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デザインを学んで、新しい言語がひとつ増えた。

中学生の頃、家族旅行で出かけた韓国を好きになった。人々の顔立ちは日本と似ているのに、女の子たちのファッションは全然違う。遠くから眺めるビル街は福岡のそれと似ているのに、看板の文字は記号のようでさっぱり読めない。その呪文のような言葉たちを読めるようになったら、この国のことをもっと知れるかもしれない。

帰国後、初心者用のハングル文字ドリルを買ってみた。規則的に作られたハングルは思いのほか覚えやすく、意味はわからずとも、ひとまず発音までは出来るようになった。

次の夏。文字が読めるようになってから訪れた韓国は、まるで別世界だった。目の前の情報が、どんどん頭に入ってくる。「読める」というだけで、こんなにも世界の見え方は変わるのか。しばられていた両手がぱっと解かれたような解放感。同じ景色を見ても、入ってくる情報量がぜんぜん違う。

大学生になり、授業で文法や会話を習い始めると、もっと世界は変わった。同じ現象でも、日本語で表現するのと、韓国語で表現するのとでは、感じ方が変わってくる。新しい言葉を学ぶと、思考回路の分岐点が増える。

語学をやる一番のおもしろさは、この「世界が広がる感覚」を肌で感じられる点じゃないかと個人的には思う。

1ヶ月という短い時間だったけれど、デザインを学びながらひしひしと感じていたのは、新しい言語に出会って情報の洪水が訪れるときの "あの" 感じだった。

「君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。 見るのと観察するのとでは大違いなんだ。」

「見る」と「観察する」が大違いだ、というのはシャーロック・ホームズに出てくる有名な言葉だけれども、今までの自分がぼんやりと見落としていたものが、どんどん見えてくるようになった。

世の中にあるデザインの色、形、余白。それぞれが誰かの意図によって作られている。その意図が、うっすらだけども見えるようになってきた。

「かわいい」と思っていたサイト、印象に残っていた看板、好きな広告。それらのデザインがなぜ自分のアンテナに触れていたのか、少しずつ言葉に出来るようになってきたのだ。

近くのスーパーに買い物にいくだけでも、「あっ」と思うチャンスが無数にある。

たとえば道路標識ひとつとっても、
「なんで青と白なんやろ」
「見やすいのかな」
「明るくても暗くても読みやすいのかも?」
「フォントって全国統一されてるんかな?」
……みたいなことを考えていると楽しくなってくる。

デザインに触れることで開けた世界は、きっと一生閉じることがない。張り切って探検を楽しもうと思っている。


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