見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021法学部 5

2021法学部編の第5回です。引き続き「一揆」がテーマの大問Ⅱを見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

○4 正長の徳政一揆の様子を伝え、「日本開闢以来、土民蜂起是れ初め也」と記録したことで知られる年代記は何か

漢字指定の記述問題です。

前回、問3で引用した通り、正長の徳政一揆についての記述があるのは『大乗院日記目録』です。

『大乗院日記目録』は興福寺大乗院の27代門跡尋尊(一条兼良の子)が、1065年~1504年にわたる歴代門跡の日記にある社会的・政治的事件をまとめた年代記(『用語集』119頁)です。尋尊は1430-1508の人なので、正長の徳政一揆は尋尊の前の門跡である経覚の時代になります。

尋尊には自身の日記である『大乗院寺社雑事記』もあります。こちらは1450-1508年の政治的・社会的動向を知ることのできる重要資料です(『用語集』121頁L)。教科書では「山城の国一揆」の史料の出典となっています。

似たような書名で著者(編者)も同じなので注意して覚えておかなければいけません。正解は、『大乗院日記目録』です。

○5 豊臣秀吉が諸国の戦国大名に対して下した、戦闘を停止し、領地の確定を秀吉に委任することを内容とする命令

空欄( A )に入る語句を漢字指定で記述する問題です。

関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制した①。そしてこれに違反したことを理由に、1587(天正15)年には九州の島津義久を征討して降伏させ、1590(天正18)年には小田原の北条氏政・氏直父子を滅ぼし(小田原攻め)、また伊達政宗ら東北地方の諸大名をも服属させて、全国統一を完成した。(160-161頁)
①この政策を惣無事令と呼ぶこともある。(161頁 脚注①)太字は引用者による

正解は、惣無事令です。全国の大名に対して出した停戦命令、すなわち全国規模の喧嘩両成敗法として理解されてきた惣無事令ですが、秀吉が関白として「惣無事令」という命令を発したことはなく、秀吉の発した私戦停止命令と領国確定の采配を秀吉に一任する命令を総称して「惣無事令」と呼んでいます。

最近の研究では個々の命令を総称して惣無事令とすることに疑問も出されており、教科書の記述でも脚注で「惣無事令と呼ぶこともある」という書き方になっています。この表記の仕方は「守護大名と呼ぶこともある」(124頁)に近く、研究の発展によって評価も変わるかもしれません。

○6 中世と近世における一揆の特徴 正しいもの2つ

あ 中世のおける農民の一揆は、惣を母体として結成され、近世に続く自治の伝統を築いた。
い 中世・近世のいずれにおいても、一揆は、武力によらず、権力者との合意によって終結するのが通常であった。
う 江戸幕府の成立以降の一揆においては、中世に見られた村ぐるみの逃散はみられなくなった。
え 傘連判状は、一揆の首謀者を隠すための手段として、17世紀以降の百姓一揆において初めてみられるようになった。
お 19世紀の百姓一揆には、百姓だけでなく、無宿物が参加した例もみられた。

正しい文を2つ選択する問題です。

まず、「」ですが、一揆はしばしば大規模な蜂起となったのは、中世の正長の徳政一揆、嘉吉の徳政一揆(133頁)、近世の郡上一揆、幕末期の世直し一揆(257頁)でわかります。「」は誤りです。

つぎに「」の「村ぐるみの逃散はみられなくなった」ですが、

①17世紀の初めには、江戸幕府の支配に抵抗する土豪(兵農分離の際に、村にとどまった有力な旧侍層)をまじえた武力蜂起や村ぐるみのでの逃散など、まだ中世の一揆の名残がみられた。百姓一揆は、明治初期のものを含めて、これまで3700件ほどが確認されている。(222頁 脚注①)太字は引用者による

とあるように、誤りです。17世紀後半からは、村の代表者が要求をまとめて直訴する代表越訴型一揆が、17世紀末になると広い地域にわたる惣百姓一揆がみられるようになり、藩領全域に及ぶ場合には全藩一揆と呼ばれました。

」の傘連判状中世の国人一揆で参加者間の平等を表すための手段として用いられていたことはすでに問2で説明しています(124頁 脚注①)。「17世紀以降の百姓一揆で初めてみられるようになった」は誤りです。

ということで、「い」「う」「え」が誤りでしたので、正しい文は「あ」「お」ということになります。

まず、「」です。中世の惣が惣掟を作成して自治をおこなったことは、近世の村にも受け継がれ、村役人を中心とする本百姓体制のもとで自治が受け継がれます。ただ、中世の惣村が地下請や地下検断などで武力も用いて自治をおこない、しばしば荘園領主や地頭に抵抗したのに対し、近世の村は検地で年貢高を決定され納入する責任を負っていました。

これらのことはそれぞれの記述から想定できますが、直接的表現としては書かれておりません。

郷村制①中世村落の自治組織「惣」を、近世の村落との関連から考える学問上の用語。中世では荘園領主・大名に抵抗し、納税の見返りに自治を獲得した。近世では検地・兵農分離の結果、封建支配の末端機構になったと捉える。(『用語集』117頁R)

つぎに「」です。無宿人とは定職・住居をもたない浮浪民で飢饉や農村の窮乏で都市へ出てきたものたちです。彼らは治安悪化の原因ともなったため松平定信は人足寄場をつくって更生をはかりました。水野忠邦が人返しの法で「江戸に流入した貧民の帰郷を強制」(239頁)した背景には、無宿人となった人々が打ちこわしなどに参加して治安を乱すこともありました。もっとも江戸を追い出したために、無宿人は江戸周辺部へ流れ込み、かえって治安の悪化を促進してしまいます。

無宿人らが百姓一揆に参加していたかどうかの記述はありませんが、幕末の世直し一揆は江戸周辺部で激しく(武州一揆など)、そこに巣食う無宿人が参加していないとは考えづらいです。

正解の「あ」「お」はいずれも教科書だけで確認できませんが、誤りの3つが確定しましたので○評価となります。

今回はここまでです。

いいなと思ったら応援しよう!