教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 7
2021人科編の第7回です。江戸初期から出題された大問Ⅲに入ります。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
◎問1 キリスト教を中心とする一揆、アイヌの蜂起、未完に終わったいくつかの幕府転覆計画について 誤り1つ
ア しだいにキリシタン禁教が強化され、宗門改めが行われるようになった。
イ 天草・島原のキリシタン農民らは、藩の圧政に対し天草四郎時貞を首領に一揆を起こした。
ウ 松前藩の収奪に反抗したシャクシャインは、蝦夷地のアイヌを糾合して蜂起した。
エ 兵学者由井正雪は、4代将軍家綱の死去を機に、江戸城の襲撃と幕府の転覆をはかった。
オ 牢人戸次庄左衛門は、増上寺の法要に参加する老中の襲撃計画を立てた。
中学教科書レベルから高校の教科書にも載っていないようなことまで幅広い選択肢です。知らない内容についてはとりあえず「保留」して、確実にわかることから正解を導いていきましょう。
1651(慶安4)年4月に3代将軍徳川家光が死去し、子の徳川家綱が8月に11歳で4代将軍になった。(中略)平和が続く中で重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する牢人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。まず1651(慶安4)年7月に兵学者由井(比)正雪の乱(慶安の変)がおこると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防ぐ一方、江戸に住む牢人とともにかぶき者の取り締まりを強化した。(198頁)
由井正雪の乱(慶安の変)は3代将軍家光の死去後に計画された幕府転覆計画です。事前に計画が発覚し、由井正雪は駿河の旅館で自殺、協力者の丸橋忠弥は江戸で逮捕されました。古代、中世、近世を問わず、秘密裏のやり取りというのは簡単に発覚するものです。たとえ鍵アカウントでも何を話しているかなどは漏れ伝わります。気をつけましょう。
誤りがあるのは、エでした。
それ以外はすべて正しい文です。
ア~ウは中学教科書にも掲載されているレベル。もっとも中学教科書に掲載されていることが高校の教科書に掲載されていないなんてことはよくあることです(ノーベル賞受賞者の氏名・受賞年一覧など)。
1637(寛永14)年には、島原の乱がおこった。この乱は、飢饉の中で島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏とが領民に過酷な年貢を課し、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した土豪や百姓の一揆である。(中略)益田(天草四郎)時貞を首領にして原城に立てこもった3万人余りの一揆勢に対し、幕府は九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員し、翌1638(寛永15)年、ようやくこの一揆を鎮圧した。(176頁)
この地域は有馬晴信や小西行長などかつてのキリシタン大名の領地であり、牢人たちも関ヶ原の戦いや大坂の陣を経験した合戦巧者たちがそろっていました。幕府は鎮圧に向かった大名がつぎつぎに敗れるなど苦戦を強いられ、最後には将軍家光の側近である松平信綱(知恵伊豆)までもが出陣して、兵糧攻めで鎮圧します。一揆と宗教が結びついた時の手ごわさは、戦国時代の一向一揆で十分に経験済みでしたから、幕府はさらなる禁教政策の強化にのりだします。
幕府は島原の乱後、キリスト教を根絶するため、とくに信者の多い九州北部などで島原の乱以前から実施されていた絵踏を強化し、また寺院が檀家であることを証明する寺請制度を設けて宗門改めを実施し、仏教への転宗を強制するなどキリスト教に対してきびしい監視を続けていった。(176頁)
ア、イについては以上の通りです。
ウの「シャクシャイン」についても中学教科書レベルです。
蝦夷ヶ島の和人地(道南部)は、徳川家康からアイヌとの交易独占権を認められた松前氏が支配していました。松前氏は家臣たちにアイヌとの交易拠点である商場(場所)を与えて収入を確保させました(商場知行制)。家臣たちはアイヌとの交易で自らに有利な取引をたびたび強制したため、アイヌの中に反感が広がります。そうした中でシャクシャインの乱が起こります。
アイヌ集団は1669(寛文9)年、シャクシャインを中心に松前藩と対立して戦闘をおこなったが、松前藩は津軽藩の協力を得て勝利した。このシャクシャインの戦いでアイヌは全面的に松前藩に服従させられ、さらに18世紀前半頃までには、多くの商場が和人商人の請負となった(場所請負制)。(182頁)
シャクシャインの戦いはかなり広範囲にわたりましたが、最終的にはおさえこまれ、シャクシャインは謀殺されます。
最後にオですが、こちらは「教科書」にはでてきません。「用語集」で確認しておきましょう。
戸次庄左衛門 ② 別木とも書く。牢人、軍学者で1652年、同志とともに増上寺での2代将軍秀忠夫人の法要で、老中襲撃を計画。いわゆる承応の変の首謀者。未然に捕縛、処刑された。(「用語集」170頁LR)
〇問2 武家諸法度に関して 年代整序古い順
Ⅰ 諸国の居城補修を為すと雖も、必ず言上すべし。
Ⅱ 大名小名、在江戸交替相定むる所なり。
Ⅲ 文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事。
ア Ⅰ → Ⅱ → Ⅲ
イ Ⅰ → Ⅲ → Ⅱ
ウ Ⅱ → Ⅰ → Ⅲ
エ Ⅱ → Ⅲ → Ⅰ
オ Ⅲ → Ⅰ → Ⅱ
カ Ⅲ → Ⅱ → Ⅰ
武家諸法度は2代将軍徳川秀忠の時に制定され、以降、将軍の代替わりごとに修正を加えて発布されました。秀忠の名前で発布された最初の武家諸法度(元和令)は、徳川家康が金地院崇伝に起草させたものです。
「教科書」には史料として、「元和令」「寛永令」(ともに171頁)「天和令」(200頁)が掲載されています。また、1663(寛文3)年に4代将軍家綱が発布した「寛文令」については、末期養子の禁止の緩和と殉死の禁止を盛り込んだことが198頁本文で書かれており、天和令の史料部分でも確認できます。
武家諸法度(元和令)
一、文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事。
一、諸国ノ居城修補ヲ為スト雖モ、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。…(「御触書寛保集成」)(171頁)
武家諸法度(寛永令)
一、大名小名、在江戸交替、相定ル所也。毎歳四月中参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労也。向後其ノ相応ヲ以テ、之ヲ減少スベシ。…(同上)
武家諸法度(天和令)
一 文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事。
(「御触書寛保集成」)(200頁)
Ⅰが諸国の城の修理に幕府の許可を必要とし、新城築城が禁止された元和令、Ⅱが参勤交代が制度化され、人員や費用などを減少することを命じた(!)寛永令、Ⅲが文治主義にのっとって「文武弓馬の道」から「文武忠孝を愛し」にかわった天和令でした。
今回は2問だけです。
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