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教科書だけで解く早大日本史 2021教育学部 12
2021教育学部編の第12回です。今回で大問Ⅳが終了します。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
○問6 サンフランシスコ平和条約について 誤り1つ
ア 平和条約締結に先立ち、日本国内では全面講和運動がおこった。
イ 平和条約と同時に日米安全保障条約が調印され、引き続きアメリカ軍の日本駐留と基地使用が認められた。
ウ サンフランシスコ講和会議には、アメリカ、イギリス、ソ連、中国、インド、日本などが参加した。
エ 沖縄以外に、奄美、小笠原の各諸島に対するアメリカの施政権が継続承認された。
オ 平和条約締結に先立ち、沖縄・奄美では日本への復帰運動がもりあがった。
明らかな誤文が1つあります。早大受験生ならすぐにわかるでしょう。
ソ連などは講和会議には出席したが調印せず、インド・ビルマ(ミャンマー)などは条約案への不満から出席しなかった。主要交戦国である中国については、中華人民共和国と中華民国のいずれも招かれなかった。のちに日本は、1952(昭和27)年に中華民国と日華平和条約を結び、つづいてインド(1952年)・ビルマ(1954年)とも平和条約を結んだ。(383頁 脚注①)太字は引用者による
中国が参加したとしているウが明らかな誤文です。サンフランシスコ平和条約に調印したのは49か国で、中国はともに招かれず、インド・ビルマ・ユーゴは不参加、ソ連・ポーランド・チェコは調印を拒否しました。
他の選択肢はすべて正しい文です。
アの全面講和論は大内兵衛(戦中に人民戦線事件で検挙、戦後は法政大総長)、矢内原忠雄(日本の大陸政策を批判し東大教授を退職、戦後、東大総長)、南原繁(戦後、教育委員会委員長、東大総長)らの学者や日本共産党、日本社会党などが全交戦国との講和を主張しました。これに対し、吉田首相は「曲学阿世の徒」と揶揄し、西側諸国との単独講和路線をとりました(382頁 脚注④)。
イ、エに関しても教科書384頁本文及び脚注に記述されています。
オの沖縄・奄美の復帰運動については教科書に記述はありません。「用語集」には、ともに1951年に沖縄では沖縄群島議会が復帰を決議し、奄美では日本復帰協議会が結成されたことが書かれています(「用語集」348頁Rおよび357頁L)。
沖縄・奄美の返還については、2020年の国際教養学部で英文史料の問題が出題されています。
◎問7 ベトナム戦争について 正誤判定組み合わせ
① ベトナム戦争の背景には、米ソによる東西対立および民族解放運動の高まりがあった。
② 日本経済はベトナム戦争による特需の恩恵を受け、高度経済成長を促進させた。
③ 米ソ対立が強く影響したので、アメリカや日本でベトナム戦争に反対する動きは弱かった。
ア ①-正 ②-正 ③-誤
イ ①-正 ②-正 ③-正
ウ ①-誤 ②-正 ③-正
エ ①-正 ②-誤 ③-正
オ ①-誤 ②-誤 ③-正
ベトナムはインドシナ戦争でフランスに勝利し、1954年のインドシナ休戦協定によりフランス軍は撤退します。
しかし、南北分断のもとでなおも内戦が続き、1965年からは、南ベトナム政府を支援するアメリカが北ベトナムへの爆撃(北爆)を含む大規模な軍事介入を始め、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線は中・ソの援助を得て抗戦した(ベトナム戦争)。(387頁)
引用部分に先立って、「第三勢力」の台頭についてふれられています。ベトナムではフランスの植民地から脱する民族解放運動からひきつづいて米ソ対立にからむ内戦に突入します。アメリカは「トンキン湾事件」をでっちあげて北爆を開始し、南ベトナム解放戦線のゲリラに対抗するため枯葉剤などを使用しました。この後遺症は現在でも残っています。
アメリカ国内では大規模なベトナム反戦運動が展開されます(教科書には書かれていません)。「沖縄や日本本土はアメリカ軍の前線基地となり、戦争にともなうドル支払いは日本の経済成長を促進させ」(391頁)ました。一方で、「沖縄では祖国復帰を求める住民の運動が続き」「返還問題があらためて浮上」(391頁)しました。また、1960年代後半の多党化現象のもとで、新左翼やべ平連によるベトナム反戦運動が展開されました(392頁)。
アメリカは軍事支出の膨張と国内の反対運動もありベトナムからの撤退を決意し、1973年にベトナム和平協定が成立します。以後、1975年に北ベトナムが南ベトナムを倒して南北が統一されます。
①の正、②の正はともに本文で確定します。③は「反対する動きは弱かった」が誤りです。特にアメリカ国内での反戦運動は大きな運動となりました。世界史や政治経済などを学んでいると③の誤が先に確定し、③-誤の選択肢がアしかないので、アの正解が確定する順序になろうかと思います。日本史ではまったく逆のルートでした。
アメリカは南ベトナム解放戦線のことを「ベトコン=ベトナムの共産主義者(コミュニスト)」という蔑称で呼びました。中部地方を中心に広がっている油(バター)がたっぷり入った「ベトコンラーメン」との関連は不明です。
△問8 沖縄返還協定に関して 正誤判定組み合わせ
① 1960年代の沖縄では、日本への祖国復帰運動が盛り上がった。
② アメリカは、沖縄基地機能安定のために、佐藤首相・ジョンソン大統領会談で施政権返還を約束した。
③ ベトナムにおける共産主義の拡大を恐れたアメリカは、北爆によりベトナムへの軍事介入を本格化させた。
ア ①-正 ②-正 ③-誤
イ ①-正 ②-正 ③-正
ウ ①-誤 ②-正 ③-正
エ ①-正 ②-誤 ③-正
オ ①-誤 ②-誤 ③-正
全問で引用した部分の前後をみておきましょう。
「基地の島」沖縄では祖国復帰を求める住民の運動が続き、ベトナム戦争の激化とともにその返還問題があらためて浮上した。佐藤内閣は、「(核兵器を)もたず、つくらず、もち込ませず」の非核三原則を掲げ、まず1968(昭和43)年に小笠原諸島の返還を実現し、翌年の日米首脳会議(佐藤・ニクソン会談)は「核抜き」の沖縄返還で合意した。1971(昭和46)年に沖縄返還協定が調印され、翌年の協定発効をもって沖縄の日本復帰は実現したが、広大なアメリカ軍基地は存続することになった。(391-392頁)
1960年代に入り、ベトナム戦争の出撃基地となった沖縄では、基地用地の接収やアメリカ兵による犯罪の増加などもあって祖国復帰運動が本格化していました(391頁 脚注②)。
1967(昭和42)年の佐藤・ジョンソン会談で3年以内の返還決定が合意され、1968年には琉球政府主席公選の実施(屋良朝苗が当選)、1969年に佐藤・ニクソン会談で返還で共同声明が出されます。「核抜き・本土並み」と言われましたが、実際には「核密約」があったことが明らかになっています。
①は正、②も正です。②の「沖縄基地機能安定のため」というアメリカ側の思惑については教科書には書かれていません。③の正はすでに前問で引用の通りです。③は「沖縄返還協定の説明として」という条件からすると怪しいのですが、ベトナム戦争と沖縄返還は密接に関連した出来事なので正しい文としてよいでしょう。
②の「佐藤首相・ジョンソン大統領会談」を正と判定できるかが難しい問題でした。これは教科書に書かれていないため「用語集」が必要です。
これで大問Ⅳは終了です。◎2○1△3×2というかなり手ごわいセットでした。
次回から最終大問Ⅴに入ります。