教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 8
2021人科編の第8回です。引き続き、江戸時代からの出題である大問Ⅲをみていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
△問3 「幕府」の構造や職制について 正しいもの1つ
ア 将軍直属の家臣で1万石未満を旗本・御家人とよび、直参として将軍に謁見を許されていた。
イ 譜代大名から選ばれる老中は幕政を統轄し、指揮下の三奉行や大番頭などには旗本が就任した。
ウ 老中を補佐する若年寄が譜代大名から選任され、旗本・御家人を監察する大目付を指揮下に置いた。
エ その役職では単独決済できない重要案件は、老中・三奉行・大目付らが合議する評定所で採決された。
オ 朝廷統制や西国大名監視を担う京都所司代が二条城に置かれ、所司代は二条城代を兼ねた。
江戸幕府の構造や職制については、「教科書」の172頁から173頁にかけて説明されています。選択肢ごとに確認していきます。
まず、アの旗本・御家人についてです。
旗本・御家人② 両者とも将軍直属の家臣(直参)で、1万石未満のものである。将軍に謁見(お目見え)を許されるものが旗本、許されないものが御家人である。1722(享保7)年の調査では、旗本5205人・御家人1万7399人であった。彼らは江戸に住み、石高や才能に応じた役職につき、軍役を負担した。(172頁 脚注②)
将軍直参の家臣すべてが将軍絵の謁見を許されていたわけではなく、お目見え以上は旗本だけでした。
次はイです。
173頁の「江戸幕府の職制」の資料をみると、将軍の直属機関として、臨時の最高職である大老、政務を統括する老中、老中を補佐する若年寄、奏者番、側用人、寺社を統轄する寺社奉行、朝廷の監視をする京都所司代、大坂城を預かる大坂城代があります。
政務を統括している老中の下には大番頭、大目付、江戸町奉行、勘定奉行、道中奉行、遠国奉行などが配されています。
選択肢にある「三奉行」とは、寺社奉行・町奉行・勘定奉行です。
寺社奉行は将軍直属で譜代大名から任命され、町奉行・勘定奉行は老中支配下で旗本から任命されるようになった。(173頁 脚注①)
選択肢の「(老中)指揮下の三奉行」は寺社奉行が将軍直属であることから誤りです。
次にウですが、若年寄は将軍直属、大目付は老中の指揮下ですので誤りです。
エの合議制については「教科書」にあります。
役職には原則として数名の譜代大名・旗本らがつき、月番交替で政務を扱った。簡単な訴訟はその役職で専決したが、役職をまたがる事項などは評定所で老中・三奉行らが合議して裁決した。(173頁)
エでは「老中・三奉行・大目付ら」となっており、「教科書」の方は大目付が書かれていないため確定できません。保留です。
オの京都所司代については「朝廷の統制や西国大名の監視などをおこなった」(173頁)のはわかりますが、「二条城に置かれ、二条城代を兼ねた」がわかりません。
エとオは「教科書」だけでは判定不能です。「用語集」をつかいます。
評定所 ⑧幕府の最高司法機関。三奉行が独自で決裁できない重大事や管轄のまたがる訴訟などを扱う。三奉行・大目付らの合議で決し、毎月3度の式日(定例寄合日)には老中も出席した。(「用語集」155頁R)
「用語集」で評定所のメンバーに大目付が入っていることが確認できましたので、エが正しい文でした。
なお、オの京都所司代は二条城の北におかれ、二条城代を兼ねてはいません。
◎問4 関ヶ原の戦いに関して 正しいもの1つ
ア 豊臣秀吉の死後、駿府で政務を執り地位を高めた徳川家康と、実務派の石田三成が対立した。
イ 豊臣秀吉が建立し後に焼け落ちた方広寺を秀頼が再建した際の、鍾銘問題が戦いの口実となった。
ウ 戦いは、石田三成側についた諸大名の西軍が、徳川家康のもとに結集した諸大名の東軍に敗北した。
エ 戦いの後、約400万石におよんだ豊臣家は、摂津・河内・和泉の約60万石へと大幅に減封された。
オ 戦いの後、徳川家康は征夷大将軍となった直後に死去し、将軍職は秀忠に引き継がれた。
関ヶ原の戦いは幾度もドラマ化・映画化され、歴史好きな人なら様々なエピソードとともに記憶されていることでしょう。「教科書」はそうしたドラマチックな場面が描かれているわけではありません。
五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し、1600(慶長5)年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則・黒田長政らの諸大名(東軍)で、両者は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し①、1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正当性を得るために征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。(170頁)
正解は、ウでした。石田三成を中心とする西軍と、家康のもとに結集した東軍が争い、東軍が勝利しました。
他の選択肢の誤りも確認しておきます。
アは「駿府で政務を執り」が誤りです。当時の徳川家康の領地は江戸を中心とする関東地方で駿府は含まれておりません。駿府は江戸入封前の領地であり、将軍引退後に大御所として政務を執った場所でもあります。
イの「方広寺鐘銘問題」は関ヶ原の戦いではなく、大坂の陣の口実となったものです。
エの「摂津・河内・和泉の約60万石」は正しいのですが、前段の「約400万石に及んだ豊臣家」が誤りです。豊臣家の直轄地である蔵入地は畿内を中心とした約220万石でした。約400万石は江戸幕府の幕領(天領)です。
オは、「征夷大将軍となった直後に死去」が誤りです。家康は1605(慶長10)年に秀忠に将軍職を譲った後も駿府城で大御所として政務を執り、1614-1615年の大坂の陣にも参戦しています。亡くなったのは1616(元和元)年です。
〇問5 豊臣政権の大老「でない」人物は
ア 徳川家康
イ 前田利家
ウ 宇喜田秀家
エ 小早川隆景
オ 上杉景勝
カ 該当なし(すべて大老)
豊臣政権は秀吉の独裁政権であり、五奉行や五大老などの体制が出来上がるのは晩年のことです。
① 五奉行は浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家。大老は初め徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜田秀家・上杉景勝で、小早川隆景の死後に五大老と呼ばれた。(162頁 脚注①)
五奉行と大老のメンバーは以上の通りです。選択肢をみると、ア~オまですべて大老ですので、この中には「大老に該当する人物名として、誤っているもの」がありません。したがって、正解は、カです。
なお、五奉行のうち浅野長政は東軍につき、子の長晟は紀伊から広島に転封され、広島浅野藩として存続します(問6でも登場)。西軍についた石田三成は刑死、長束正家は自決、増田長盛は追放(大坂の陣ののち自殺)、前田玄以は家康に内通して所領を安堵されました。
大老メンバーでは、小早川隆景は秀吉死去の前年にすでに亡くなっており、前田利家は秀吉死後の翌年に死去していました。会津で三成に呼応した上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へ減封、宇喜田秀家は八丈島へ配流(以後55年も生存)。西軍の盟主・毛利輝元も周防・長門の2国に減封されました(問6でも登場)。
今回はここまでです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?