教科書だけで解く早大日本史 2021法学部 7
2021法学部編の第7回です。今回から情報通信をテーマにした大問Ⅲに入ります。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
史料は4つあります。大野哲弥『通信の世紀-情報技術と国家戦略の150年史』、武田晴人編『日本の情報通信産業史』からの抜粋です。
〇1 「使節団」に関する記述のうち 正しいもの2つ
あ 使節団には、木戸孝允、大久保利通、板垣退助らが加わった。
い 安政の諸条約は、1870年から改正交渉ができることになっていた。
う 不平等条約改正の予備交渉を本格的に行った。
え 記録係の久米邦武が『特命全権大使米欧回覧実記』を編纂した。
お 政府部内で強まっていた征韓論は、使節団一行の帰国後、強い反対にあった。
資料1では「1872年1月17日、a使節団が最初の寄港地、サンフランシスコから」で始まっています。ここでいう下線部aの「使節団」はもちろん「岩倉使節団」のことです。
外交問題では、幕府から引き継いだ不平等条約の改正が大きな課題であった。1871(明治4)年末、右大臣岩倉具視を大使とする使節団(岩倉使節団)がアメリカ・ヨーロッパに派遣され①、まずアメリカと交渉したが目的を達することはできず、欧米近代国家の政治や産業の発展状況を細かく視察して帰国した。(272頁)
アメリカとの交渉では全権委任状の不備を指摘されて、大久保利通と伊藤博文が再び北米大陸と太平洋を往復する羽目になります。また、日本の法制度が近代的でないことを理由に予備交渉に応じてもらえませんでした。結果として、使節団は欧米の視察を主たる目的にします。
①安政の諸条約は1872(明治5)年から改正交渉ができることになっており、使節団はその条約改正に関する予備交渉と、欧米の制度・文物の視察を目的としたものである。一行は岩倉大使、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳らの各副使以下約50名におよぶ大規模なもので、他に留学生など約60名が加わっていた。留学生の中には津田梅子・山川捨松ら5名の若い女性も含まれていた。(272頁 脚注①)
岩倉、大久保、木戸という明治維新の中心メンバーがそろって使節団に参加し、留守は「留守政府首脳の西郷隆盛・板垣退助ら」(273頁)に委ねられました。留守政府は朝鮮に対して国交樹立を求め、武力を用いて開国させる征韓論をとなえ、西郷隆盛の朝鮮派遣も決定します。しかし、欧米を視察して「帰国した大久保利通らの強い反対にあって挫折」(273頁)します。大久保らは内治優先の立場をとったため、対立した征韓派の参議(西郷・板垣・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣)らはいっせいに辞職します(明治六年の政変)(274頁)。
以上が、岩倉使節団と留守政府の動きです。留守政府は他にも太陽暦導入、壬申戸籍の作成、徴兵令、地租改正など改革を積極的に進めており、それも帰国した大久保や木戸と対立した理由となりました。
選択肢をみてみると、
「あ」は板垣退助が加わっていないので誤文です。「い」は改正交渉の開始が「1870年」でなく「1872年」なので誤文です。「う」は「予備交渉を本格的に行った」が誤りです。
したがって、残る「え」「お」が正しい文です。
「お」についてはすでに説明の通り征韓論は大久保らの強い反対にあいました。
残る「え」ですが、久米邦武は使節団に随行し『米欧回覧実記』を編集しました。のちに帝大教授となりますが、1891(明治24)年、「神道は祭天の古俗」と論じて、翌年、職を追われる事件も起こります(久米事件)(312頁 脚注①)。
岩倉使節団メンバーとしては、福地源一郎(書記官、のち立憲帝政党)、村田新八(随行、西南戦争で敗死)、由利公正(随行、五箇条誓文起草)などがいます。
また、留学生は教科書にあった津田梅子、山川捨松のほかにも、中江兆民、金子堅太郎、團琢磨、牧野伸顕、平田東助などがいました。旧大名家の子息も多く留学しています。通訳で新島襄(同志社の創立者)も参加しています。
△2 のちに「鹿鳴館の女王」と呼ばれた女子留学生
漢字指定の人名問題です。姓名を書くように指定されています。
下線部aの使節団には、5人の女子留学生が含まれていた。そのうち、帰国後、社会事業や女子教育の発展に尽力するとともに、鹿鳴館で社交界の中心として活躍した者は誰か。
設問は以上の通りです。前問の引用で
留学生の中には津田梅子・山川捨松ら5名の若い女性も含まれていた。(272頁 脚注①)
とありましたが、これだけでは津田梅子か山川捨松かの判断はできません。もちろん残る3人の可能性も残ります。
正解は「山川捨松」または「大山捨松」です。
山川捨松①3⃣1860~1919 社会奉仕家。日本初の女子留学生の一人として帰国後、大山巌と結婚。外国人の接待に活躍し、鹿鳴館の女王といわれる。のち赤十字事業に尽力。(『用語集』239頁R)
山川捨松は帰国後、同じく留学生だった永井繁子とともに津田梅子の女子英学塾を支援しています。夫の大山巌は薩摩出身の陸軍元帥。
教科書に名前は登場していますが、どのような人物なのかまでの言及がなく『用語集』で確認することになりました。
◎3 1876年にアメリカとの交渉で関税自主権回復にほぼ成功したが、イギリス、ドイツの反対で無効となった当時の外務卿は誰か
漢字指定の記述問題です。
1876(明治9)年から外務卿の寺島宗則が、アメリカと交渉して関税自主権回復の交渉にほぼ成功したが、イギリス・ドイツなどの反対で無効となった。(272頁)
問題文がほぼ教科書通りです。正解は、寺島宗則です。寺島宗則は1873年に外務卿となり、台湾出兵や千島・樺太交換条約の締結などをおこないました(榎本武揚がロシアで交渉)。税権回復交渉では1878年にアメリカの賛成をとりつけますが、イギリス・ドイツの反対で頓挫します。
欧米諸国とは条約で「片務的最恵国待遇」を認めていましたので、アメリカの賛成だけでは条約改正ができませんでした。イギリスは対日貿易の額が大きく、自国の利益の観点から改正に反対し、ドイツなどが同調しました。
なお、安政の五カ国条約(米英仏露蘭)にドイツは含まれていないので、「なぜドイツが反対?」と思われた方もいるかもしれません。北ドイツ連邦やオーストリア・ハンガリー帝国とは明治以降に同様の条約を結んでおり、やはり最恵国待遇の対象であったため、交渉の必要があったからです。
同時期に、イギリスによる生アヘン密輸のハートレー事件、ドイツの検疫をめぐるへスペリア号事件などが起こり、福沢諭吉、小野梓らは治外法権の撤廃を優先するべきだという主張を展開しました。
今回はここまでです。
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