松本人志さんと週刊文春の裁判に寄せて、報道被害を考える

松本人志さんと週刊文春の裁判がきょうから始まる。

昨年末から一連の週刊文春の記事を読んできて、また、それらに関連する報道やニュース、マスコミの対応について、私個人として感じたこと、考えたことをまとめておきたいと思う。

私は特に松本人志さんのファンではない。もちろん知らないわけはない有名人だし、年末のガキの使いは毎年楽しみにしていた。M-1やキングオブコントでは松本さんがファイナリストたちをどう評価をするのかを興味深く観てはいた。でもそれ以外の冠番組は見ていない。
好きな芸能人もいないので芸能界の構造やしきたりについては無知だし、芸能人の飲み会やパーティー的なものに参加したこともないのでそれに関する知見はない(知り合いで行ったことあるという人もいない)。記者時代に芸能人や芸能界を取材したことはない。

つまり一次情報にあたる術はない、松本人志さんについても特段強い思い入れはない、元記者で今はマスコミ業界から離れたただの一般人が、文春の記事(有料分含む)や関連報道に接して何を感じ、何を考えたかという話にすぎないことは断っておきたい。

また、前回の記事で紹介した自分の意見を形成する上での情報収集についても、今回は文春以外に裁判の焦点となっている「性加害」を報じていた有力なニュースソースがなく、文春とそれを元にした関連報道で公開された情報を吟味するしか術が無いという状態での意見ということも断っておく。


週刊文春の松本人志さん報道に関する感想

週刊誌という媒体と接するにあたり最も注意しなくてはならないのが、煽り表現、誇張表現だ。記事見出しで強烈なインパクトを与えて雑誌購入(あるいは記事クリック)促進を狙っているであろうことは、読み手側が十分に頭に入れておくべき注意事項だ。情報の発信側の主張の入り込み方は、新聞やテレビ等他のメディアの比にならないほど強いという点は、受取手として特に考慮しなくてはならないだろう。

端的に「記事の本質」(ここでは情報の真偽は関係なく、週刊誌側が最も伝えるべきと判断したことを「記事の本質」と書いてます)を表現する「見出し」において、週刊誌はこれでもかというくらいに極端にそれを打ち出してくる。ただ、本文を最後まで読むと「え、全然見出しから感じることと違うじゃん」ということが多々あるので、読み手はこれに気をつけて、いやむしろもう見出しは無い(無視)、という前提で読み始めた方が、記事の中から自分が参考にできる情報をバイアスなく抽出できる(流石に限度はあるが…)。

松本人志さんに関する文春の記事を第一弾から全て読み、一貫して感じたことは一つ。「客観性・中立性が著しく欠けている」ということだ。普段から週刊誌の記事に感じていることから特別乖離しているわけでもないのだが、今回ワイドショーなどで話題にもなったが、一つ一つのワードが松本さん側への悪意に満ち過ぎているので、逆に情報が素直に頭に入ってこない、文春として社会に訴えかけたいことを素直に受け取れない、というのが今回の一連の報道の印象だろうか。文春がかけようとしてくるバイアス(ノイズ)を取り除いて、客観的な情報のみを抽出するのが極めて困難な記事ばかりだった、というのがまず第一の感想だ。

簡単に言えば、A子さんB子さんの友人のような立場の人がA子さんB子さんの話を聞いて松本人志さんに憤り、彼女らの代わりに松本人志さんに対して報復してあげているという構図が透けて見えてしまっている。今回、この「A子さんB子さんの友人のような立場の人」という立ち位置が週刊文春だ。
でもそれを読まされている第三者である読者は、彼・彼女らの個人的・私的空間で起きたトラブルについては、何も判断ができない。なぜなら当事者一方の主張しか書かれておらず、松本さん側の言い分や主張は記事中最後の方に申し訳程度に触れられている程度であり、性的行為の強制について真っ向から否定した松本さんの否定に対して何の検証も反論も証拠も出てこない。

これではA子さん、B子さん、文春の個人的な主観・主張を聞いているだけに過ぎない。さらに、この主張ですらも、法的手段や警察など公的機関へ訴えかける動きが見られず、その痕跡もない。文春で記事になった以外に、社会におけるなんらかのアクションが一切ない。一読者としては、これだけの情報でこれを社会問題として捉え、女性の権利がー立場がー人権がーと、自分ごととして真剣に考えるのはかなり無理がある。

私がA子さんB子さんの友人であれば、面と向かって被害を訴える彼女らに辛かったね、悔しかったねと話を聞き、ありえない!と一緒に憤るかもしれない。でも、記者、報道機関としてそれを報じるとなれば話は全く変わる、というか変わらなければおかしいだろう。話にはしっかりと耳を傾けるが、個人的な感情や一方の意見に偏ることなく、事実の真偽を見極めた上で何が起きたかを多方面に取材をかけて検証する。その上で分かった客観的な事実、確からしいと証明できた事実が、友人A子さんB子さんの意に完全にはそぐわない結果だとしても、やはり確かだといえる事実のみを淡々と報じる(もしくは報じない)。

今回、文春はあまりにも告発者側により過ぎてしまっており、もしかして告発者側の主張を証明するためだけに取材をしているのではないか?と疑問を感じながら読んでいた。だから中立性・客観性に欠ける情報ばかりが掲載される。本当に起きたことがなんなのかという視点が欠けた状態で取材をしているからだろう。だから、告発されたもう一方の当事者である松本さん側の取材が疎かになる。

これではたとえ被害を訴える女性側の証言であっても、記事の情報を鵜呑みにはできないと感じてしまったし、そもそも記者が告発者側の完全なる味方、友人のような心持ちで取材しているとしたら、それは娯楽雑誌、単なる情報雑誌としてはありだろうが、報道機関としてはアウトではないだろうかと、個人的にはちょっと憤りまで感じてしまった。今回、法律がどう裁くのかはわからないが。

このように、書き手側が「こう感じてほしい!こう伝わってほしい!社会に訴えかけるべきはこれだ!」というメッセージを全面に打ち出しまくる記事は、私個人はあまり信用できない。それは書き手側の一方的な主張に過ぎないので、やはり自分の意見を形成する上では、さらりとその主張はかわして、客観的に事実といえそうな情報は何か?という視点を見失わないことが大切である、と改めて感じさせられた。

そして、この客観性・中立性が著しく欠けている情報と取材姿勢をもってして、松本人志さんと告発者のA子さんB子さんとの間に起きたトラブルを、文春という社会的権威のある一報道機関が「性加害」として報じたことが、今回の件で私が感じた一番の問題である。

「弱者に寄り添うマスコミ」についての考察

前回の記事でも少し指摘したが、記者やマスコミの特権性、それを正当化する根拠はそれが「社会」のためだからである、という従来の理屈は、SNSやネットの台頭によって個人自ら情報収集や発信が可能になった現代社会において揺らいでいる。それはマスコミ側も少なからず感じており、自身の存在意義、存在価値を新たに模索し始めているのだろう。

昨年のジャニーズ問題以降、マスコミの存在価値を巡る社会の疑念はより一層加速した。マスコミ側も自己検証せざるを得なくなった。そして、「社会」にかわる新たな自身の存在意義、正当性の拠り所として注目し始めたのが「社会的弱者に寄り添う」ことなのだと私は見ている。ジャニーズ問題の一連の流れ、結末はその最初の事例であり前例を作ったと思うし、ある意味社会も当時それを容認した。

今回の文春の一連の報道や、総局長のYouTubeでの主張を、その理屈に当てはめて考えれば「性加害を受けたと訴える」A子さんを始めとする「上納システムの餌食」となり「芸能界の頂点に君臨する強者である松本人志」に「献上」された「弱き女性たち」を全面的にバックアップする「社会的弱者に寄り添うマスメディア・文春」という立場から一連の報道を実行したというのが、彼らが主張する表向きな報道の正当性と言えるだろうか。

(「性加害」「松本人志」とした方が世間の注目集まって雑誌が売れて儲かるんでしょうね、という邪推はあるが、それはこちらとしては客観的には証明できないので、その視点からは今回はあえて論じない)

この新たなマスコミの存在意義・正当性の拠り所「弱者に寄り添う」。この風潮、価値観はジャニーズ問題を契機に瞬く間に広がったように感じる。ただし、これは実はとてつもない危険を孕んでいるという視点が欠けていた。「弱者に寄り添う」姿勢をマスコミが最優先するようになり、弱者を虐げた強者は客観的な根拠の有無を問わず、社会的に吊し上げ貶められても仕方ない、と言わんばかりの報道姿勢が目立つようになった。

弱者の声はより丁寧に拾い上げ、強者がいかに酷い仕打ちをしたのかは積極的に報じていく。それについての疑問や疑いを一切発してはならないし、質問してもいけない。これまでテレビでは取り上げられなかったような記事もワイドショーやニュース番組で取り上げられるようになった。強者とされ告発された側の主張は最低限しか取り上げられず、発言してもそれについて記者が厳しい追撃や糾弾を喰らわせ、ボロが出したり揚げ足を取れる機会を狙う。虐げられた弱者の主張にマスコミや記者は徹底的に寄り添う。

ここで疑問なのだが、マスコミやそれに所属する記者は、自身が社会的「強者」(とみられている人)を糾弾し社会的に抹殺できる、時には本当に対象の命さえも奪いかねない、圧倒的な「強者」であるという自覚が一向に芽生えないのはなぜなのだろう。そして、その圧倒的「強者」であるマスコミを全面的に味方につけたいわゆる「弱者」は、本当に弱者といえるのかという視点が欠けているのはどうしてなのだろう。自身が当事者側の一方どちらかに肩入れすることで、強者と弱者という構図が決まるということは考えていないのだろうか、あるいはわかっていても気づかないふりをしているのだろうか。

自身の持つ力と特権性を正当化したい、そのための「弱者に寄り添うマスコミ像」という安易なわかりやすい自己暗示に酔ってないか。大前提である「中立性・公平性」「正確な情報を社会に届ける」という報道の概念と矛盾していないだろうか。私は、こうしたマスコミの自己矛盾、問題点を浮き彫りにしたのが、今回の松本人志さんの裁判であり、文春の一連の報道そして追随した関連報道であると感じている。

松本人志さん報道に感じた異常性


まず、第一弾が報じられた後、文春の記事をベースにした「性加害疑惑」がテレビや新聞でも取り上げられらようになり、それについて番組のアナウンサーやコメンテーターたちがコメントせざるを得なくなる。事実はわからないから何も言えない、というコメントは許されない中で、結局「もしこれが事実であるなら〜…」という仮定でコメントし、松本さんの「性加害」のイメージは徐々に形成されていく。

文春の「事実無根」と松本さんが訴えても、何がどこが事実無根なの?という揚げ足を取り、説明する間も与えず一方的な報道はやまない。松本さんの主張、取材に対する回答である「事実無根」に対する取材や調査、その事実への配慮は一切なく「性加害を受けたと証言してる匿名の女性たちがいる」ということは連日報道される。第一弾から程なく松本さんは裁判に訴えると発表した。

これは自身の主張である「事実無根」を社会に正しく認知してもらうには、もはやマスコミ介してや、あるいは自分自身のSNS発信では困難であり、法的手段に訴えかける以外にないと判断したのだろう。
それでも文春をはじめとするマスコミは、告発者である匿名の女性たちの文春ソースの情報を報じ続け、松本人志さんの主張である、性加害に対する「事実無根」という視点からの独自取材をかけることは一切せず、一方の主張に基づく情報のみを報じ続けた。

特段松本さんのファンというわけではないのだが、異常なことが起きている、と感じた。どうして、性加害はないのかもしれない、という意見や考えは誰も発しないのか、それを取り上げないのか。妙な圧力を感じた。

松本さん側の「事実無根」という主張があり、裁判に訴えているという客観的事実は考慮されない連日の「性加害疑惑」報道、流出したお礼LINEについては、性被害者は迎合でこのようなメッセージを加害者側に送ってしまうことがあるから「法的には決定的な合意の証拠とはならない」ということで、その後は触れられもしなくなった。その理論でいくなら、松本人志さんの「性加害疑惑」は警察に届けられたわけでもなく、刑事でも民事で訴えられたわけでもなく、本人は事実無根と否定しており、法的な根拠は一切ないという意味で事実すらないのだから、それ以上議論することも報じる正当性もないだろう。
無理やり、合コンや飲み会の場で女性は常に危険に晒されている!男が飲み会に女を集めるのはホモソーシャルだ!男は女を搾取するんだ!という、文春側の偏りある情報発信に基づくテーマを前提にコメンテーターが議論し始めたときは、テレビの前でポカーンとしてしまった。まさか本気でこれを真実だと思って議論してるんじゃないだろうな?間を持たせるためだよな?と心配にもなった。

もともとすでに時効が成立していることや、法的には訴えられない事象、客観的に確認ができない事象に対して報道、議論している中で、一方は「法的に決定的な証拠にならない」として全く検証しない、かたや法的には存在しない「性加害疑惑」については文春記事を引用し、「性加害はあったかもしれない」「女性は辛い目に遭わされたのかもしれない(いや、絶対にそうだ)」という前提のもとめちゃくちゃ議論しまくる、という構図は、あまりに公平性も客観的な正当性も感じられず、疑問を感じざるを得ない。

今回は週刊紙だけでなく、テレビもそうした報道を行ったことに驚いた。なぜ松本さん側が裁判を起こしてまで主張する「性加害はない」かもしれない、という視点から独自取材する報道、検証はなされなかったのだろうか。少なくともそれをしないなら「性加害疑惑」そのものも、報道機関として報じるべきではないだろう。文春の記事を公共の電波に垂れ流し広めるだけの報道を、どうしてしてしまったのだろうか。

自身が加害者になっている可能性を自覚できないマスコミ


2〜3月以降、記事に書かれた当事者たちから発信された松本さん側の主張、文春記事への反論も、テレビでは一切報じられなかった。その理由や背景について、先日のワイドナショーでアナウンサーの方々が「裏が取れているかわからない」「飲み会の情報は出尽くしているから新規性がない」というような曖昧な答えで流した。これは、マスコミ側もまだその正当性についての理論武装ができないからなのだろう。というか、たぶんそのことについて深い理由はなく、単に「社会的弱者である性被害を主張する女性たちに寄り添う、強者にも忖度しないマスコミ」という自己像を崩すことができず、わかりやすく弱者が告発女性、強者が有名人の松本人志さん、という設定から抜け出せないからだ。

だから、マスコミ自身が加担したことで「強者となった弱者女性とマスコミ連合」が「弱者に追い込まれた松本人志さん」を正当な根拠もないまま貶めてぶん殴っている、という構図、その深刻な人権侵害にマスコミ側が気付けなかったのだと思う。

自分たちが人権侵害の加害者側になっているという可能性は一切考えていなかったが、文春記事への反論やSNSでの批判の声によって今ごろその可能性を認識し、必死にその正当性と理論武装を考えている最中なのだろう。だから、報道の根拠や判断基準が曖昧で納得感がない。そして、拠り所としていた「裏どりされているはず」の文春の記事について、文春の総局長が「刑事事件にできるような客観的な証拠はない」という発言したことは、テレビや他の報道機関側もハシゴを外されたような気分になっただろう。

文春報道から読み取れる事実と「性行為の強要」として報じたことへの疑問

文春の松本さんに対する報道は全て読んできた。その中で、文春がA子さんB子さんの証言から松本人志さんを「性加害者」のように扱い報じたことの正当性、なぜ性加害がある、報じるにたる確証がある、という判断に至ったのかという論拠については、納得できるだけの情報は記事の中で言及されていなかった。少なくとも私は未だに「なぜ性加害という強制、性犯罪を松本さんが行ったのだという確信を文春は得られたのだろうか?なぜ、そう報じられたのだろうか?」という疑問は拭えてない。今わかっている確かな事実は、
A子さんと松本人志さんは8年前に飲み会で会ったことがある
ということだけだ。その中で起きたことは全くわからず、どう裏取りしたのかわからない、女性の証言に基づくとされる文春の記事だけしか情報はなく、それについて当事者の松本人志さんが否定している以上、何もわかったことはない。

本日文春に掲載されたA子さんの手記や一連の報道から読み取れる、これから客観的にも証明可能そうな事実、確からしそうな事実は

  • 記事に関して謝礼やお金は受け取っていないらしいこと

  • お礼LINEを送ったこと

  • 松本さんとの一件以降も小沢さん主催の飲み会に何度か参加したこと(ご本人にとってあまり有利な証言ではないので確からしいと判断)

  • 警察や法的手段に訴えるには証拠がないこと

  • 文春と松本人志さんの裁判で証言台に立つ覚悟がある(現時点では、ということだろうが)

ということだけだ。松本さんから性加害を受けたとされる翌日に友人に「危なかったよ、来なくて正解だったよ」という趣旨のLINEを送っており文春側もそれを確認しているらしいが、小沢さんや松本さんのLINEやメッセージ画面と異なり記事に写真の掲載がないので、真偽は判断できない。裁判で証拠として提出するのだろうか。

私は直接取材をしていないからわからないが、読者として、このトラブルをなぜ「性加害疑惑」として報じたのかがわからない。その確信に至った経緯は読者側からは不明瞭だし、それを確信できる証拠やロジックすら提示されない。告発者女性の主張を全面的に信じて寄り添っているということなのだと感じるが、それを報じることによる松本さんへの社会的影響を文春側が意識できていなかったとしたら、それはあまりにも能天気すぎるし無自覚すぎるだろう。

なぜなら文春は今までたくさんの有名人をスキャンダル報道で社会的に抹殺してきた実績があるからだ。そしてそれは、文春砲というブランドのもとでは決してなく、言い逃れできない「客観的な証拠」とともに報じられたからこそなのだ。だからどんなに納得できない、モヤモヤする、これでいいのか、という疑問があっても、当事者や多くの人たちは黙って見ているしかなかったのではないか。そのモヤモヤや疑問が頂点に達しそうな時に、今回の松本人志さんの報道、そして客観な証拠が提示されないままでの一方的な報道。それに対するヘイトが、今SNSで起こっているのだ。

文春は今起きている文春バッシングをただの松本人志さん信者による攻撃と軽く見ているとしたら、それは大きな間違いだろう。松本人志さんのファンでは無いが文春のやり方はダメだと感じる、としてSNSで発信している個人はたくさんいるし、現に全く松本さんのファンでもなく擁護もしてない、文春の購読者だった私も今回の報道で記事に対する信憑性や取材体制に疑問を感じ、ストレスや疑念なく文春記事から情報収集はできなくなったので購読は辞める。もう二度と購読しない。 

報道被害に対する検証が必要

今回の週刊文春の報道は、たくさんの記事の中の一つの記事であり、週刊文春には他にも優秀な記者がたくさんいるのだろうと思う。しかし、あまりにも自身の持つメディアとしての力や権力を軽んじていて、気ままにふるいすぎている。その力を行使した後に対象がどうなったのか、そして真偽はどうだったのかについて客観的・中立的視点からの反省や検証は一切みられない。
一方に加担することに躊躇も迷いもなく、自分たちの主張を訴え押し通そうとすることによる人権侵害や報道の暴力についてはとことん考えず、無視する。

そんな価値観を持つ報道機関であるなら、そこから得られる情報に信頼性はないし、ましてお金を払う価値もないと私は感じる。

裁判が始まり、これから記事の中では紹介されなかった、あるいは松本さん側がこれまで対外発信していなかった情報も明らかになっていくことになるのかもしれないので、その推移を見守りたい。

そして現時点で性加害の有無はわからないが、少なくとも、一方的な疑惑により社会的に抹殺され誹謗中傷にさらされる「報道被害」という実害は現在進行形で紛れもなく発生している。テレビや報道番組で真偽が判明しない(たぶん永遠にわからない)松本さんの性加害疑惑を、大真面目な顔して「もし事実だとしたら〜」前提で議論するよりも、この報道被害についてどう対応し配慮し反省していくのかを議論する方がよっぽど有意義だと私は感じる。

報道被害の加害者である週刊文春、ひいてはテレビ等のマスコミ側が、どのような判断と検証、反省をしていくのか。これから注意して見続けていきたい。




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