見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 4

2021商学部編の第4回です。今回から2⃣に入ります。2⃣は史料問題となっています。

※大学公式ページで問題を確認してください。(執筆時未掲載)

※東進データベースは要登録です。(執筆時未掲載)

△問A 【空欄補充】( イ )元の如く柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事

1. 京都  2. 鎌倉  3. 六波羅  4. 福原  5. 奈良

大学公式にも問題が未掲載なのですが、まずは(史料)が何かを確定させましょう。

(史料)
( イ )元の如く柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事
右、・・・・・・なかんずく( イ )郡は文治に右幕下はじめて武館を構え、

冒頭の問かけの後、「一、倹約を行わるべき事」「一、無尽銭・土倉を興行せらるべき事」などの項目が続きます。

(史料)のあと、「14世紀に入ってしばらくすると後醍醐天皇は…」で始まる解説文がついており、

「上に引用したのはその冒頭と第1・6・16条の一部で、幕府の所在地に関する問題や、流行していた気質・風俗、のちのちまで幕府を規定する経済にかかわる事柄、宗教に対する幕府の姿勢などが示されている。」

と書かれています。

これらの情報から、この(史料)は建武式目と確定できます。

建武式目① 幕府の所在地をどこにするかという第1項と、当面の基本政策17ヵ条をもつ第2項からなり、足利尊氏の諮問にこたえる形式をとっている。(122頁 脚注①)

建武式目は1336年に中原是円らが足利尊氏の諮問に答える形で出した答申です。

史料に「( イ )元の如く柳営たるべきか」「なかんずく( イ )郡は文治に右幕下はじめて武館を構え」「但し、諸人もし遷移せんと欲せば」とあることから、(イ)にはもとの幕府所在地が入ると考えられます。

したがって、正解は2の鎌倉です。

鎌倉か京都かという選択については『用語集』の建武式目の項目で説明されています。

なお、建武式目で「御成敗式目」が廃止されたわけではありません。武家の基本法は変わらずに御成敗式目であり、鎌倉時代の式目追加があり、さらに建武以降の追加分は建武以来追加と呼ばれました(103頁 脚注①)。

〇問B 「右幕下」は誰のことか

1. 平清盛  2. 平重盛  3. 源頼義
4. 源頼朝  5. 源義仲

問Aですでに( イ )が鎌倉であることはわかりました。鎌倉に「文治にはじめて武館を構え」た「右幕下」が誰か、というのが問です。

まず、鎌倉にゆかりのある人物は3の源頼義か、4の源頼朝に絞られます。さらに「文治にはじめて」とあることから1185(文治元)年から1189(文治5)年のあいだということになります。したがって、4の源頼朝で確定です。

ついで1185(文治元)年、平氏の滅亡後…武家政権としての鎌倉幕府が確立した。(97頁)

また、「右幕下」=源頼朝と判断してもよいでしょう。源頼朝は右近衛大将に任じられたことから「右大将」と呼ばれることが多く、「御成敗式目」でも「右大将家」とありますし、『吾妻鏡』の北条政子の訴えでも「故右大将軍」とありますので、こちらも覚えておいてください。

なお、源頼義は鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した人物で前九年合戦の後、東国での源氏の基盤を築いた源義家の父です。

◎問C 【空欄補充】承久に( ハ )朝臣天下を併呑す

1. 時政  2. 政子  3. 義時  4. 泰時  5. 時頼

選択肢には北条氏のメンバーがならんでいます。順に、初代執権の北条時政、「尼将軍」の北条政子、二代執権で得宗の初代である北条義時、御成敗式目を定めた三代執権の北条泰時、宝治合戦で三浦一族を滅ぼした五代執権の北条時頼です。

(史料)では「承久に( ハ )朝臣天下を併呑す」とありますから、承久の乱時の人物です。まずここで、1の時政と5の時頼が不適です。

「尼将軍」北条政子は源頼朝未亡人という立場で大きな影響力をもってはいましたが、鎌倉全体を指揮する立場ではありませんした。

1221(承久3)年、上皇は、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、ついに北条義時追討の兵をあげた。
 しかし、上皇側の期待に反して、東国武士の大多数は源頼朝の妻であった北条政子の呼びかけに応じて結集し、戦いにのぞんだ。幕府は、義時の子泰時、弟の時房らの率いる軍を送り、京都を攻めた結果、1か月ののち、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり、3上皇を配流した。これが承久の乱である。(101-102頁)

当時の幕府の執権は北条義時でした。したがって、正解は3の義時となります。子の泰時は承久の乱時点でそれなりの年齢ではありましたが、まだ父の義時が健在でした。後鳥羽上皇が出した院宣も「北条義時追討」であったことから、(ハ)には義時で問題ないでしょう。

なお、3上皇配流は、後鳥羽=隠岐、土御門=土佐(のち阿波)、順徳=佐渡です。また幼少だった仲恭天皇は廃位されました(九条廃帝)。

〇問D 「婆佐羅」の気質をもつ武士として有名な人物

1. 足利直義
2. 足利基氏
3. 佐々木導誉
4. 新田義貞
5. 北条時行

「婆佐羅」は「バサラ」と読みます。(史料)=建武式目では、

近日婆佐羅と号して、専ら過差を好み、…目を驚かさざるはなし、頗る物狂と謂うべきか

と書かれています。

これらの流行(※茶寄合、闘茶など 引用者注)を導いたのは、動乱の中で成長してきた新興武士たちであり、彼らの新しいもの好きの気質は、派手・ぜいたくを意味する「バサラ」の名で呼ばれた①(140頁)

中央の権力が動揺して、実力社会が浸透すると、従来の権威にとらわれない自由な発想が生まれます。かつては院政もそうであり、そのなかで今様などが生まれました。南北朝の動乱期は実力社会そのものでしたから、新しいものを積極的に需要する新興勢力が生まれやすく、彼らは「バサラ」と呼ばれました(しばらくのちの時代だと「傾奇者」)。

そうしたバサラのなかでも有名な「バサラ大名」として知られるのが、佐々木導誉(京極高氏)です。

①有力守護の一人で、バサラ大名として知られる佐々木導誉(高氏)は、その代表格であり、連歌・能・茶の湯・生け花などの諸芸能に奇才を発揮した。(140頁 脚注①)

NHK大河ドラマ「太平記」で陣内孝則が演じた佐々木導誉は名演でした。真田広之の足利尊氏、高嶋政伸の足利直義がなんとなく暗い感じで悩むなか、陣内演じる佐々木導誉の明るさが際立っていました。ドラマのラストシーンも導誉だったような覚えがあります。

時代考証をめぐってひと悶着あった「鎌倉殿の13人」ですが、「太平記」の佐々木導誉のような脇を固める名演技がみたいものです。

なお、足利直義は尊氏の弟でのちに観応の擾乱で尊氏と対立します。足利基氏は尊氏の子で初代鎌倉公方。新田義貞は鎌倉幕府の本拠地鎌倉を攻め落とし、建武政権では武者所に任じられた南朝方の武士。湊川の戦いで敗れたのち、北陸で命を落とします。北条時行は最近中公新書から『北条時行』がでたり、週刊少年ジャンプで漫画が連載されるなど話題の人物。中先代の乱で一時鎌倉を入手し、以後も南朝方について戦います。

今回はここまでです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?