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2025.02.02 -なぜ私はBLの男に自己投影するのか-
今日日記に副題をつけることに決めました、どうもおはこんばんにちは。最初にしてはだいぶ尖ったタイトルではあります。
Xで4日修論が燃えさかる中、わたしは1日卒論草稿です。灰になるまで業火で燃やしてください。
すみません私pixivの腐向けタグ文化(作品の一部をもじって腐の字を入れるやつ)のこと心底敬意がないわと思って嫌ってるんですけど、漫画『チ。』の腐向けタグが「フ。」なのを今知ってさすがに大ウケしちゃいました フ。そんなん笑みやん
— すすば (@me_kki) January 16, 2025
さてそれはさておき、最近わたしの頭の中にいるのはもっぱらこのツイートである。
最近pixivを漁ることも少なくなり、昔触れていた文化(?)の片鱗が色々と物議を醸しているのを見かけた。「フ。」なの普通に面白すぎるやろ。
原作の名前+腐向けとかBLとか付け足したら検索避けの意味まるでないやろ、という私の意見はさておき、最近自分の中で消化しきれないというか、よくわからない思考が頭を蝕んできたのでここに書き記しておく。
客観的に見てどちらかといえばマイナーだったり、はたまた「陰」と呼ばれる趣味に片足突っ込んではや10数年。幼かったのと自分用のデバイスがなかったのとで私は傍観者側でしかなかったが、存分に父のパソコンでインターネットの海を泳がせてもらった。変なウイルスを貰わなかったのがだいぶ不思議ではある。
好きなジャンプ漫画のMMD動画だとか、手書きトレスのコンビニパロだったりとか、はたまたオタクなら耳が痛い単語であろう占いツクールというサイトとか、パスワード(キャラの誕生日とか身長)を入力しないと閲覧できないサイトとか。
これを打ち込みながら3万年ぶりに占ツクを開きましたが、現在もわんさか住人がいて安心しました。自分が昔読んでた小説ないかなと古傷を自分から抉ろうとしましたが、UI的に難しかったです。これで良かったのかもしれません。
ほんで、それと同時にやはり百合やら薔薇やらは幼い頃から触れており、二次創作に触れる時は性別カプジャンル問わず全部読むとかいう強欲な壺が爆誕しておりました。これは、全く少女漫画を読んでこなかった、買う状況になかったのも多分加担していると思います。今でもキスシーンとかあるドラマ見られません。目を背けます。俗にいう胸キュンシーンが胸ギュウウウウン(病的)シーンなんですよね、私の場合。
そんな背景を持つ私が前述ツイートを見て思ったことはふたつ。ひとつはインターネットが普及しすぎていて、そして現在普及しているSNSのシステム的にもう棲み分けとかいう言葉が存在するのは難しいかもしれない、という悲しい現実。そして私はなぜこんなにBL作品読んでるんだろう、という単純な疑問である。元々わたしは何か思い当たった時に脳が勝手に連想ゲームを始めてよくわからない方向に辿り着いてしまうのだが、これもその変な連想ゲームの行き着いた先の問いであった。
胸キュンシーンは動悸がするし、よくある恋愛ドラマ/映画は見たことがない。見ることもない。けど小説の場合はとても読む。(有川浩さんの植物図鑑が永遠に大好き)
そして思いついたのが、「映像化されてる恋愛モノがダメなんじゃね?」という結論である。これは多分正しい。舞台で演技する際に「私なにやってるんだろう…?」みたいなことを考えてしまうタイプの自我の強さをしているので、演じている恋愛に共感性羞恥みたいなものを覚えてしまうのかもしれない。あと、基本画面に写っている恋愛は見目麗しい人間がやるものなので自己投影が全くできないということもある。
それはそうなのだが、最近気付いてしまった。BLの男に自己投影する自分がいることに。
いやまだ自分の性別の女性ならまだわかるんですけど、何でよりによって男性同士の恋愛の片方に自分を自己投影しているんだ….?
何もわからなくなってしまった私はトチ狂ったのでGoogle Scholarで検索をかけました。多分過去の賢人が私みたいな感情を学術的に解きほぐして言語化してくれてないかなと。
そしたら見つけちゃったんですよね…..
https://soc.meijigakuin.ac.jp/uploads/2010/04/essay2008_s01.pdf
上記の論文を読んでちょっと天を仰ぎました。これじゃん……
(前略)女性は「選別される性」となる。「愛されるために」、「愛」の対象となるためには、選ばれなければならない。この選別する「まなざし」からは逃げられない。「美人」で「かわいい」女でなければ選ばれない。つまり、「愛」の対象になれない。(中略)つまり、「愛」の対象となる「選ばれる女」という階級の下に、「愛」の対象にならない「選ばれない女」という階級があるという。私は、それに加えて、「愛」の対象にも「性欲処理」の対象にすらならないという、「選別」の対象にすらなれない女性の階級があると思う。そして、そのことは女性にとってかなりの恐怖につながるだろう。
もうアーカイブしたので見られないが、元々私はここのページを自分が奥底に仕舞っていたマイナスな感情を消化するために使っていた。その一環として書いた記事により、自分に深く根付く「カワイイコンプレックス」があることを自覚したのだが、ここの文章の通りである。カワイイ存在でない自分に恋愛的な価値を感じていない、「選ばれる」と思えない→映像化されているカワイイ女性と男性の恋愛モノが見れない、ということなのかもしれない。てかこの論文個人的にほんまにおもろかったから読んでほしい。
でも、何で男性側に自己投影しているんだろう。ここは解決されていない。
一般的に、BLが好きな女性は、登場人物が消費される側としての女性ではないため、自らが排除されて単純に関係性/物語を楽しめるから好き、というのが通説である(と私は肌感で感じている)。要するに自分は参画しない、傍観者側という訳ですね。じゃあなぜ….
そして自分が至ったグロテスクな結論は、「普段カワイイと見られない男性側が可愛がられ、恋愛をしている様子を自分と重ねているのではないか」です。きち〜〜〜
多分、自分を客観的に見た時に自己認識が男性性に寄っている。カワイイコンプレックスをこじらせているというのもあるし、言葉遣いも荒い(これは直す努力をしている)、身長/体格は女子平均より高い/大きい、どちらかといえばしっかりしてる/大人びてると思われるタイプ。よく言われるかわいい、やわらかいといった女性性的なものに沿わない自分を男性に重ね合わせ、そしてそんな男性性を持つ人間が恋愛対象になりうるBL作品に自己投影が向いているんじゃないか。
うーん、だいぶグロい。なんだろうこのグロさ。言い表せない。
自己認識は、たぶん歪むと修正するのはだいぶ難しい。歪まないというか、これよりだいぶ尖った方向にいかないように、とりあえずもう30回ぐらい植物図鑑読んできます。あとは図書館戦争。図書館戦争はマジでいい。それでいうと、昔図書館戦争を読んでいた時はすごく響いたのを思い出しました。長身で仕事を頑張る、おてんばな笠原郁には自己投影できたのかもしれません。図書館戦争は、別冊までがセットです。
つけ加えて、昔は何にも違和感を抱かなかったのに今となると小牧教官と毬江ちゃんの恋愛、だいぶやばいよな…..
付き合ったころ毬江ちゃん高2の16歳で小牧26歳とかやろ….と思えるようになった自分は大人になった印なのかもしれません。でも結婚した時は小牧34歳、毬江ちゃん24歳なので全然マシに聞こえる。私の両親が10歳差なので何にも違和感を感じないだけかもしれませんが。
やっぱり未成年って超えられないハードルがあるんだな。
有川浩作品について語り出したらそれだけで卒論レベルの文字数が書けてしまうような気がするので、それはまた別の機会に。
あーマジで卒論どうしよう。誰か私を宇宙のチリにしてください
P.S. 見返したらだ・である調とですます調が混在してて超読みにくいのに描き終わった後気がつきました。次の課題とします(レポート風)