コウモリの一族
こどものころ、ぼくがはじめて友だちになったのは向かいの家に住んでいた同い年のタカシ君だ。運動もできるがちょっと気が強くて自分勝手なところもあった。
それで中学の時にいろいろもめごとをおこして、同級生のあいだで「タカシを無視しよう」というような話が持ち上がったことがある。
それを言い出した奴もじつはタカシという名前であり、しかも同じ町内に住んでいる同じく幼なじみのタカシだったので話がややこしい。なので前者をタカシA、後者をタカシBとする。
ぼくはタカシAとよく一緒に登校していた。
だが帰り道は、タカシB たち6~7人のグループとつるんで、買い食いをしたり、立ち読みをしたりしながら帰るのが常だった。そういう帰り道で、あるときタカシBが「あいつ許せん!」とタカシAのことをけなしはじめたのである。
そしてみんなに「もう、あいつは無視しようや~」と呼びかけるので、ぼくは「ちょっとまて、そんなわるいやつじゃない」とさりげなくブレーキをかけた。
しかし、そういうことが何度もあり、やがてタカシBから「なんでお前はあいつの肩をもつんか?」と食ってかかられてかえって僕の立場があやうくなったりしていたことがあった。
以上は、何十年も思い出したことはなく、つい最近、思い出したことだ。
この記憶とともに思い出したのは、ぼく自身が、自分のそういうどっちつかずな性質を「コウモリみたいなやつだな」と当時思っていたことである。コウモリとは、鳥でもケモノでもないどっちつかずな存在ということだ…なつかしいな~。
しかし、あれから40年近くを経て、いまでもやっぱりぼくはコウモリのような立場にいるのである。
そもそも、翻訳とか通訳とかいう仕事に携わっている人はボクにかぎらずコウモリのような役回りである。二つの文化、二つの社会のあいだで意思疎通を図るのが仕事なわけだから、あっちの言い分もなるほどと思い、こっちの言い分も理解する。聞き分けが良くないと務まらない。
どっちもどっちだなあ、
と思いながら生きているはずだ。
これは国家間にかぎらない。政治的な立場や、思想信条など対立構造にはすべてあてはまる。
いま、分断ということが盛んに言われるけど、世間のコウモリ一族は、みな仲介者のような立場で、分断をなんとか修復しようと苦戦していることだろう。たとえば、昨日こういうネット記事を見た。
2018年にアメリカ合衆国カリフォルニア州で85人が犠牲になる史上最悪の山火事が起こった。これは電力会社の送電線が原因だったことが突き止められており、ぼくもそういう記事をツイートしたことがある。
しかしこのグリーン議員は
山火事の原因は宇宙からのレーザービームだとする当時出回った噂を支持。「レーザーまたは青いビームによって火が発生するのを見たと言っている人々がいる」と述べた。
…そうである。
これを読むと大抵の人は、頭からバカにしてかかるだろう。しかし、ぼくはそうでもない。とりあえずは笑わない。証拠を出してほしいと思う。
世間がハナで笑うことのの中にも真実が含まれているかもしれないからだ。常識を疑っているわけである。
納得のいく証拠…たとえば、火元の送電線が通常の刃物とは思えない鋭い切り口で焼き切られていることを示す証拠や、納得のいく複数の目撃証言などを出してくれれば、本気で考えてもいい。
こういうことを言うと、陰謀論系の人から「こっちの側の人間だ」と勘違いされそうだが、それもちがう。ぼくはコウモリなのでどっちの側でもない。
常識「すら」疑っているわけだから、それ以上にワイルドな仮説については、常識にまさる確たる証拠を出してくれない限り、かんたんには納得しない。
ただし、そういう証拠さえしめしてくれれば、どんなにワイルドなことだって理解はする。エルヴィスが生きていると言われたって証拠さえあれば納得する。
そういう意味では、だれよりもオープンマインドだという自信がある。しかし、だからこそ、ぼくのようなタイプから「それはない」と言われた場合は、単なる反対派の攻撃とは別に考えたほうがいいし、自分の論拠はよほど危ういのだと思ったほうがいい。
「こいつはアタマが硬いから真実を受け入れない」などという逃げ道はのこされていないからだ。ぼくのほうがあなたがたよりはよほどやわらかいのである。
***
いま、アメリカのバイデン大統領就任式が偽造ビデオだという噂が広まっている。
これもぼくはバカにはしなかった。そういう人のブログもちゃんと確かめた。「証拠」と呼ばれるものもみた。そのうえで言えるのは、
まったくおハナシにならない
ということである。
ぼくのような聞き分けのよいタイプの人間に「おハナシにならない」と思われるのはそうとうはずかしいことだと思ったほうがいい。
そういう薄弱な証拠にしがみつき、もっと合理的なあらゆる推論を排除してかかっている人は、それが真実だと「思える」から主張しているのではない。真実だと「思いたい」から主張している。つまり、全く別のところに、真の動機が潜んでいる。
それも、若いうちは仕方がないだろう。だが、ぼくと同年齢で、人々を率いている「スピリチュアリスト」が、自分の心の中の真の動機にすら気づけない自己洞察の甘さでは、どうしようもない。
同年代の人たちがつぎつぎに逮捕されたオウム事件からなにも学ばなかったのだろうか。当時は、自分に関係のないことだと高をくくっていたのか。そうして、26年を経て同じようなことをくりかえしているのか。