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教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 13
2021人科編の第13回です。今回から社会福祉政策がテーマの大問Ⅴに入ります。
入試当時の首相は前年9月に就任した菅義偉でした。「自助・共助・公助」を掲げて、公的支援を最後に回す政策を発表しましたが、コロナ対応に失敗して次期総裁選への出馬すらままならないほど追い詰められて、2021年9月には政権維持をあきらめました。
入試問題がつくられたのはおそらく菅首相の就任直後くらいでしょう。人科は昨年もKuToo運動を取り上げて女性史を出題するなど、現代と歴史をつなぐ出題があり、学部の特色が出ていて非常に興味深いところです。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
〇問1 疫病除けから始まった宗教現象・行事として最も適切なもの1つ
ア 禊ぎ
イ 即身成仏
ウ 踊り念仏
エ 祇園祭
オ 御蔭参り
「疫病の流行や飢饉の発生にともなう困窮者への互助・救済は、前近代にもみられた。昨年からの災禍のなかでこのテーマについて考えてみたい」という主題の提示から始まる大問Ⅴです。
まず問1では、「疫病などの治療やその防除を祈る対応」から始まった宗教儀礼・行事について問われました。
① 御霊会は、初め早良親王ら政治的敗者をなぐさめる行事として、9世紀半ばに始まったが、やがて疫病の流行を防ぐ祭礼となった。北野天満宮や祇園社(八坂神社)の祭などは、元来は御霊信仰から生まれたものである。(74頁 脚注①)
「疫病の流行を防ぐ祭礼」=「御霊会」から生まれたのはエの祇園祭でした。869年の発足時には御霊会としての意味合いが強いものでしたが、応仁の乱後に復活した1500年の祇園祭は、京の町衆の経済力と結束力を背景にしており、町の自治の象徴として山鉾巡行が行われました。
アの禊は、古墳時代の宗教儀礼で、身の穢れを川の水などで流して、災いを免れるためのもの。不祥事を起こして辞職した政治家が次の選挙で当選すると「禊は済んだ」などとして政治活動を再開するが、別に選挙で当選しても「けがれ」がなくなるわけではない。
イの即身成仏は、密教の教えで、加持祈祷によって生きながら大日如来と一体化すること。空海など。
ウの踊念仏は、鎌倉時代の時宗の開祖一遍が踊りながら念仏を唱える形で多くの民衆へ布教したもの。地方の武士や庶民に受け入れられた。
オの御蔭参りは、江戸時代に流行した伊勢神宮への集団参詣のこと。多くは親や主人の許可を得ず、旅行手形も持たずに家を出てしまう抜参りだった。くじを引いて代表者が参詣する代参講なども習慣化した。
〇問2 奈良時代の社会事業と実施した人物
ア 貧者を治療する施薬院の設置:聖徳太子
イ 貧者を治療する施薬院の設置:行基
ウ 布施屋・北山十八間戸の設置や架橋:行基
エ 布施屋・北山十八間戸の設置や架橋:光明皇后
オ 孤児・貧者を救済する悲田院の設置:光明皇后
カ 孤児・貧者を救済する悲田院の設置:聖徳太子
まず空欄( 1 )の前後を確認しましょう。
仏教の伝来以降、その教義は政治、社会、文化に大きな影響をもたらした。なかでも「慈悲」と「福田」は福祉的実践の核心となる概念で、奈良時代においては( 1 )などの社会事業の実現にも結びついた。
まず、( 1 )に入る行事は「奈良時代」に実現した社会事業であることがわかります。この時点で、飛鳥時代の人物である聖徳太子が実施したとしているアとカが不適当です。
次に、鎌倉時代に建てられた「北山十八間戸」の入っているウとエも不適当です。
② 忍性は奈良に病人の救済施設北山十八間戸を建て、施療や慈善に尽くした。(115頁 脚注②)
残るは、イとオです。行基、光明皇后はともに奈良時代の人物です。
行基は渡来人系の僧で、全国各地を巡って土木事業などの社会事業を実施し、民衆から絶大な支持を集めますが、当時は民間への布教が禁じられており、取り締まりを受けます。仏教信仰に篤い聖武天皇・光明皇后は進みが遅い大仏造立に行基集団の力を利用しようと考え、行基に協力を求めます。
② のち行基は大僧正に任ぜられて大仏の造営に協力した。社会事業は善行を積むことにより福徳を生むという仏教思想にもとづいており、光明皇后が平城京に悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療に当たらせたことも仏教信仰と関係している。(57頁 脚注②)太字は引用者による
悲田院、施薬院はともに光明皇后の設けた施設でした。
正解はオです。
◎問3 下線部bの「公方」=足利義持に関する記述として、正しいもの1つ
ア 父の跡を継ぐと、将軍に反抗的な鎌倉公方を滅ぼした。
イ 父の始めた日明貿易が朝貢形式をとっていたことへの批判から、貿易を中止した。
ウ 父から譲位されて将軍に就任後、わずか2年ほどで死去した。
エ 兄の死後、くじ引きで後継者に決まり、僧から還俗して将軍に就いた。
オ 専制的な政治を行い、反発した守護に殺害された。
史料Bにある下線部b「公方」ですが、直前の説明文に「史料Bは、足利義持の治世末期に起こった室町時代最大級の飢饉のようすをつたえている」とありますので、「足利義持」に関わる内容を選択すればよいことになります。
足利義持は室町幕府の4代将軍です。父の足利義満は、有力守護を討伐し、南北両朝を統一し、太政大臣となって位人心を極め、日明貿易では「日本国王」と名乗るなど、権勢を誇りました。
義満の生存中に征夷大将軍の位を譲られた義持でしたが、実権は大御所である出家した義満がもっていました。義満が末弟をかわいがっていたこともあって、将軍でありながら廃嫡される危険性もありました。
そんな父への反発もあったのでしょう。
日明貿易は、4代将軍足利義持が朝貢形式に反対して一時中断し、6代将軍足利義教の時に再開された。(128頁)太字は引用者による
正解は、イでした。義持は朝廷が義満に太政法皇の称号をおくろうとしたことも拒否しています。
義持は将軍として比較的強い権力を保持していましたが、将軍職を譲った子の義量が先に亡くなり、次の将軍が決まらないうちに義持も亡くなりました。ウは義量のことです。
残りの3つは、すべて義教です。足利義教は義満の子で義持の弟です。足利氏は後継者争いが起きないように、嫡男以外は出家して門跡に入ることになっていましたので、くじ引きで選ばれた義教は青漣門院から還俗して将軍になりました。くじ引きで選ばれた将軍に強い権力があるはずもなく、義教は将軍権力を確立するために、鎌倉公方の足利持氏を討伐し(永享の乱)、守護への弾圧も強めるなど、強権的な将軍独裁政治をおこないます。その結果、播磨の守護赤松満祐に自邸で暗殺されることになります(嘉吉の変)。
今回はここまでです。