2025/01/16 演劇「ドードーが落下する」
もう1週間以上前のことになるのか。やっぱり日記ってすぐに書かなきゃいけないなと思う。その日思ったことはその日のもので、今この演劇の感想を書いても今日振り返って思ったことになってしまう。
それでも1年後に思い出すよりも、1週間後に思い出す方が鮮明だから書くけれども。
仕事終わりというか合間というかに「ドードーが落下する」という演劇を観に行った。た組の公演で岸和田國士戯曲賞を取った作品。
面白かったという言葉があってるのかは分からないけれども、いくつもの点で心を揺さぶられる作品だったと思う。(以外ネタバレ含みまくる)
・セットの面白さ
セットを使った見せ方が面白かった。最初何が起こってるか分からない不穏さ。登場人物たちの待機場所で誰なのかを認識させたり、同じセットなのに場面転換を分かりやすくさせたりする手法はすごくスタイリッシュだった。
あとは、物語の終盤主人公の独白シーンで、セットの上に立つ主人公の不安の伝え方は凄かった。ドードーが落下するというタイトルを頭の中で反芻した。
・様々なシーンの再現度の高さ。
カラオケで酒に呑まれまくってる集団の解像度。欲望のままになんとなく若い女の子にキスする主人公とまんざらでもない女の子、その女の子を好きだけど素直になれず正義で誤魔化しながら糾弾するイケてない男。そしてそれらをただ傍観する人たち。この飲み会知ってるなーと思わされる。
あとは、劇場スタッフとそこに押しかけて来ちゃった元カノの痴話喧嘩。第三者から見ればお互い何を思ってるかなんて明白なのに、何故か意味の分からない喧嘩が勃発する様はリアル。
他にも芸人である主人公がバイトの初出勤して、一発芸をやらされてスベリ散らかす様など。バイトリーダーの雑なフリでスベらされたあとの雑な返しで、助けてるんですよ俺が!と言ってしまうバイトリーダーの辛さたるや。バイトを生きがいにしてしまっている大学生の感じも良かったな。
とにかく、うっとなる嫌なシーンの解像度がすごく高い。
・統合失調症でおかしくなっていく主人公のそばにいた友人たちへの共感。
これがこの話のメインだと思うけれど、辛かった。どんなに仲が良くても結局は他人という事実を突きつけられる。友人だけでなく、妻や親でさえ当事者にはなり得ない。当たり前なんだけど…。もし私の親友たちがおかしくなっていったら、どうするんだろうと考える。精一杯寄り添ってあげたいし、そのつもりはあるけれども、現実問題を考えると自分の人生のこともかんがえなきゃいけないし限界がある。実際に学生時代は悩みを一緒に考えて過ごしてあげることはできたけれど、それぞれの人生を歩む今、学生時代の友人たちの現在の悩みは対岸にある。うつ病を発症した友人にしてあげられることはなかったし、自殺してしまった同僚にしてあげられたことはなかった。本当に精一杯できる限りで思ってあげることしかできないんだと思う。自分も自分の人生をしっかり1人で生きなければいけないなって。
・おかしくなっていく主人公への共感。
おかしくなってしまった主人公に対して、芸人としてSNSでカミングアウトすればバズるのでは?とアドバイスする劇場スタッフ。それに対して、カミングアウトはしたくない。おかしいと思われたくないんだと拒否する主人公。そして、それを理解できない劇場スタッフ。この分かってくれなさに涙が出た。アドバイスってすごく怖いことだなと。良かれと思ってやっていることなのがなおさら。
私は統合失調症でもないし(多分)、主人公の気持ちを分かり切ることはできないけれど、共感できる部分はあるように思う。自身にADHDみがあるなと思っていて、だめな部分が多いから、基本的には人に下に見られている方が楽だし、そう誘導することが多い。むしろそれが私の特技とすら思っている。けれども、バカにされることが嬉しいわけではない。我ながら難しいなと思うけど、ポーズとしてバカにされるのはおいしいとすら思えるし。関西風に言うとアホだなーと笑っていてほしいけれど、バカにはされたくないというか。この差異がなんだか自分でもわかりきってはいないけれど、多分、何でも許せるわけではないことを分かっていてほしいんだと思う。主人公ほど普通に生きる為の努力をしているわけではないし、自分のだめさを隠したいと思ってるわけではないけれど。分かってくれない劇場スタッフへの、何でそっちの理屈を押し付けてくるんだよという怒りへの共感だったのかな。
自分間違えましたかね...?という台詞は辛かった。
あと、2人が言い合いしてるカラオケボックスで見て見ぬふりをしながらルージュの伝言を歌う他の面々。
・薬を使って自分がなんなのか分からなくなる辛さ。
主人公にとって普通であった状態を薬によって治す。それは周りからしたらコミュニケーションが取れるようになるし有り難いことなんだけど。主人公にとって大切だったものを失っていく。
ADHDの薬を飲もうか迷ったことがあって、それを飲めばある程度症状が抑えられるという。どれだけ効くかは分からないけれど、私の極度の遅刻症や忘れ物なども減って、無駄な時間が減るのかもしれない。でも、その話を友達にしたら、それってあなたじゃなくなってしまうねと言われたことがある。アイデンティティが遅刻や忘れ物にあるのはヤバいけど。笑 薬を試したみたい気持ちは未だにあるが、自分が向き合ってきたものがなくなってしまう嫌さもある。今の私を(恐らくダメさを含めて)面白いと思ってくれてる人たちもいるだろうし。身近に薬を飲んでる人がいるけど全然分からないから、実際はそんなに外から見たら変わらないレベルなんだと思うけど。個性も病気もグラデーションで難しいなと思ったことを、この演劇を観て思い出した。統合失調症は後から発症するものだったり、周囲への影響も強かったりするから、比べものにはならないと思うけど。
ドードーを見終わった後、一緒に観に行った同僚たちとご飯を食べた。同僚の一人が主人公に共感をして涙をしたという話をしていた。ただ面白かったのが、主人公には寄り添ってくれる仲間たちがいて良かったという。私と真逆の解釈だなと。その人は優しい人だったからきっと肯定的に見たし、私は寄り添ってくれた劇場スタッフをきっと分かんないだろと突き放すけれど、その同僚は寄り添ってもらえたことを嬉しく思うんだろうな。
最後に劇場スタッフが主人公のことを本当に面白いと思っていたんだと言うシーンがあって、そこで主人公が救われて良かったと言っていた。私はその優しさが分かってるからこそ、余計に主人公は辛かったように思えた。
その同僚に何も言えなくなって、頭ぐるぐるさせながら職場へ戻った。
その後少し仕事をして、ドードーを一緒に見に行った別の後輩と2人で飲みに行った。その時に、そのぐるぐるを話した。
そもそもその感じ方への違いに私はコンプレックスを持っている気がする。例えば泣いている人がいた時に私はたぶん声をかけない。なんて声をかけたら良いのか分からないし。だけど、ドードーを肯定的に見たその同僚は、恐らく泣いている人に話しかけにいける人だと思う。それを羨ましく思ってきた。昔から友達を作るのが苦手で、なんか適当にグループに組み込まれても、踏み込めずにグループ内でも仲が良い子というのを作れなかった。まぁ部活動とかしてて結果何とかなってるし、だいぶ友達には恵まれてる方がと思うけど。
そのコンプレックスが刺激されたのか、私は至って冷静に話してるつもりなのに、勝手に涙が止まらなくなった。自分のことを話そうと思うと何も悲しくないのに涙が出ることがある。
と思ったら、「泣かないでーそこにはほら かけがえのない大切なものー♪」店内BGMでロードオブメジャーの大切なものが流れた。タイミング良すぎで思わず笑ってしまい、涙も吹き飛んだ。これでコント書けるな。笑
私はきっと私と同じ考えを持っている人にとっては助けになるし、優しい同僚はきっとその優しさを肯定してくれる人の助けになるだろうし。
それぞれがそれぞれだよね。
なんか感情が忙しい1日だったけど、とにかくドードーが落下するは素晴らしかった。
後日ユーチューブで無料公開されてる、数年前の初演バージョンも観た。個人的には改訂版のほうが好きなシーンが多かったけど、劇場スタッフさん(友達側)に寄った描写が多く、少しだけ見方が変わった。
日記のくせに長すぎる。。。