまい、刑務所において社会的処罰を受けてしまったわけですが、それでもなお、加災(暴力)の連鎖をあの時自分は止められたかもしれないし、ここから先は自分の番で食い止める、そういう能動的な思いを感じるんですよね。

  • いや、これはもう、ほとんど英雄的なことですよ。犯罪を犯さず、ふつうに生きて当然、とみんなが思っている中で、被災者でありながら、加災の連鎖を止めるなんて、そんなことやっても褒めてくれる人はほとんどいないわけですからね。ちゃんと働いて、食器洗ったりして、誰の賞賛も浴びずに、絶え間ない日常を繰り返していくこと――そこに、どれだけの英雄的ふんばりがあったことか……。

  • 最後になりましたが、とある受刑者がTCを受けて、「生きててよかったと実感する瞬間ができた」と語っていました。それだけ聞くと、ただの綺麗ごとではあるんですが、彼の被災者⇒加災者としての来歴をどっぷりと追体験してきた観客にとっては、万感の思いで受け止めることができる一言でした。

  • なお、TCではロールプレイにより被害者の立場を演じたりすることで、「被害者への想像力を持ち、申し訳なさを感じる」という、再犯防止に効果がありそうな別のプロセスもありました。

(4)オープンダイアローグとTC

  • ここからは余談です。昨年度、ODNJP主催のオープンダイアローグ・トレーニングコースを修了したのですが、TCの過去を振り返るという作業は、オープンダイアローグ・トレーニングコースで行われる原家族のワーク(Family of Origin)に近いような気がしました。

  • 繰り返しになりますが、自分の帰責性のない、選択の余地のなかった過去(典型的には、生まれや育ちは選べないこと)と向き合うのが、苦しいけど実は大事、という話なんじゃないかと。それは、生きづらさの当事者のピアサポートの現場においても当てはまります。

【参考】

  1. 中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援 第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎

  2. 中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援第2回 オープンダイアローグの衝撃――斎藤環

  3. 國分巧一朗『中動態の世界:意志と責任の考古学』

  4. 國分巧一朗、熊谷晋一郎『<責任>の生成:中動態と当事者研究』

  5. 坂上香『プリズン・サークル』(書籍版。DVDはまだ出ていないようです)

【保護者の方向けのお問い合わせ先は、こちらの公式サイトになります】
家庭教師のYURUMI


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