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教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 10
2021人科編の第10回です。今回から憲法がテーマの大問Ⅳに入ります。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
◎問1 明治六年の政変前後に起こった出来事 誤り1つ
ア 留守政府は、地租改正をはじめとする内政改革を推進した。
イ 留守政府は、西郷隆盛を朝鮮に派遣して開国を迫る方針を決定していた。
ウ この政変後、大久保利通の主導のもとで、内務省が新設された。
エ この政変後、岩倉具視が征韓派に襲撃される赤坂喰違の変が起こった。
オ この政変後、前原一誠は秋月の乱をおこした。
大問Ⅳは明治初期から戦後の新憲法までを通しての出題となりました。問1は「明治六年の政変」についての出題です。
1871(明治4)年末に岩倉具視を大使、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とする岩倉使節団が1年以上の海外視察にでかけました。政府の主要メンバーが使節団に参加する一方で、留守を預かる留守政府は、西郷隆盛、板垣退助らを首脳とするメンバーでした。
留守政府は、1872(明治5)年から1873(明治6)年にかけて様々な政策を実行します。
1872(明治5)年に実行されたのは、徴兵告諭(翌年1月に徴兵令)、壬申戸籍作成、国立銀行条例、学制公布、太陽暦採用、琉球藩設置など多岐にわたります。
1873(明治6)年には地租改正なども行われます。そして、外交政策では対朝鮮政策が課題となりました。当時、鎖国を続けていた朝鮮に対して、留守政府は強行に開国させる方針を決定します。
② 留守政府は、西郷隆盛を朝鮮に派遣して開国をせまり、朝鮮政府が拒否した場合には武力行使も辞さないという強硬策をいったんは決定した。しかし、岩倉使節団に参加して帰国した大久保利通・木戸孝允らは、内地の整備が優先であるとして反対した。論争は大久保らの勝利に帰し、西郷ら征韓派は下野した。(273頁 脚注②)
征韓論が否決されると、西郷、板垣らの征韓派参議は辞任し、西郷は鹿児島へ戻ります。これが明治六年の政変です。
征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職し(明治六年の政変)、翌1874(明治7)年から、これらの士族の不満を背景に政府批判の運動を始めた。この政変ののちに政府を指導したのは、内務卿に就任した大久保利通であった。(274頁)
政変後は、大久保利通が1873(明治6)年に設置した内務省を中心に殖産興業、地方行政、警察の統轄などにあたりました。
では、選択肢をみてみましょう。
アの地租改正は1873(明治6)年ですが、留守政府の仕事か、使節団の帰国後なのかは「教科書」ではわかりません。保留です。もっとも、地租改正の実施に欠かせない田畑永代売買禁令を解いたのは1872(明治5)年で留守政府の仕事ですから、地租改正へは繋がっていたと理解できます。
イの西郷派遣の方針は引用の通り正しい文です。
ウの内務省の新設も政変後で正しい文ですが、「教科書」には大久保利通が内務卿であったことは書かれていますが、大久保利通が主導したかどうかは書かれていません。保留です。
エの「赤坂喰違の変」も正しい文です。岩倉具視が武市熊吉らの征韓派に襲撃された事件です。岩倉は怪我をしますが命は助かります。こちらは「教科書」にありません。「用語集」には項目があります(241頁R)。
オの「秋月の乱」は元参議の前原一誠がおこしたものではありません。前原一誠がおこしたのは「萩の乱」です。
さらに1876(明治9)年に廃刀令が出され、ついで秩禄処分が断行されると、復古的攘夷主義を掲げる熊本の不平士族の敬神党(神風連)が反乱をおこし、熊本鎮台を襲った。これに呼応して、福岡県の不平士族による秋月の乱、山口県萩で前参議前原一誠の反乱など、士族の武装蜂起があいついでおこったが、反乱はいずれも政府によって鎮圧された。(275頁)
「教科書」だけでは、ア、ウ、エは保留でしたが、オの誤りは「教科書」本文で確定しました。
◎問2 政変で下野した参議らが設立した( 1 )
ア 愛国公党
イ 嚶鳴社
ウ 共立社
エ 交詢社
オ 自主社
明治六年の政変で下野した参議たちは、不平士族の首領として反乱をおこしたものと、自由民権運動で政府を批判する者たちとにわかれました。
板垣退助・後藤象二郎らは、愛国公党を設立するとともに、イギリス帰りの知識人の力を借りて作成した民撰議院設立の建白書を左院に提出し、政務官僚の専断(有司専制)の弊害を批判して天下の公論にもとづく政治をおこなうための国会の設立を求めた。(274-275頁)
アの愛国公党が正解です。選択肢の中に、立志社、愛国社などがあればもう少し悩みがいのある問題でしたが、大半の受験生はアの愛国公党以外を知らないのではないでしょうか。せいぜい、エの交詢社を知っていれば上々ですが、交詢社を知っているレベルなら愛国公党を間違うことはないでしょう。
イの嚶鳴社は沼田守一・田口卯吉らの政治結社で「嚶鳴社憲法草案」という私擬憲法をは発表しています。小野梓もかかわった共存同衆の「私擬憲法意見」の影響を受けています。
エの交詢社も「私擬憲法案」を出した結社で、慶應義塾関係者や福沢諭吉と親しい実業家で作られたもの。こちらにも小野梓がかかわっています。
ウの共立社、オの自主社は「用語集」にもなく判定不能です。
◎問3 自由民権運動に関して 年代整序
Ⅰ 漸次立憲政体樹立の詔
Ⅱ 地方三新法の制定
Ⅲ 立志社建白
ア Ⅰ → Ⅱ → Ⅲ
イ Ⅰ → Ⅲ → Ⅱ
ウ Ⅱ → Ⅰ → Ⅲ
エ Ⅱ → Ⅲ → Ⅰ
オ Ⅲ → Ⅰ → Ⅱ
カ Ⅲ → Ⅱ → Ⅰ
できごとの年代整序の問題です。
民撰議院設立建白書の提出をきっかけに、自由民権論は急速な高まりを見せます。政府も時間をかけて立憲制へ移行することを決めます。
これに対して政府側も、時間をかけて立憲制へ移行すべきことを決め、1875(明治8)年4月に漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、立法諮問機関である元老院、最高裁判所に当たる大審院、府知事・県令からなる地方官会議を設置した。(276頁)
翌1876(明治9)年から1877(明治10)年にかけておきた士族の反乱や農民一揆(地租改正反対一揆)が終息すると、政府は地方制度の整備をはかります。
1878(明治11)年に郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則のいわゆる地方三新法を制定した。(276-277頁)
1874(明治7)年、板垣が郷里の土佐に帰って片岡健吉らと結成した立志社を中心に大阪で愛国者が設立されますが、愛国社は板垣の参議復帰で事実上解散してしまいます。
他方、民権運動の中心であった立志社は、西南戦争の最中に片岡健吉を総代として国会開設を求める意見書(立志社建白)を天皇に提出しようとしたが、政府に却下された。また、立志社の一部が西郷軍に加わろうとしたこともあって、運動は一時下火になった。(277頁)
立志社建白は西南戦争の最中(1877年)でした。
Ⅰ 1875(明治8)年
Ⅱ 1878(明治11)年
Ⅲ 1877(明治10)年
イのⅠ→Ⅲ→Ⅱが正解です。
〇問4 植木枝盛が起草したとされる憲法私案
ア 「五日市憲法草案」
イ 「国憲意見」
ウ 「私擬憲法案」
エ 「私擬憲法意見」
オ 「東洋大日本国国憲按」
カ 該当するものなし
植木枝盛の私擬憲法については他学部でも出題されていました。
② 民間の憲法私案の作成は、交詢社の「私擬憲法案」が発表された頃から各方面でさかんになり、現在では「私擬憲法」と総称している。交詢社案は、議院内閣制と国務大臣連帯責任制を定めたものであった。植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」は、広範な人権保障、権限の強い一院制議会、抵抗権・革命権などをもった急進的なもので、立志社が発表した「日本憲法見込案」はこれと同系統に属する。この他、東京近郊の農村青年の学習グループによる五日市憲法草案などもあった。(278頁 脚注②)
正解は、オの「東洋大日本国国憲按」です。
引用になかった、イの「国憲意見」は福地源一郎によるもの、エの「私擬憲法意見」は共存同衆が作成したものです。
今回は以上です。