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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 6
1994年まで使用された旧14号館はエアコンもない小さな校舎で、小さなラウンジにあるパンの自販機が数少ない楽しみでした。
では、Ⅱの続きをやっていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
◎問3 年代整序 明治時代の教育に関して 古い順
① 教育勅語が発布された。
② 教育令が公布された。
③ 学制が公布された。
④ 国定教科書の制度が定められた。
⑤ 学校令が公布された。
イ ①→③→②→⑤→④
ロ ③→②→⑤→④→①
ハ ①→③→⑤→④→②
ニ ③→②→⑤→①→④
ホ ③→①→②→⑤→④
もっとも早いのは③の学制です。
教育の面では、1871(明治4)年の文部省の新設に続いて、翌72(明治5)年に、フランスの学校制度にならった統一的な学制が公布された。(270頁)
1872(明治5)年は太陽暦採用、学制公布、徴兵告諭、壬申戸籍など改革が矢継ぎ早におこなわれた年で、実行したのは西郷・板垣・江藤新平らの留守政府でした。
ただ、この学制は地方の実情に合わず、画一的な強制に対して政府内外から批判がありました。そこで、
1879(明治12)年に学制は廃止され、教育令が公布された。(310頁)
アメリカの教育制度を参考に、②の教育令が公布され、全国画一の学区制を廃して、町村を小学校の設置単位とし、その管理も地方に移管して、就学義務も大幅に緩和しました。ただ、強制から放任への方針転換で混乱が広がったため、教育令は早くも翌年には改正されます。
こうした紆余曲折を経て、
1886(明治19)年に森有礼文部大臣のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整備された。(310頁)
「いわゆる」とあるのは、学校令は「小学校令」「中学校令」などの各勅令の総称だからです。
①の教育勅語=教育に関する勅語が発布されたのは1890(明治23)年、④の国定教科書の制度ができたのは1903(明治36)年です。(311頁)
整理しておきましょう。
③学制(1872)→②教育令(1879)→⑤学校令(1886)→①教育勅語(1890)→④国定教科書(1903)の順でした。
重要年代としては、義務教育の就学率が90%を超えた1902(明治35)年、義務教育が6年間に延長された1907(明治40)年があります。
〇問4 儒学とその流れをくむ学派に関係のある人物とその著作の組み合わせ 不適切2つ
イ 山鹿素行 ー 本朝通鑑
ロ 熊沢蕃三 ー 大学或門
ハ 荻生徂徠 ー 政談
ニ 太宰春台 ー 経済秘策(原文ママ)
ホ 山県大弐 ー 柳子新論
各学部で頻出の儒学者やその系統に属する人物たちです。「教科書」214頁の「儒学者系統図」と215頁の「おもな著作物」を確認しておけば大丈夫です。その他では、宝暦天明期のものと、化政期のものを国学、洋学とあわせておさえておきましょう。
イの山鹿素行は古学派で聖学と称しました。おもな著作は『中朝事実』『聖教要録』『武家事紀』です。選択肢にある『本朝通鑑』は大学頭を務めた林羅山・林鵞峰による歴史書です。宋の『資治通鑑』にならった編年体(年代順)の歴史書で神武天皇から後陽成天皇までを記したものです。したがって、この組み合わせは不適切です。
ロの熊沢蕃山と『大学或門』は正しい組み合わせです。蕃山は「主著『大学或門』で武士土着論を説いて幕政を批判した」(214頁 脚注②)ため、下総古河に幽閉されました。
ハの荻生徂徠と『政談』も正しい組み合わせです。古文辞学派に属する荻生徂徠は柳沢吉保や徳川吉宗に仕え、「統治の具体策を説く経世論に道を開いた」(214頁)人物です。『政談』は徳川吉宗の諮問に答えた幕政改革案です。江戸茅場町に蘐園塾を開きました。
ニの太宰春台は荻生徂徠の門下=蘐園学派で『経済録』『経済録拾遺』の著者です。選択肢の『経世秘策』は寛政期の人物である本多利明の著作です。開国交易や属島開発などによる国富策を示しました(244頁および245頁)。この組み合わせは不適切です。
ホの山県大弐と『柳子新論』は正しい組み合わせです。山県大弐は18世紀中期の尊王論者で、『柳子新論』で尊王斥覇を説いて幕政を批判し、明和事件で死罪となりました。
不適切な組み合わせは、イとニでした。
◎問5 国学に関する記述 不適切1つ
イ 北村季吟は歌学方に登用された。
ロ 契沖は、戸田茂睡を批判し『万葉代匠記』を記した。
ハ 荷田春満は日本の古代思想を追求し、洋学はもとより、儒学・仏教も外来思想として排した。
ニ 塙保己一は和学講談所をつくった。
ホ 松尾多勢子は幕末期に活躍した運動家である。
こちらは国学に関する出題です。国学は「教科書」226頁の「国学者系統図」でまとめられています。17世紀、18世紀、19世紀とそれぞれの時代の人物を整理しておきましょう。
まずは、17世紀=元禄時代に戸田茂睡、契沖があり、18世紀に入り荷田春満ー賀茂真淵ー本居宣長で国学が大成します。塙保己一は18世紀末から19世紀にかけての人物です。19世紀に入ると本居宣長の死後の門人である平田篤胤らが輩出しました。
それでは選択肢をみておきましょう。
イの北村季吟は元禄時代の人物です。戸田茂睡、契沖らと同時期です。
また北村季吟は『源氏物語』や『枕草子』を研究して、作者本来の意図を知ろうとした。(215頁)
著作として『源氏物語湖月抄』があげられていますが、「歌学方に登用された」は「教科書」にはありません(「用語集」184頁Rにあります)。
ロの契沖も元禄時代の人物です。戸田茂睡が和歌に使えない言葉が定められてきたことの無意味さと、俗語を用いることの正当さを説いたことに対して、
『万葉集』を研究した契沖は、多くの実例によって茂睡の説の正しさを説明し、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を批判して『万葉代匠記』を著した。(215頁)
選択肢の「戸田茂睡を批判し」の部分が不適切です。
※「批判」には良い悪いを判断することという意味があるので、「批判」した結果「よい」と判断されることもあるのですが、一般的な使われ方として「批判」は「悪い」と判断することになってしまっています。
残りの3つは正しい文になります。
ロの「荷田春満や門人の賀茂真淵は日本の古代思想を研究し、洋学はもとより、儒教・仏教も外来思想として排し」(226頁)ました。
ニの塙保己一は盲目の国学者です。「寛政期に幕府の援助を受けて和学講談所を設け、『群書類従』などの編修・刊行をおこなった」(226頁 脚注②)人物です。
ホの松尾多勢子は幕末に出た信濃国伊那郡の女性運動家です(244頁 脚注①)。
早稲田の各学部の日本史の入試問題を見ていて、やたら幕末の勤皇の思想家である松尾多勢子の名前が出てくるなあと思ったら、改訂版の日本史用語集には頻度1で掲載されています。こういうことがあるので、用語集はお兄さんお姉さんのお古ではなく、新しいものを手に入れましょう。 pic.twitter.com/Doy2sqtNmE
— 相澤理 (@o_aizawa) May 27, 2021
今回はここまでです。