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弱音はちょっと出す
『もののけ姫』のなかで、エボシがアシタカに
さかしらに、わずかな不運を見せびらかすな
というシーンがあるが、これは
エラそうに不幸自慢をするんじゃない
ということだろう。似たような言葉としては
泣き言を言うな
とか
弱音を吐くな
がまんしろ
などもあるが、こういうことを言われるとなぜかみんな納得してしまう。
ほかにも
顔で笑って心で泣いて
とか、一昔前なら
男が涙を見せるな!
とか、旧日本軍の
気合が足らん!
などなどいろいろあるが、おおむね似たりよったりで、「つらいときにつらいと言わない」ことは、地球規模で推奨されている。
ハードボイルド小説は基本的に「やせがまん大会」である。ヘミングウェイの短編「敗けざる者」がいい例だが、ハードボイルドの主人公というのはけっして、「強い者」ではなくて
負けを認めない者
である。ケンカして殴り倒されても「まいった、許してくれ」などと言ってはいけない。なんど殴り倒されても起き上がっていき、そうやって、相手にしりごみさせ、
お前アタマおかしいんじゃないのか。
これ以上やったら死んじまうぜ
などと言わせるのがハードボイルドな主人公である。
スポーツにも似たところがあり、能力で優っていなくても、相手より辛抱できた方が勝つことも多い。ボクサーなども、いいパンチをもらっても平気な顔をする。
こう考えてみれば、
世の中ガマンばかり
だと思えてくる。
伝説の『ザ・ガマン』
がまんといえば伝説のテレビ番組『ザ・ガマン』である。
あれはおもしろかった。DVDくらいあるのかと思っていたけど、今では完全にお蔵入りしてDVDどころかYouTubeにすら上がっていない。
これはザ・ガマンの思い出を語っているチャンネルで静止画だけだ。サハラ砂漠を裸足でどこまでいけるか?とか、逆立ちした状態で、虫眼鏡で乳首に日光を当てられてどれだけガマンできるかとか。
ぼくが覚えているザ・ガマンは、炎天下でビニールハウスに入って何日水なしで我慢できるかをを競うものだった。優勝した人は確か3日間我慢していた。
今のテレビでは受け入れられないような気がするが、といいつつ、今でも、激辛料理をどこまで食べられるか、というのをやっているので、いまもむかしもみなガマンが好きなのだろう。
がまんの裏側
しかしこういうのは、ガマンしている様子が視聴者に伝わっているからいいのである。
ハードボイルド小説も同じで、主人公はガマンしているように見えて、その姿は読者につつ抜けになっている。敵にはバレていないが、読者にはバレているのでカッコいいのだ。
まったく誰にもバレないガマンはだれにも気づかれることはなく、そして、誰にも気づかれないガマンは存在していないのと同じだ。
インパール作戦で亡くなった兵士のガマンは、だれにもわからない。かろうじて生き残った人がその苦しさを語り伝えているが、生き残ったということは死んでいった人たちよりはややましな状態だったということであり、彼らよりもつらかった兵士のガマンの声は永遠に封印されている。
だまって自殺してしまった人も同じだ。かれらがどれくらいつらかったのかは言葉として残っておらず、死んで初めて「そこまで追い詰められていたのか」と周囲は気づく。そして、「苦しいなら苦しいといってほしかった」などと言うわけだが、生きているうちに弱音を吐いていたら、
がまんが足りない
と言われてしまっていたかもしれない。
みんなつらい
なぜ弱音を吐く人がきらわれるかというと、
みんなつらいんだ!お前だけじゃないんだ
という意識があるからだろう。
でも、ガマンは数値化できないので、だれがどの程度がまんしているかは自己申告してもらわなければわからないのである。
加減が大事
こうしてみると、ガマンを出すには工夫が必要だということがわかる。よくスポーツで優勝した選手が、
じつは痛み止めを打って出場していました
などと言うと美談になるのがこれである。試合前に言ってしまうと言い訳とみなされるので、終わってから言うのがポイントだ。あとでコソッというくらいがいい。
とはいえ、鬱になったり、自殺してしまったら手遅れなので、リアルタイムの自己申告も大事なのである。このあたりは難しいところだが、。
なんでこんなことを長々と書いているかというと、いまぼく自身が結構がまんしているのだが、あからさまに書いても愚痴っぽくなるだけなので「ザ・ガマン」のことなどを書いて気を紛らわせているのである。
「ザ・ガマン」ありました!