見出し画像

私が私であるためのエスケープ。

今現在、私は東京に住んでいる。今日は大事な大事なエスケープの日だ。特段用事はないがホテルに泊まる。そこでの過ごし方は様々で、例えばビジネスホテルで温泉を堪能することもあれば、高級ホテルでルームサービスを頼み、夜景をひたすらに眺めるときもある。そして今は、都会の夜景を一望できるホテルのプールサイドでこの文章を書いている。勿論泊まるのは一人でだ。誰にも気兼ねせず、気づかれずひっそりと、私は私であるための時間を確保する。東京はそういうことを許してくれる街だ。だから私は東京のことが好きだ。

ーー私は、できることなら東京から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。

檸檬という私小説の中でそう記したのは梶井基次郎だった。もっとも彼の場合の逃げ出したい場所は東京からではなくて京都からだったけれど。そして私は東京からは逃げ出したいとは思っていない。逃げ出したいとしたら代わり映えしない毎日から。
それでも、あまりにも上記の文章が、自分の気持ちを表現する文節としてあまりにもしっくりきたので拝借してしまった。

今、私は猛烈に旅に出たいと、仕事など放り出して、どこかに行ってしまいたいとそう思っている。特別に嫌なことがあったわけではない。ただ、少しだけ日々に、現実に、そして自分に疲れてしまっただけだ。だから私は今、ここにいる。仕事を放り出す前に、自分で自分を労る。健全に、前を向いて明日からも歩むために。

この前、体調を崩して会社を早退した。
生理が重なったのもあり、風邪の引き始めの症状もあり、心に鉛があるかのようにしんどかった。
会社に行くのが辛い。それについて何か明確な理由が存在するわけではないのに、とにかくあの空間に身を置くと気分が悪くなってしまった。無関心、無感動、無執着。無に溢れた空間は一見無菌室のように優しく思えるが、鑢のように日々心を磨耗させていく。

一見優しく見える無関心は罪だ。でも、私もそうなのだ。私は周囲にあまり関心が無いから。噂話や悪口、世間話もそれほど興味がない。むしろ前述の2つについてはそれで盛り上がれる人が異世界の人のように思える。その人の一面しか知らないのに、私はそんなことを積極的に言えない。

考えてみたら、私は人に厳しく、そしてストイックな人が本質的には好きなのかもしれない。私とは正反対の性質だが。人は対極のものに惹かれてしまうらしい。
厳しいということは、それに裏打ちされた自信があるということだと思う。誰かに意見する、ということはその人のことをよく見て、その問題について深く考えていないとできないことだ。指摘することができる人は、その折に嫌われる可能性があるが、そういう人は貴重な存在であると思う。無関心からはその指摘は生まれない。
よく周りの状況を見て、問題を解決する。
そんなことができるような人に私はなりたい。

私は所謂八方美人と周囲には思われているかもしれない。尖らない服装で、大人しそうな面構えをしており、笑顔でいることが多い。男性でも、女性でも特段対応を変えてはいないし(男性に対しては声が低くなっている自覚はあるため直したい)、強く主張するタイプでもない。あはは、と笑って調子を合わせている会社員Aだ。別に周囲に特段好かれたいだとかではなく、なんか穏やかに笑っている方が簡単だからそうしているだけだ。そして恐らくそのようなスタンスを見抜いていて、気に入らない方も周囲にはいると思う。

できることなら、私は私から抜け出したいのだ。
どうしようもなくそう思う。
そして、厳しく時に優しくできるようなそんな人になりたいと強く思わずにはいられない。
私は将来結婚はできない。子ども連れの母親になることも恐らく無い。絶対は無いから、今のところは。職場では年代が上がるにつれて既婚者が増えていくからいずれ私も何かしら含みを持った視線を向けられる日がくるかもしれない。
でも、これは自分で選んだ生き方だから。

どう思われたって、例え嫌われたって。
私は私としてもがいて、足掻いて、生きていきたい。
旅館の一室ではなく、ホテルのベッドに逃避して私は今日も目を瞑る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?