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教科書だけで解く早大日本史 2021法学部 2

2021法学部編の第2回です。引き続き大問Ⅰの問4~6を見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎4 光仁天皇の在位中の出来事として正しいもの1つ

あ 藤原仲麻呂が、恵美押勝の名を与えられた。
い 個々の法令を集成して、弘仁格式が編纂された。
う 疫病が流行し、藤原武智麻呂ら四兄弟が死亡した。
え 農地の開発を奨励するため、墾田永年私財法が制定された。
お 蝦夷の豪族である伊治呰麻呂が、大規模な反乱を起こした。

まずは下線部d(771年)に在位中だった光仁天皇がどのように即位したのかを確認しておきましょう。

称徳天皇が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は退けられた。つぎの皇位には、藤原式家の藤原百川らがはかって、長く続いた天武天皇の皇統にかわって天智天皇の孫である光仁天皇(在位770~781)が迎えられた。光仁天皇の時代には、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建がめざされた。(51-52頁)

天智天皇の孫にあたる白壁王は60歳を過ぎてから即位します。文武天皇以降(草壁皇子以降)続いた天武天皇系の皇統から、天智天皇系の皇統にかわることになりました。ただ光仁天皇の皇后は聖武天皇の娘である井上内親王(孝謙・称徳天皇とは母が異なる)でしたから、立太子した他戸親王は母系で天武天皇系ではありました。しかし、井上内親王、他戸親王ともに排除され、781年、「渡来系氏族の血を引く高野新笠との間に生まれた桓武天皇が即します」(60頁)。光仁天皇の在位は770~781年でした。

光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれて焼くという大規模な反乱に発展した。こののち、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。(61頁)

正解は、「」の伊治呰麻呂の乱です。

時系列順で見ると、まず「」は聖武天皇の737(天平9)年です。天然痘の流行によって藤原四子はすべてなくなり、太政官は一気に空席だらけになります。そして、皇族出身の橘諸兄が政権を引き継ぎ、遣唐使帰りの玄昉や吉備真備が重用されます。

その橘諸兄政権時代の政策が、743(天平15)年の墾田永年私財法です。「」は聖武天皇の時代です。かつては私有地の増大から班田制の崩壊のきっかけとなったという評価だった同法ですが、現在では「政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策」(53頁)と評価されています。なお、橘諸兄政権時代の政策ですが、実際には藤原仲麻呂によるところが大きいという研究もあります。東大寺大仏や国分寺創建などの費用を捻出するための財政政策だったと考えられています。

その藤原仲麻呂が藤原恵美氏となる「」は淳仁天皇(舎人親王の子・淡路廃帝)の時です(51頁)。

最後に、「」の弘仁格式ですが、「光仁」と「弘仁」をかけたダジャレの様な問題で、さすがにこんなのにひっかかる早大受験生はいませんよね。弘仁格式が編纂されたのは嵯峨天皇の時です(63頁)。弘仁・貞観・延喜格式三代格式といい、格は三代の格を集めた『類聚三代格』、式は『延喜式』が伝わっています。 

○5 空欄A・Bに入る組み合わせ
 上野国のある( A )道、東海道の( B )国

あ A-東山 B-相模
い A-東山 B-安房
う A-北陸 B-相模
え A-北陸 B-下総
お A-東山 B-下総

武蔵国にかかわる問題です。武蔵国は現在の埼玉県と東京都にまたがる場所にあり、「武蔵小金井」「武蔵小杉」などの地名に残っています。

例えば武蔵国は、771年に国司からの申請を受けて( A )道から東海道へと変更された。もともと( A )道の上野国から繋がっていたが、東海道の( B )国の方が近いことを理由に…
( B )国の鎌倉に幕府が誕生すると…

現在の県名で考えると、下総国は千葉北部(茨城南部)、安房国は千葉南部です。千葉県の「房総半島」はここからきています。鎌倉幕府が千葉にできる訳ないので、当然( B )は相模国(現在の神奈川県)となります。

また、上野国は群馬県です。北陸道は若狭から越前(福井県)、加賀、能登(石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)と日本海側に連なる地域です。たいして、東山道は近江から内陸部を通って東北へ連なる地域です。上野国は東山道に所属しますので、( A )は東山道となります。

七道と旧国名に関しては教科書の見開きで確認できます。

6 鎌倉幕府の成立過程を述べた文として、正しいもの2つ

あ 1180年、源頼朝は鎌倉に入ると、政務をおこなうための政所を設置した。
い 1183年、源頼朝の従兄弟にあたる義仲が京都に迫ると、平氏は都落ちに追い込まれた。
う 1185年、源頼朝は自ら出陣して、壇ノ浦で平氏を滅亡させた。
え 1189年、源頼朝は逃亡した源義経をかくまったことを口実に、奥州藤原氏を攻め滅ぼした。
お 1192年、源頼朝は上洛して後白河法皇と会談し、征夷大将軍に任じられた。

5つから2つを選択する問題です。単純な確率は10分の1ですから、適当に試してもほぼ正解しません。正確な知識が必要です。

まず、「」ですが、1180年に頼朝が設置したのは「政所」ではなく「侍所」です。別当(長官)は和田義盛でした。政所は当初は公文所という名で1184年に設置されています。別当は大江広元。裁判所である問注所も同年で、別当は三善康信。

次に、「」の義仲入京と平氏都落ちは、1183年7月のことです。これは正しい文になります。

清盛の突然の死や、畿内・西国を中心とする飢饉などで平氏の基盤は弱体化し、1183(寿永2)年、北陸で義仲に敗北すると、平氏は安徳天皇を奉じて西国に都落ちした。(96頁)

頼朝は、弟の範頼・義経を派遣して、義仲を倒し、さらに壇ノ浦で平氏を滅亡させます。この間、頼朝は鎌倉を動いていませんので、「」は誤りです。

平氏滅亡後、後白河法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は京に北条時政らの軍を派遣して法皇にせまり、守護・地頭を設置することを認めさせます(事実上の鎌倉幕府成立)。逃亡した義経は奥州藤原氏にかくまわれていましたが、

「藤原秀衡の死後、子の泰衡が頼朝の要求に屈服して義経を殺すと、さらに頼朝は泰衡が義経をかくまったことを理由に、1189(文治5)年、奥州に軍を進めて泰衡を討ち、陸奥・出羽2国を支配下においた」(97頁 脚注③)

この戦いには頼朝自らが出陣しています。東北地方の戦いに参加するのは、源義家のことを意識したのかもしれません。義経がいなくなるのをまったのも、東北全体が義経を頭領として結束するのを恐れたからかもしれません「」は正しい文です。

1190(建久元)年には念願の上洛が実現して右近衛大将となり、1192(建久3)年、後白河法皇の死後には、征夷大将軍に任ぜられた。(97頁)

後白河法皇の死後に征夷大将軍になりますので「」は誤りです。右近衛大将は都を警備する位の高い役職でしたが、京にとどまらねばならぬため頼朝は即座に辞退して鎌倉に戻ります。

以上、正解は「」と「」でした。

今回はここまでです。

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