見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 1

今回から新シリーズ・2021人間科学部編を開始します。大問が5つありますので10回~15回の間に収まると思います。2021商学部編がかなり長くなってしまったので、なるべくコンパクトにしようとは思います。なお、すべて選択問題で出題されました。

※なお、このシリーズでも「教科書」は『詳説日本史B』(山川出版社 日B309)、「用語集」は『日本史用語集』(山川出版社)を使用します。それ以外の教科書、用語集の場合はその旨を明記します。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

〇問1 古代の人々の生活について 正しいもの1つ

ア 古墳時代になると、かまどにかわって炉が竪穴住居に設置されるようになった。
イ 律令制の下で、畿内の人々に対しては畿外よりも調・庸の負担が軽減された。
ウ 庶民や下級官人は、平城京の中に住むことは許されなかった。
エ 貧窮問答歌には、国司が庶民の家までやって来て徴税する様子が詠み込まれている。
オ 『万葉集』は天皇や貴族の歌を収録し、庶民の歌は排除して編まれている。

大問Ⅰは資料文付きの問題です。出題範囲は古代でした。

選択肢をそれぞれ見ていくことにしましょう。

ですが、こちらは「かまどにかわって炉」が誤りです。

5世紀になると朝鮮半島の影響を受け、竪穴住居にはつくりつけのカマドがともなうようになった。(30頁)

正しい文となります。畿内に関しては、調は半分、庸は不課となりました。教科書では調についての記載はありませんが、庸については「公民の税負担」(43頁)の表で「京・畿内はなし」と書かれています。

は「住むことは許されなかった」が誤りです。平城京では「五条以北の平城宮近くには貴族たちの大邸宅が立ち並び、八条・九条などの宮から遠い地区には下級官人たちの小規模な住宅が分布して」(46頁)いました。また「京には貴族・官人・庶民が住」(同上)んでいましたので、庶民や下級官人も住むことは許されていました。

の誤りはやや難しいですが、「国司」ではなく「里長」です。貧窮問答歌には「五十戸良(さとおさ)が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばいぬ」(56頁 史料)とあります。50戸が1里でしたので、「五十戸良(さとおさ)」と読みます。

誤りです。『万葉集』では「庶民の歌は排除」されていません。

『万葉集』は759(天平宝字3)年までの歌約4500首を収録した歌集で、宮廷の歌人や貴族だけでなく東国の民衆たちがよんだ東歌や防人歌などもある。心情を率直に表しており、心に強く訴える歌が多く見られる。(56頁)

正解は、でした。


〇問2 仁徳天皇に関して 正しいもの1つ

ア 大仙陵古墳は、百舌鳥古墳群の中で最大の古墳である。
イ 大仙陵古墳は、ICOMOSの勧告により世界文化遺産への登録を見送られた。
ウ 大仙陵古墳と同時代、上毛野地方の造山・作山古墳のような大規模な前方後円墳が地方でも営まれた。
エ 「仁徳」という諡号は、その治世の事績にちなんで、死後すぐにおくられた。
オ 仁徳天皇は、中国史料にみえる倭王武にあたると考えられている。

大仙陵古墳(大仙古墳、伝仁徳天皇陵)と仁徳天皇に関わる問題です。

「昔は仁徳天皇陵と習ったけど、いまはそういう教え方はしないんですよ」
「な、なんだってー」

画像1

みたいな伝統芸が通じるのは40代以上だけで、30代以下の世代はもう大仙古墳または大仙陵古墳で習っています。

では、選択肢をみていきましょう。

正しい文です。これが正解です。

 最大の規模をもつ古墳は、中期に造営された大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)で、前方後円形の墳丘の長さが486mあり、2~3重の周濠をめぐらしている。さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢が営まれた区域をも含めると、その墓域は80haにもおよぶ。(25頁)

「大阪府堺市の東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占める」(25頁 写真資料解説)大仙陵古墳は、百舌鳥古墳群のみならず日本最大級の古墳です。もちろん百舌鳥古墳群のなかで最大です。

古市古墳群の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)などとともに大王の墓とされ、この時期の王朝を「河内王朝」として区別し、応神朝、継体朝で皇統の交替があったとする「王朝交代」説もあります。

は「世界文化遺産への登録を見送られた」が誤りです。これはかなり最近のニュースなので「教科書」にはありません。

は「上毛野地方」が誤りです。造山古墳は「第4位の規模をもつ」前方後円墳ですが、所在地は「岡山県」です。上毛野は群馬県ですから、「上毛野地方の造山・作山古墳」は誤りです(25頁)。

は「死後すぐにおくられた」が誤りです。天皇の諡号には和風諡号と漢風諡号がありますが、和風諡号は『日本書紀』などにみられ、仁徳天皇は「大鷦鷯(オホササギ)天皇(スメラミコト)」です。桓武天皇の時に歴代天皇の漢風諡号が定められ、淡海三船が神武から光仁までを定めたとされています。以降は死後に名をおくられることになりますが、後醍醐天皇は自ら「後醍醐」を名乗りました。

は「倭王武」が誤りです。倭王武に比定されるのは雄略天皇でほぼ異論がないところです(27頁 脚注①)。仁徳天皇は「倭王讃」または「倭王珍(弥)」に比定され、こちらは諸説あるところです。


◎問3 縄文時代の日本列島に関して 誤り1つ

ア 弓矢を使って、ニホンシカやイノシシの狩猟が行われていた。
イ 貝塚からは、骨角器が出土する。
ウ 丸木舟を使って、伊豆諸島などへの公開が行われていた。
エ ブナやナラなどの針葉樹林にかわり、落葉広葉樹林が広がった。
オ 土偶や石棒は、豊かな収穫や子孫の繁栄を祈るものであったと考えられる。

縄文時代は地球の気候が温暖になったことから様々な変化が起こります。

今からおよそ1万年余り前の完新世になると、地球の気候も温暖になり、現在に近い自然環境となった。植物は亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナやナラなどの落葉広葉樹林が、西日本にはシイなどの照葉樹林が広がった。動物も大型動物は絶滅し、動きの速いニホンシカとイノシシなどが多くなった。(11頁)太字は引用者による

ブナやナラの林は「針葉樹林」でなく「落葉広葉樹林」です。

は「落葉広葉樹林が広がった」の部分は正しいですが、「ブナやナラなどの針葉樹林にかわり」という前半部が誤りです。

他の選択肢はすべて正しい文です。

ニホンシカやイノシシのような素早い動物の狩猟には弓矢が欠かせませんでした。磨製石器の石鏃が使用されました。

貝塚からは「釣り針・銛・やすなどの骨角器」(13頁)が出土します。また、石錘や土錘がみつかることから網を使用した漁がおこなわれていたこともわかります。

「伊豆大島や南の八丈島にまで縄文時代の遺跡がみられ」(同上)、各地で丸木舟が発見されていることから、縄文人はかなりの航海技術を持っていたと考えられます。

土偶や石棒は豊かな収穫を祈るのに使用されました(14頁)。

今回はここまでです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?