教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 2
2021人科編の第2回です。引き続き古代から出題された大問Ⅰを見ていきます。
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◎問4 時代整序 古い順
Ⅰ 恭仁京への遷都
Ⅱ 大仏造立の詔が出される
Ⅲ 藤原武智麻呂ら四兄弟の死去
Ⅳ 藤原広嗣の乱
ア Ⅰ→Ⅳ→Ⅲ→Ⅱ イ Ⅱ→Ⅰ→Ⅲ→Ⅳ
ウ Ⅱ→Ⅲ→Ⅰ→Ⅳ エ Ⅱ→Ⅲ→Ⅳ→Ⅰ
オ Ⅲ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅱ カ Ⅲ→Ⅰ→Ⅳ→Ⅱ
年代整序なので年代を暗記していればそれで終わりですが、経過を理解していれば年代暗記が無くても正解にはたどり着きます。
737(天平9)年に流行した天然痘によって藤原4兄弟があいついで病死する(Ⅲ)と政権は皇族出身の橘諸兄に移り、遣唐使帰りの玄昉や吉備真備らが重用され、藤原氏の勢力は一時的に後退します。
740(天平12)年に藤原広嗣(4兄弟の式家・宇合の子)が玄昉と吉備真備の排除を求めて九州で反乱を起こす(Ⅳ)と、聖武天皇は恭仁京(Ⅰ)・難波宮・紫香楽宮などに都を転々とします。
反乱に加え、飢饉や疫病などで混乱した世の中を仏教の力で治めようとした聖武天皇は741(天平13)年に国分寺建立の詔、ついで743(天平15)年には近江の紫香楽宮で大仏造立の詔(Ⅱ)を出し、745(天平17)年に平城京に戻ります。
以上が、「教科書」50頁に書かれた内容のまとめです。
正解は、オのⅢ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅱでした。
〇問5 大化改新について 誤り1つ
ア 乙巳の変を経て新政権が成立した。
イ 中臣鎌足が内臣となった。
ウ 旻と高向玄理が国博士となった。
エ 「評」について、『日本書紀』の「改新の詔」には「郡」と表記されている。
オ 改新の詔が出された年に、全国で班田収授が行われた。
教科書では蘇我氏政権について「国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確立と国内統一にせまられた」として、蘇我入鹿政権も国際的環境から説明しています。中大兄皇子らによる蘇我政権打倒と新政権は王族中心の中央集権をめざしたものでした。
乙巳の変で蘇我入鹿・蘇我蝦夷を打倒すると、
皇極天皇の譲位を受けて、王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた。(38頁)
646年正月に「改新の詔」が出されて新政権の改革が始まります。もっとも『日本書紀』に記されている「改新の詔」は「のちの大宝令などによる潤色が多く見られ」(38頁 脚注①)、地方行政組織の「評」が、大宝令以後の「郡」と表記されています。出土した木簡で「評」が確認されたことから、「郡評論争」と呼ばれる論争に決着がつき、大宝令以前は「評」、大宝令以後は「郡」であったことがわかりました。
「郡評論争」決着直後は「改新の詔」そのものが虚構であるとする意見もありましたが、現在では「改新の詔」自体はあったが、具体的にどのような改革がこの時点で行われたかについてはわからない、という意見もあります。
ア~エは説明の通り正しい文です。選択肢の中で誤りがあるのはオでした。
改新の詔自体の信ぴょう性に疑問がある上に、戸籍を作成する前に班田を実施することは不可能です。庚午年籍のつくられた670年、または庚寅年籍のつくられた690年が最初の班田年と考えられますが、実際には大宝律令後に本格実施されたと考えるべきでしょう。
◎問6 大化改新に際して遷都した( 1 )の難波宮
ア 天武天皇
イ 孝徳天皇
ウ 持統天皇
エ 斉明天皇
オ 舒明天皇
前問で引用したように、大化改新における新政権で即位したのは軽皇子=孝徳天皇です。難波(長柄豊碕)宮に遷都しています。のちに中大兄皇子と対立して難波宮に取り残されなくなります。
選択肢の即位順では、舒明天皇→(皇極天皇)→孝徳天皇→斉明天皇(皇極重祚)→(天智天皇)→(弘文天皇)→天武天皇→持統天皇です。
今回はコンパクトにまとめてみました。
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