見せかけでない反抗とは?
いまどきの中高生が学校に対してどういう態度をとっているかはよく知らないけど、ぼくが通っていた昭和50年代は学校に反抗するのがカッコいいとされていた。
反抗のベーシックなスタイルは校則違反である。パーマをかける、化粧をする、制服のボタンをはずす、靴のかかとを踏んづけるなど。
ちなみにぼくはどれもやったことがないが別に優等生だったわけではなく、
単に興味がなかっただけだ。そもそも学校というものに興味がなかった。けっして褒められたことではないのだがこのさい自分のことは棚に上げて言ってしまおう。
親に買ってもらった靴のかかとを踏んづけるのは本当の反抗ではないと思うのだ。一種の甘えである。暴走族が税金でしかれたアスファルトの上で「反抗」しているようなものだ。
本当の反抗とは、たとえばいじめを見て見ぬふりをする教師の授業をボイコットすることだと思う。あるいは、ホームルームで組体操の危険性を指摘して、教師にウザがられることである。ただし、ぼくもそんなリッパなことはやっていないのでエラそうなことは言えないんだけど。。
ところで、小泉元首相は「靴のかかとを踏んづけて歩く生徒会長」みたいな人だった。つまりみせかけの反抗で人気を得てトップの座についた人だ。
ロックが好きだとされ、これまでの首相とは一味ちがう風を装っていたがじっさいはアメリカの言いなりであり、あんまり従順に言うことを聞くのでブッシュから「コイズミ軍曹」と揶揄されていたそうだ。
彼のロックはアメリカのイラク侵攻をまったく防げなかった。その意味では七三分けでモーツァルトを聞く生徒会長よりもよりもタチが悪い。
こういうことをよく考えるようになったのは、昨年の五輪あたりからである。日本の世論は五輪に反対したが阻止できなかった。あれはなぜだったのだろう。
この際、やるのが正解だったのか、止めるのが正解だったのかは問題ではない。1,000歩ゆずってたとえ「やるのが正解」だったとしても、国民の7割が反抗している以上、止めるという不正解を選ぶのが民主国家のあり方だ。
しかし強行されたということは国民がハンドルを右に切ったのに、国家というクルマはまっすぐ進んだということである。ハンドルは飾りでしかなかった。この構造をうやむやに終わらせないのがうわべでないロックである。
くりかえすがどちら正解だったかを問題にしたいのではない。右に電信柱があったからぶつからなくて済んでよかったというハナシではない。この国が民主的に機能しているなら、つまり大衆がハンドルを握っていたならばクルマは右に曲がって電信柱にぶつかっていなければおかしい。
五輪のハンドルを操縦していたのが大衆(=基調人口)でなかったとすればいったいだれだったのだろう。はっきりしたことはわからないが貴族でも皇族でもないことだけは確かだ。おそらく国際的な利権を握る一部の経済エリートのネットワークではないかと思う。
ここのところはもっと勉強しなくては何も言えない。だから映画を見る時間を削ってイヤイヤそういうことを勉強している。
これがぼくの考える反抗だ。靴のかかとを踏んづけるような小泉ロックはごめんだ。かわりにロン・カーターの「プレイズ・バッハ」を聞きながら、21世紀の支配層と大衆の関係を少しでもくわしく知りたいとおもう。