教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 6
2021商学部編の第6回です。2⃣の残りをみていきます。
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△問H 南北朝時代に起きた事柄a~cを古い順に並べる
a 半済令がはじめて発布された。
b 北畠親房が『神皇正統記』を著した。
c 今川貞世(了俊)が大宰府を制圧した。
1. a → b → c
2. a → c → b
3. b → a → c
4. b → c → a
5. c → a → b
南北朝の争いおよび観応の擾乱などの混乱のなか、幕府は地方の武士を動員するために守護の権限を大幅に拡大し、鎌倉時代の大犯三カ条に加えて、刈田狼藉取締権、使節遵行権などが新しく守護に与えられます。特に軍事費調達のために国内の荘園や公領の年貢の半分を挑発することを認めた半済令は守護の権力をさらに増大させました。
②1352(文和元)年にはじめて発布された半済令は、1年限りのもので、動乱の激しかった近江・美濃・尾張の3国に限定されていたが、やがて全国的に、また永続的におこなわれるようになり、しかも年貢だけでなく、土地を分割するようになった。(123頁 脚注②)
半済令が初めて出されたのは観応の擾乱のさなかの1352年でした。
南朝方の重臣北畠親房が著した『神皇正統記』は「伊勢神道の理論を背景に南朝の立場から皇位継承の道理を説いた」(140頁)ものです。後醍醐天皇の死後、南朝二代目となった後村上天皇のために書かれたもので、1339年に完成しています。年代は「用語集」で確認できます。
九州は南朝の重要拠点の一つで、南北朝時代には懐良親王が明の皇帝朱元璋に日本国王として使いを派遣するなど権勢を誇りました。
②九州では、後醍醐天皇の皇子征西大将軍懐良親王をいただく菊池氏を中心とした南朝側の勢力が強く、動乱が長く続いた。しかし、義満が派遣した九州探題今川了俊(貞世)の手によってしだいに平定されていった。(124頁 脚注②)
具体的な年代は「用語集」にもありませんが、今川了俊が九州探題だったのは1371年から1395年の間です。引用にあるように義満が派遣していることから、義満将軍就任の1368年以降だとわかります。
正解は、3のb(1339)→a(1352)→c(1371以降)でした。
◎問I 足利義満について 誤っているもの
1. 将軍就任後、幕府が京都市政権を掌握した。
2. 室町につくった邸宅は、花の御所といわれた。
3. 娘が天皇の准母となった。
4. 太政大臣となった。
5. 有力守護土岐氏を討伐した。
足利義満については、内政・外交・文化のそれぞれでまとまった記述が教書に書かれています。
また義満は、全国の商工業の中心で政権の所在地でもあった京都の市政権②や、諸国に課する段銭の徴収権など、それまで朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下におき、全国的な統一政権としての幕府を確立した。義満は1378(永和4)年、京都の室町に壮麗な邸宅(室町殿・花の御所)をつくり、ここで政治をおこなったので、この幕府を室町幕府と呼ぶようになった。(125頁)
義満は、動乱の中で強大となった守護の統御をはかり、土岐氏・山名氏・大内氏などの外様の有力守護を攻め、その勢力の削減につとめた③。また義満は将軍を辞して太政大臣にのぼり、出家して京都の北山につくった山荘(北山殿)に移ったのちも、幕府や朝廷に対し実権をふるい続けた④。(同上)
長い引用になりましたが、1、2、4、5はすべてこの引用に示されている項目ですので正しい文です。
土岐氏の討伐は1390(明徳元)年で、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐康行を討伐しました(土岐康行の乱)。また、11カ国の守護を兼ね「六分の一衆」と呼ばれた山名氏清は1391(明徳2)年に討伐され(明徳の乱)、1399(応永6)年には大内義弘が討伐されました(応永の乱)。ただ、土岐氏・山名氏・大内氏を滅ぼしたわけではなく、勢力が削減されつつも守護として存続します。
誤りの選択肢は3でした。
④義満の妻は天皇の准母(名目上の母)となった。また義満の死後、朝廷は義満に天皇の名目上の父として太政法皇の称号を贈ろうとしたが、4代将軍義持はこれを辞退した。(125頁 脚注④)
「天皇の准母となった」のは「娘」ではなく「妻」でした。
「4代将軍の義持はこれを辞退した」という表現にさまざまな人間模様がみえてきます。
〇問J 日明貿易について 正誤判定組み合わせ
X 義満は、明への国書で「日本国王」の称号を用いた。
Y 日本側の明での滞在費は、日本側が負担した。
Z 貿易船は、明の皇帝が発行する勘合を所持する必要があった。
1. X-正 Y-正 Z-誤
2. X-正 Y-誤 Z-正
3. X-正 Y-誤 Z-誤
4. X-誤 Y-正 Z-正
5. X-誤 Y-誤 Z-正
遣唐使が派遣されなくなって以降、宋、元の時代には私的な商船が派遣されることはありましたし、幕府の許可を得て渡航していましたが、正式に国交をもった外交をおこなっていたわけではありません。
義満は1401(応永8)年に明に使者(祖阿・肥富)を派遣して国交を開きました。当時の明は海禁政策をとっていたため、貿易は朝貢貿易の形式をとらなければいけませんでした。
①国交を開くに当たり、義満は使者に国書をもたせて明に派遣し、明の皇帝から「日本国王源道義」(道義は義満の法号)宛の返書と明の暦を与えられた。〈中略〉以後、将軍から明の皇帝に送る公式文書には「日本国王臣源」と署名した。また、暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為であった。(128頁 脚注①)
「日本国王」は「中国皇帝」から日本の支配を認められた「王」という立場であり、中国皇帝の「臣」であることを意味しました。義満は「日本国王臣源」と署名して貿易をおこないました。
「また、遣明船は、明から交付された勘合と呼ばれる証票を持参することを義務づけられ」(128頁)ました。正式な貿易船であることの証明である勘合を持参していない船は入港を許可されないのでは、江戸時代に長崎に入港するのに信牌が必要だったのと同じです。この勘合は明の皇帝が冊封体制下にある国王へ発行したものです。
中学の歴史などでは、勘合について「正式な貿易船と倭寇を区別するため」と学ぶことが多いと思いますが、これはあくまで現場での運用面の話で、勘合を発行する目的というわけではありません。
「朝貢形式の貿易は、滞在費・運搬費などすべて明側が負担した」(128頁)ため、日本側には大きな利益となりました。4代将軍義持は朝貢形式であることを嫌って日明貿易を停止しますが、6代将軍義教の時に再開され、15世紀後半以降は、博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏が貿易の実権を握りました。
2の「X-正 Y-誤 Z-正」が正しい選択肢でした。
2⃣はこれで終了です。◎4〇4△2でした。
今回はここまでです。