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なんだかおかしくないか?ということに抗い続け流されないこと。

 前回落語についてちらっと述べたのだが、私は落語も大いに好きで能動的に聞くタイプなのでもう少し付け加えたくなってしまった。
 能や狂言も見に行くが、特に能は話の内容がわかっている前提で観覧することが多い。狂言も落語も(並べて語るものではないかもしれないが)、いわゆるオチがわかっているものを見に行くものではある。初めて見る映画のようにこの先どうなるのだろうラストはどうなるのだろうというようなワクワク感というよりは、「オチのわかっている話」を楽しみながら聞くというのが基本的なスタイルだ。もちろん、気に入った映画であれば、何度も見返すことはある。でも、落語は同じ演目を異なる人物が演じる。十八番なんてのは歌舞伎の言葉だが、落語でも十八番はある。そうでなくても、小さんや枝雀の落語は何度見ても腹を抱えて笑える。枝雀のうどんのすすり方はもうそこにうどんが見える。

 さて、高座での舞台を基本とする落語において、寄席で技能が鍛えられることはあっても、テレビのスタジオで演じることには殆ど意味が見出されていないのだろう。以前は公共放送で割と頻繁に落語名人戦が放映されていた。今はほとんど見ない。YouTubeで見れば済むかもしれないが、一昔前はテレビで放映されていたのだ。
 しかし、昨今寄席に中継が入って放送するかといえば、視聴率が取れないテレビ局側には旨みが少なく、そうなると、無料で視聴されてしまう落語家にとってもメリットは少ないと考えられてしまう。つまりは、視聴者(ファン)の拡大を狙うより、現存のファンを相手に商売をすることをまず第一と考えていくことになる。

 関西のお笑いの最大の強みは、その地域で認知され評価されれば、他の地域での評価をまったく気にしなくても、生業として十分成り立つだけの市場が存在することである。

 おそらく、落語もそうなのだろう。今まで高座で活躍してきたような人は活動の機会が減少しようが根強いファンはいるし、本人が舞台に上がらなくても、DVDやYouTubeなど新たな手段での収入も得られるようになった。15分の中継ができなくなったメディアが落語に目を向けるとも思えず、われわれが新しい落語家を識る機会は限りなくゼロに近くなってしまった。当然、ライフスタイルの変化、娯楽の多様化、人口減少などの社会背景を受けて、落語もカタチを変えてゆくのだと思うけど、変わっていく部分と変わらない部分があってこそ文化は継承されていくものだと思う。

 その意味では、以前は結成10年以内のコンビを対象としたM-1というコンテストは、次世代の漫才を強く意識した企画であるとも言えるだろう。(現在はそうではないようである。多分、ドリーム感を前面に押し出した結果かとも考えられる。)
 漫才という文化をどのように捉えているのか、そこに何を受け継いでいこうとしているのか、現在、メディアの都合に振り回されるお笑いに警鐘を鳴らす意味でも、M-1は存在していると言えるかもしれないし、それでこそ存在意義がある。

 少し前にケータイ小説なるものが若い世代を中心に広がった。何かの賞を取った「あたし彼女」を読もうとした。新しい流行に触れるという安易な高揚感を得ながら読み進めたが、苦しんだ読了後しばらくその他の作品に手を出すことはなかった。
 ただ、活字離れが進んでいるといわれて久しく、どのような形態であれ活字に触れ、文章になじむことは日本文学を下支えする人たちを開拓するための手段であるかもしれない。このような人の中から、本を手に取り、図書館で借り、購入する人たちが少しずつでも増えてくれることを願ったものだ。現在はスマホを除けば活字は無限に広がっている。情報を探す時代から、無尽蔵にあふれる情報から、正しくて自分が必要としている情報を選ぶ時代へと明らかに変わった。情報過多から意見過多へと変わった今、切り捨てる能力が必要になってきている。

 教えていて感じることの一つが「説明すべきものは全て言わないと伝わらない」ということだ。行間は読んでくれない。言葉が全てなのかもしれない。すべてを言わないと分からないというのは、行間を読む力の衰退というより、想像力の欠如が大きな原因であるように思う。
 ツーカー、阿吽の呼吸、皆まで言うな、空気を読む。これらの行為は文化・価値観の共有を前提として初めて成り立つ。KYということばが、非常に狭い世界の中での発想で、自分の価値観の強要に他ならないと気づかない限りは、新しい世界に出会うことも、それらを認めることも、そして、じぶんの幅を広げることも、できないだろう。

 最近の学生を見ていて感じるのは、いかに少ない努力で如何に高い点数をとるか、ひどい場合には課題をクリアするための最低の条件は何か、だけに執着しているように感じる。点数が高く出る自己表現はマネできても、じぶんのことばで語ることの難しさに気づくのはいつのことなのだろうか。
 にわとりとたまごでいえば、どちらが先でもなく、大きなうねりの中にどちらも巻き込まれているということだと思えてしまう。
 今自分にできることは、「なんかおかしくないか?」と感じることに鈍感になってしまうことではなく、抗い続け、ただ流されてしまわないことだと思うしかない。

 世の中、他の人が気付かないうちに、じぶんの都合の良いように暗躍する狡猾な人たちがいて、彼らが跳梁跋扈している世界で生きている以上、不可視化された現実に無自覚でありたくない。そして、そういう現実に翻弄されてしまう教え子を出したくないと、心から願うばかりだ。

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ゆりてる
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