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教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 3
2021人科編の第3回です。大問Ⅰの残り2問を見ていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
〇問7 長岡京に関して 正しいもの1つ
ア 孝徳天皇の子である桓武天皇の下で建設された。
イ 藤原百川が造長岡宮使として建設を主導した。
ウ 紫香楽宮の東方に位置している。
エ 隠岐へと流された早良親王の怨霊を恐れて遷都された。
オ この郊外で桓武天皇は郊祀を行った。
長岡京は近年まで幻の都とされていましたが、発掘調査によってかなり建設の進んだ京があったことが発見されました。
奈良時代末期、仏教政治で混乱した政治を再建しようとした光仁天皇のあとを受けて、百済系の高野新笠との子である山部親王が桓武天皇として即位します。
桓武天皇は光仁天皇の政策を受け継ぎ、仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化するために、784(延暦3)年に平城京から山背国の長岡京に遷都した。しかし、桓武天皇の腹心で長岡京造営を主導した藤原種継が暗殺される事件がおこり、首謀者とされた皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)②や大伴氏・佐伯氏らの旧豪族が退けられた。ついで794(延暦13)年、平安京に再遷都して、山背国を山城国と改めた。(60頁)
選択肢をみると、
アは「孝徳天皇」が誤りで、正しくは「光仁天皇」の子
イは「藤原百川」ではなく「藤原種継」
エの「早良親王の怨霊を恐れて遷都された」のは、長岡京ではなく平安京(早良親王の怨霊については60頁の脚注②に記載あり)
残るは、ウとオですが、紫香楽宮は前回も登場しましたが、こちらは近江国でした。長岡京は山背国です。位置関係はいまの滋賀県と京都府になります。ウの「紫香楽宮の東方」は「紫香楽宮の西方」の誤りです。
以上から、オが正しい文になります。
桓武天皇は中国式の「郊祀祭天の儀」を長岡京の南郊外で執り行います(「用語集」51頁R)。奈良時代は天武系の天皇が続きましたが、光仁天皇は天智天皇の孫で天武系ではありませんでした。皇后に立てられた聖武天皇の娘の井上内親王と皇太子の他戸親王は政争により追放され、百済系氏族出身の母をもつ桓武天皇が即位しました。
長岡京遷都と郊祀の儀には新皇統の成立を宣言する意味と出自の劣る自らの立場の強化という意図があったのかもしれません。
〇問8 難波が古代国家に重視された理由 誤り1つ
ア 海と重要な河川との交通上の結節点であったこと。
イ 瀬戸内海に面していることから、唐・新羅の侵攻にそなえられること。
ウ 港湾施設が整備しやすかったこと。
エ ヤマト政権の中心勢力の基盤である畿内にあったこと。
オ 内陸におかれた都の外港として機能していたこと。
「教科書」表表紙の見返しにある「古代の行政区画」の地図で「畿内付近」の部分をみると、難波宮は琵琶湖から流れる淀川が大阪湾に流れ出る場所に位置していることがわかります。
アの「交通上の結節点」、イの「瀬戸内海に面している」、ウの「港湾施設が整備しやすい」、エの「畿内にあったこと」、オの「内陸におかれた都の外港」は地理的条件ですべてその通りです。
したがって、誤りは地理的条件でないところにあります。
663年、百済復興のために戦われた白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗すると、倭では防衛政策が進められます。防人・烽の設置、水城や大野城・基肄城の築城、瀬戸内海には朝鮮式山城が建設されました。
そして国内では、664年には氏上を定め、豪族領有民を確認するなど豪族層の編制が進められ、
中大兄皇子は667年に都を近江大津宮に移し、翌年即位して天智天皇となり(39頁)
ました。
唐・新羅の侵攻に備えた防衛政策として「都を近江大津宮に移し」ているわけですから、難波宮が防衛に適していないということでしょう。斉明天皇即位の時点で飛鳥の岡本宮に都は移っており、難波宮は孝徳天皇とともに放棄されていましたが、「侵攻に備えられる」として重視されるなら、白村江の敗戦後に活用するはずです。
したがって、イが誤りです。
これで大問Ⅰは終了です。◎3〇5という結果でした。
次回から大問Ⅱに入ります。史料を活用した鎌倉時代に関する問題です。