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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 8

2021商学部編の第8回です。引き続き、3⃣をみていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。執筆時未掲載

※東進データベースは要登録です。執筆時未掲載

◎問D 江戸時代の村とその生活の説明で正しいもの 

1. 年貢は領主に対して個人がそれぞれ納めた。
2. 幕府領の年貢収納法は、享保期に定免法から検見取法に転換した。
3. 村の秩序を乱した者へは、村八分の制裁があった。
4. 村の構成員は農民に限られ、宗教者や商人・職人は含まれなかった。
5. 村の独立性が強く、村々で共同して結成する組織はなかった。

江戸幕府の支配基盤は農業生産の上に成り立っていました。農業や林業・漁業などの小経営に携わる百姓を中心として構成される村が自治的に運営されました。本百姓には本途物成・小物成・高掛物・国役・伝馬役などが課され、大多数の零細百姓には重い負担となりました。

 幕府は年貢の納入を安定させるためには、百姓の小経営を安定させることだと考えました。農村への浸透しつつあった貨幣経済に極力巻き込まれないように、1643(寛永20)年に田畑永代売買禁令、1673(延宝元)年に分地制限令を出して、本百姓の零細化を防ぎました。寛永の飢饉への対応として、村々へ出された法令では、日常の暮らしにまで指示を与えて本百姓体制を維持しようと努めました。

 村は、名主(庄屋・肝煎)や組頭・百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓によって運営され、入会地の利用、用水や山野の管理、道の整備、治安や防災などの仕事を共同で自主的に担った。(187頁)

こうした自治的運営は中世以来の伝統でもあり、「幕府や諸大名・旗本などは、このような村の自治に依存して、はじめて年貢・初役を割り当てて収納し、また村民を把握することができ」(187-188頁)ました。「このような仕組みを村請制と呼」(同)び、村の責任で年貢を一括で納入しました(163頁 脚注②)。

村の運営は村法(村掟)にもとづいておこなわれ、これに背くと村八分などの制裁が加えられたりした。(187頁)

現代でも、地方の農村では町内会・村会などが村の維持のために共同作業をおこなって管理・運営しています(結・もやい)。村会の役員などともめたことで「村八分」にあったとして、裁判になる例もみられます。

正解は、3でした。

1の「個人がそれぞれ納めた」は誤りです。村請制により村が責任をもって納めました。また、村内では数戸ごとに五人組を構成して、連帯責任で年貢をおさめさせました。

2は「定免法」と「検見取法」が逆です。享保の改革では「検見法を改め、定免法を広く取り入れ」(219頁)ました。

4も誤りです。村内には寺院や神社(鎮守)がつくられ、僧侶や神職を招いて村の人びとを結びつけました。村の構成員には、百姓以外にも僧侶や神職などの宗教者、さらに職人や商人などがふくまれることもありました(188頁 脚注③)。

5の「村々で共同して結成する組織」について、教科書には「近隣の村々を組み合わせた寄場組合」(237頁)が書かれています。他にも「惣百姓一揆」の例などから、村々の連携はあったと考えられますし、豪農が近隣の村々を含めた共同の規則を制定することもありました。「なかった」とするのは誤りです。

〇問E ( ホ )といへるよき地所はみな福有等が所持となり、( へ )にして実入り悪しき地所のみ所持いたし

1. ホー中田  へー上田
2. ホー本田畑 へー高請地
3. ホー高請地 へー本田畑
4. ホー上田  へー下田
5. ホー下田  へー上田

空欄補充の問題です。選択肢には、「上田」「中田」「下田」「高請地」「本田畑」の5つの言葉があります。

まず、「上田」「中田」「下田」ですが、これは太閤検地の際に田畑につけた等級で、生産力の高い順に、上・中・下・下々とし、その生産力を石高で表したものです(162頁 脚注④)。江戸時代にもこれが引き継がれました。

次に、「高請地」「本田畑」ですが、これらは年貢が付加される土地です(188頁)。

「( ホ )といへるよき地所」「( へ )にして実入り悪しき地所」という関係から、( ホ )>( へ )という関係が成り立っており、選択肢では、「ホー上田 へー下田」となっている4が正解となります。

◎問F 地主の土地の集積はどのように進んだか

1. 困窮した者に上層の百姓が田畑を担保に金を貸し、その質地が流地になることによって進んだ。
2. 困窮した者の田畑を、上層の百姓が耕作していたことにして進んだ。
3. 困窮した者が、その田畑を上層の百姓に寄付することによって進んだ。
4. 領主からの無理な要求に対して自衛するため、上層の百姓に権利を譲ることによって進んだ。
5. 隣村との争いから村を守るため、上層の百姓に田畑を集中して村を強化することによって進んだ。

問Dで説明したように、幕府は百姓の小規模経営を守って貨幣経済に巻き込まれないようにすることを政策の基本としていましたが、江戸時代に繰り返された飢饉によって小規模農家は立ち行かなくなり、「盛んなるものは次第に栄えておひおひ田地を取り込み」(問題文 下線部ト)、「また衰へたるは次第に衰へて田地に離れ…困窮に沈み果つるなり」(問題文)となって、格差が拡大していきます。

 村々では一部の有力な百姓が、名主・庄屋などの村役人をつとめて地主手作③をおこなった。また、手持ちの資金を困窮した百姓に利貸して村の内外で質にとった田畑を集めて地主に成長し、その田畑を小作人に貸して小作料を取り立てた。(220-221頁)

村役人をつとめるような有力な百姓は「おひおひ田地を取り込み」地主に成長し、さらに商品作物を生産し、地域の流通や金融も担うようになって、豪農に成長していきます。

一方で、質流れで土地を失った零細の百姓らは、地主のもとで「小作人となるか、年季奉公や日用稼ぎに従事し、江戸や近隣の都市部に流出するなど、いっそう貨幣経済に巻き込まれて」(221頁)いきました。

正解は、1です。上層の百姓が田地を担保に利貸して、質流れになった田地を集積することで大地主へ成長していきました。

2の「困窮した者の田畑を、上層の百姓が耕作」は意味不明です。「上層の百姓の田畑を、困窮した者が耕作」です。

3は「上層の百姓に寄付」が誤りです。質流れで強引にもっていかれたのが正しい。

4の「上層の百姓に権利を譲る」は「年貢納入が困難になった零細百姓が本百姓の権利を譲った」と考えれば成立しなくもなさそうですが、前半部分の「領主からの無理な要求に対して自衛するため」に「権利を譲った」のではなく、経営が立ち行かなくなって「譲らざるを得ない」状態となったが正しい理解でしょう。

5の「隣村との争いから村を守るため」に「田畑を集中して村を強化」は関係性がよくわかりません。中世の惣村の話なら、惣村には国人らの武士もいましたから、戦国大名に支配されていく過程の中で村が大同団結していくこともあったでしょうが、近世に村同士のいさかいを解決するために、地主に土地を集中させることはないでしょう。

今回はここまでです。



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