太陽と月は自己と他者でもある〜影の優しさ
太陽を自分自身とすれば、月は他者(自分以外)でもあります。太陽を男性性(男性原理)とすれば、月は女性性(女性原理)でもあり、それは現実世界においては「あらゆる基本の雛形としての父と母」という形を取って象徴化されます。
太陽は光、月は影とも言えます。私は大きなモチーフよりも日常の光と影が表現された写真が好きなのですが、それは影が優しいからです。影が存在していることで光の美しさもまた浮き彫りになるからです。
そもそも、自分とは他者がいてこそ明確になるものです。ホロスコープの左半分に星が多いと自分主体で、右半分に星が多いと他者主体であると解釈されます。火と風のエレメントが多いと自分軸を重要視し、地と水のエレメントが多いと他者軸を大事にする性質だと言われます。(でも、これも一概には言えないのが占星術の奥深さですね)
男性性と女性性ーーこの二つはどちらか一方で成り立つものではなく、切っても切り離せないものであることは明らかです。二つで一つです。もしも、この世界に自分一人しか存在していなければ、自分という輪郭も曖昧になり、「自分なるもの」を知ることさえできません。他者あっての自己、月があっての太陽です。太陽と月もワンセットです。
月は心や感情世界を示していると同時に女性性です。それは月が反射する天体ということからもよく理解ができます。自ら燦々と輝く太陽という能動性(男性性)が非常に重要であると同時に、反射・吸収する月という受動性(女性性)もまた必要なものです。反射・吸収するとはありのままを映し出しそのまま受け入れることであり、それがあるからこそ、他者や世界、さらには運命なるものと響き合っていけるのです。
女性性とは何かという問題も奥が深いのですが、端的に捉えるなら「何も足さずに受け入れる」ことだと感じます。受け入れる能力=女性性はとても重要なもので、私たちは最終的にこの受け入れる能力を使って、健やかに生きて健やかに死ぬことが可能になります。
年齢を重ねると肉体は衰えますし、失っていくものが多くなります。両親や大切な人との別れもやってきます。そして、最後は自分を手放して、宇宙の営みに溶け込んでいくことを受け入れていく。それは諦めでもあると同時にとても優しい世界です。
老いることを受け入れる。失うことを受け入れる。別れを受け入れる。終焉を受け入れるーー誰も生老病死に抗うことはできません。それに抵抗すれば非常なる苦悩が生まれますが、本当の意味で「ありのままの世界と私を受け入れる」ならば、却って自分自身の輪郭や尊厳性が静かに輝き始めます。
太陽と月はセットです。月の要素がない世界は真っ昼間だけの夜のない世界と同じ。ギラギラと眩しくて落ち着きません。心の休まることがありません。そして、自分という片方の車輪だけで人生をわたっていくようなものです。12星座が全て必要であるように、全てを切り離すことはできません。それは、自分の一部だけを見て「これが自分だ」と錯覚するようなものだと思います。
太陽と月だけでなく、全ては裏表です。良い悪いはなくてバランスです。自分というものを輝かせない限り、他者を認めることはできない。他者や外界を受け入れない限り、自分を知ることもできない。そんなパラドックスの世界を生きているのが私たちです。バランスとは最も難しいもののひとつだと思います。男性性の強いアトランティスも女性性の強いレムリアも同じように消えていったことが神話化されているように・・・
余談ですが、成田悠輔さんが「高齢者は集団自決・・・」という発言をして、炎上しましたよね。海外メディアでは問題発言としてかなり大きく取り上げられ、在籍されているイェール大学からも彼の言動から一線を置くような文章が出されたようです。
当初、発言の一部だけを取り上げられているのを見て、私も驚いたのですが、成田さんの仰ることをよく知れば、「ああ、そういう乱暴な意味ではないな、命を軽んじるような意味ではないな」ということが伝わります。表現が過激であるために、その真意が誤解されているのだと感じました。中でも、養老孟司さんとの対談や宗教二世との対談などはとても興味深く、成田さんが愛のない理論武装の人ではないこともよくわかります。
もしかしたら、成田さんは、月が象徴する「女性性・受け入れる」ことが必要ですよーーということをあらゆる形で表現しているのではないかと感じられるのです。満ちては引く月。世代交代していく人間社会。生きてやがて死ぬ私たち。よく聞いてみると、太陽だけでは立ち行かない影の部分に焦点を当てて話をされている。個人的感情ではなく全体を見る視点がそこに存在している。
たとえば、人から嫌われたり拒否されたり、批判されることが怖いという相談に「それは自然現象であり、気にする必要もないことですよ」と説く。子育てをするなら何を大事にしますかという問いに「KPIを無視できる社会性のない子どもをどう育てるか」と答える。
生産性なんか大事にしなくてもいい、社会から求められる価値に自分を合わせる必要などない、そういうことなのでしょう。光(目にみえる活躍・実績・能力・表舞台など)だけが賞賛される社会は冷たいものです。影があっていい、あなたはあなたでいいという社会の方がとても優しいと思います。
太陽方向からの視点だけだと、成功とはこういうものだ、幸せとはこういうものだ、自分を輝かせるとはこういうものだ、まだ足りない、まだまだ足りない・・・そんな引き算方式になってしまう。自分の考えや感情論に取り憑かれる。比較というモンスターに囚われる。それが地の時代でした。でも、そこに月方向からの視点をバランスさせると、一人一人異なる内的幸福感を認めることができるため、それぞれが足し算方式で人生を歩むことができます。
そもそも自分の考えや価値観、そして感情論が強すぎると「受け入れる余白」がなくなり、他者や世界と対等にエネルギーが流れる本当のコミュニケーションができません。これは私自身もいつも気をつけようと思うことですが、つい自分が強く出てしまう。古い世代ほどその傾向が強いと思います。
伝えたいことがあっても、誰かに対して自分視点が強すぎるな、余白がないなと感じると、人はもうその人に伝えること自体を諦めてしまいます。これが成田さんが言う「時が来たら退くべき、引き際の美学」ということの真の意味ではないかとも感じます。親や目上の存在への無条件の忖度という空気感、それにより社会全体が窒息して新陳代謝が止まってしまうからです。
月とはこのような側面(交わることができない違いがあることを受け入れた上で、他者や世界と心やエネルギーを通わせる働き・新旧を入れ替える働き)を持っていると思います。太陽を支える存在でもあり、月自体にも二面性がある。月という「受け入れる能力・そのままの価値を感じ認める能力」を社会全体が一丸となって蔑ろにしてきたことで、あまりにも生きづらい世界、呼吸ができない社会が生まれているーー風の時代という前に、一人一人がそのことに気づく時がやってきている、そんな思いを強くしています。
周囲に同調したり比較したり反応し続けることは「受け入れること」とは全く違います。受け入れる能力の凄さ・大切さを教えてくれている存在が発達障害というよくわからない名称を付けられている多くの子どもたちであると感じます。時代・全体に足りないものを持った子どもたちが生まれてきているという視点で見てみると、問題が問題ではなくなることがたくさんあると思います。
受け入れる能力(月)の高い子どもたちは、だからこそ独自の能動性(太陽)を持っています。物事を一面的に表面で見ないこと、自分で考えて自分で捉えることは本当に大切です。水瓶座時代=価値観の見直しとは、社会情勢以前に、私たちの目の前、足元から起こってくるはずですものね。