教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 11
2021人科編の第11回です。引き続き憲法がテーマの大問Ⅳをみていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。
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〇問5 「天皇主権説」を唱えて美濃部達吉と論争した人物1人
ア 一木喜徳郎
イ 上杉慎吉
ウ 佐々木惣一
エ 中田薫
オ 三浦周行
カ 該当者なし
美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説(国家法人説)は大正デモクラシーを支える理論的柱でしたし、憲法学説としては正統とされていました。一方で、天皇を国家の一機関として捉えるこの学説が、神聖不可侵な天皇の統治権を制限するものだとする天皇主権説も唱えられていました。
② 美濃部のいわゆる天皇機関説は、統治権の主体を法人としての国家に帰属させ、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治権を行使すると説明するもので、統治権は神聖不可侵の天皇に属し、それは無制限であるとする上杉慎吉らの学説と対立していた。(350頁 脚注②)
こうした学説の対立は、1935(昭和10)年に天皇機関説問題として政治問題化しますが、そちらについては、次回、問8で取り上げることになります。
正解は、イの上杉慎吉でした。
アの一木喜徳郎は天皇機関説問題の時の枢密院議長で、第2次大隈内閣の文部大臣(のち内務大臣)。
ウの佐々木惣一は憲法学者で京大教授。国家法人説をとった。
エの中田薫は日本法制史の研究をした歴史学者。
オの三浦周行も歴史学者。
◎問6 1916年に「挙国一致」をスローガンに組閣した( 2 )
ア 大隈重信
イ 加藤高明
ウ 加藤友三郎
エ 高橋是清
オ 山本権兵衛
カ 該当者なし
空欄補充問題です。
その後、1916年には( 2 )が「挙国一致」のスローガンを掲げて内閣を組織したが、非立憲的であるとして社会的非難を浴びた。このような経緯を経て、元老側も政党内閣を認めるに至り、1918年には、初の本格的な政党内閣が成立した。
( 2 )の前後は以上の通りです。ここから、1916年に組閣した( 2 )は「挙国一致」を唱えたが、非立憲的と非難され、1918年には初の本格的政党内閣が成立しているということがわかります。
( 2 )に入るのは、「寺内正毅」です。
長州出身の陸軍閥で初代朝鮮総督の寺内正毅は1916(大正5)年に組閣します。
大隈内閣が総辞職すると、陸軍軍人で初代朝鮮総督をつとめた寺内正毅が、「挙国一致」を掲げて内閣を組織した。(324頁)
大隈内閣与党の立憲同志会などの各派が憲政会を結成して寺内内閣と対立すると、寺内内閣は衆議院を解散します。その結果、立憲政友会が第一党となり、寺内は立憲政友会総裁の原敬や立憲国民党の犬養毅らを取り込んで臨時外交調査委員会を設置します。
このように政党勢力とも妥協をはかっているのですが、長州陸軍閥という山県有朋の直系にあたる立場もあって「非立憲的」という非難を浴びました(顔が「ビリケンさん」に似ていたことから「ビリケン(非立憲)」と揶揄されました)。
寺内内閣時代には、中国の段祺瑞への西原借款、アメリカとの石井・ランシング協定などが行われています。
しかし、1918(大正7)年におきた米騒動で全国的な騒擾が発生し、政府は首都に戒厳令を敷いて軍隊を導入して運動を鎮圧します。これへの批判が高まったことで寺内内閣は退陣し、同年9月、原敬を首班とする初の本格的政党内閣が誕生します(初の政党内閣は第1次大隈内閣=隈板内閣)。
選択肢に寺内正毅がないので、正解は、カの該当なしです。「挙国一致」があるので、斎藤実があれば少しは悩むところですが、大隈と原敬の間であるということから判断はしやすかったでしょう。
なお、ア~オはすべて首相経験者です。
◎問7 政党に関連して、大正時代の政治動向について 正しいもの1つ
ア 犬養毅は、立憲改進党を組織した。
イ 桂太郎は、立憲自由党を組織した。
ウ 立憲国民党の尾崎行雄は、第一次護憲運動に尽力した。
エ 憲政会・革新倶楽部・立憲民政党の3党は護憲三派と呼ばれ、清浦奎吾内閣を批判した。
オ 清浦内閣を支持する人々は、政友本党を組織した。
大正時代の政治動向についての出題です。清浦奎吾内閣に関わる選択肢が2つありますので、そちらから確認してみましょう。
加藤友三郎内閣からあとをうけた第2次山本権兵衛内閣は1923(大正12)年の関東大震災復興への対応を行います。しかし、難波大助による摂政宮裕仁襲撃事件=虎の門事件の責任を取って総辞職することになります。あとを受けたのが枢密院議長だった清浦奎吾でした。
1924(大正13)年、松方正義と西園寺公望の二人の元老は、政党と距離をおく人物を選ぶため、枢密院議長であった清浦奎吾を首相に推した。清浦が陸相と海相を除く全閣僚を貴族院から選出すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党は、超然内閣の出現であるとして、憲政擁護運動をおこした(第二次護憲運動)。これに対し、清浦内閣は、立憲政友会の高橋是清総裁を批判する勢力によって組織された政友本党を味方につけ、議会を解散して総選挙にのぞんだが、結果は護憲三派の圧勝に終わった。(332頁)
清浦奎吾内閣の味方に付いたのは立憲政友会から分裂した「政友本党」でしたので、オが正しい文でした。
エは「立憲民政党」ではなく「立憲政友会」です。憲政会と立憲政友会は対立関係にありましたが、護憲三派では手を結びます。もっともすぐに対立関係に戻り、憲政会系が政友本党を加えて結成したのが立憲民政党です。この二党が「憲政の常道」期の二大政党となります。
アは「立憲国民党」または「革新倶楽部」とするべきです。「立憲改進党」は大隈重信が組織した政党です。
イは「立憲自由党」ではなく「立憲同志会」です。立憲自由党は第一議会の際の民党で衆議院第一党です。すぐに自由党に改名します。立憲同志会は第一次護憲運動時に桂太郎がつくった政党で、のちの憲政会です。
ウは「立憲国民党」ではなく「立憲政友会」です。第一次護憲運動(大正政変)の時、尾崎行雄は立憲政友会に所属していました。立憲国民党で運動に加わったのは犬養毅です。
今回はここまでです。
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