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教科書だけで解く早大日本史 2021教育学部 13
2021教育学部編も大詰めの第13回。今回から最終大問Ⅴに入ります。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
○問1 空欄( B )にあてはまる語(漢字)
〈史料〉は大学公式ページにも掲載されています。
( A )主義という文字は…従来は民主主義という語をもって普通に唱えられておったようだ。時としてはまたは民衆主義とか( B )主義とか呼ばれたこともある
( B )主義といえば、( B )と貴族を対立せしめ、貴族を敵にして( B )に味方するの意味に誤解せらるる恐れがある。
「民主主義」という語の使用に慎重な姿勢を示すこの史料は、教科書324頁に掲載されている吉野作造の「民本主義」(『中央公論』1916(大正5)年1月号)そのものです。
( A )主義には「民本」主義、( B )主義には「平民」主義が入ります。「貴族」に「平民」を対置したのは条約改正問題時の徳富蘇峰の平民的欧化主義でした。社会主義者の幸徳秋水・堺利彦らは平民社をおこして『平民新聞』を創刊して日露戦争の非戦論を唱えました。
正解は、平民です。ここでは一般民衆と同じ意味と考えればよいでしょう。原敬の「平民宰相」と同じ使い方です。戦後は「平和と民主主義」を略して「平民」という語を使うこともありました(「平民学連」「ひらみん」など)。
○問2 空欄( C )にあてはまる政党
こちらも教科書掲載史料の通りですが、内容で判断しなくてはいけません。
しかし民主主義といえば、( C )などという場合におけるがごとく、「国家の主権は人民にあり」とい危険なる学説と混同されやすい。
( C )に政党名が入るとすれば、前後の関係から「〇〇民主党」となるはずです。吉野作造が民本主義を唱えたのは大正期ですから、その時点で「〇〇民主党」と名がつく政党は「社会民主党」しかありません。
1906(明治39)年に成立した第1次西園寺公望内閣は日本社会党の存続を容認しました(1年後禁止)。それに先立って、1901年に結成され、即時解散となったのが社会民主党です。
1901(明治34)年、日清戦争後の労働運動の展開の中で、安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・木下尚江らが最初の社会主義政党である社会民主党を結成したが、治安警察法によって、結成直後に解散を命じられた。また、日本社会党は1907(明治40)年、党内で議会政策派(片山潜ら)と直接行動派(幸徳秋水ら)の対立が激しくなり、後者が優位を占めると、解散させられた。(298頁 脚注③)太字は筆者による
社会民主党の結成メンバーは引用にある4人の他に河上清、西川光二郎の2人がおり、全部で6人です。結成の2日後に前年に公布された治安警察法によって結社を禁止されました。
日本社会党は片山潜・堺利彦らによって結成されました。当面存続が容認されましたが、1年後に治安警察法により結社禁止。第1次西園寺内閣崩壊の一因ともなります(恐慌なども要因)。
社会民主党結成メンバー6人(S6)のなかで、大逆事件に関わる幸徳秋水、職工義友会・労働組合期成会を結成した片山潜が特に重要ですが、早稲田大学としては安部磯雄がおさえておきたい人物です。
大逆事件後は運動から離れていた安部磯雄は、昭和初期になると社会民衆党・社会大衆党委員長などを歴任します。もちろんそれも大事なのですが、安部磯雄は早稲田大学野球部の初代部長なのです。ゆかりの人物は確認しておきましょう。
◎問3 史料に関する説明として誤っているもの
ア 大日本帝国憲法では天皇が元首であり、天皇の権限を強く認めていた。
イ 第一次世界大戦後、デモクラシーは世界の大勢になった。
ウ ( B )主義の思想の拡大をめざし、黎明会が結成された。
エ 主権が国民にあるかどうかを問わない考えである。
オ 政治の目的は国民の福祉の増進にあるという考えである。
史料は吉野作造の民本主義についてのものでした。また( B )には「平民」が入ることも確認しました。
一方、民本主義をとなえる吉野作造は、1918(大正7)年には黎明会を組織して全国的な啓蒙運動をおこない、時代の趨勢は平和・協調にあると述べた論説を通じて、知識人層を中心に大きな影響を与えた。また、吉野の影響を受けた学生たちは東大新人会などの思想団体を結成し、しだいに労働・農民運動との関係を深めていった。(330頁)
吉野作造らが結成した黎明会は「民本主義」の団体です。「平民主義」は吉野作造が「誤解せらるる」とした用語ですから、ウは明らかに誤りです。
残りの選択肢はすべて正しい文です。アは284頁、エとオは324頁脚注①に書かれています。イの「デモクラシーが世界の大勢になった」ことについては教科書に書かれていません。ヨーロッパにおける民族自決のことのみふれられています。
×問4 第一次護憲運動の説明として正しいもの すべて選ぶ
ア 大正政変により、山本権兵衛内閣は、わずか50日余りで退陣を余儀なくされた。
イ 軍部の力を制限するなかで、陸軍高官の軍艦購入にかかわる贈収賄事件がおきた。
ウ 西園寺公望首相は、天皇を政治利用したとして批判を浴び、憲政擁護運動がおきた。
エ 憲政擁護運動には、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らが参加した。
オ 都市では、民衆により政府系新聞社や交番を襲う事件がおきた。
正しいものを「すべて選べ」という問題です。全選択肢の正誤判定をしなければならない上に、正答数もわからないので難易度はかなりあがります。
大正政変に至る過程には、まず、その前段をおさえておく必要があります。
第2次桂太郎内閣が退き、1911(明治44)年に第2次西園寺公望内閣が組閣されます。山県有朋と陸軍は辛亥革命と清王朝滅亡という情勢を考慮して、朝鮮での2個師団の増設を要求しますが、西園寺は財政上困難として難色を示します。これに対し、上原勇作陸相が帷幄上奏権(大臣が単独で天皇に意見を上奏する権利)を使って天皇に辞表を提出し、重要閣僚を欠いた西園寺内閣は総辞職に追い込まれます(陸相、海相は欠員不可)。軍部大臣現役武官制の下では、陸軍が後継大臣の推挙を拒否すれば内閣を崩壊させることが可能だったのです。
元老会議は後継首相として、侍従長で内大臣だった桂太郎に3度目の組閣をさせますが、「宮中と府中の別」の原則を乱すとして批判がおきます。
ここに、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅を中心とする野党勢力・ジャーナリストに、商工業者・都市民衆が加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動として全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は非政友会系の新党を組織し、従来の元老政治からの脱却を掲げて内閣を維持しようとしたが、立憲政友会と立憲国民党が内閣不信任案を議会に提出し、それを支持する民衆が議会を包囲したため、1913(大正2)年2月、内閣は在職50日余りで退陣した(大正政変)。(318-319頁)
以上が、大正政変のあらましです。桂内閣打倒の主要メンバーが、立憲政友会の尾崎行雄(咢堂)、立憲国民党の犬養毅(木堂)でした。いずれも慶應義塾人脈です。
この時点で、ア、ウが誤り、エが正しいことがわかります。
アは「山本権兵衛」でなく「桂太郎」です。山本権兵衛は桂の後に組閣し、軍部大臣現役武官制の緩和などをおこないますが、出身母体の海軍が汚職事件(ジーメンス事件)をおこしたことで退陣に追い込まれます。これがおそらくイの文につながるのでしょうが、そもそも「陸軍」でなく「海軍」なので、イも誤りです。
ウの「西園寺公望」は「山県有朋」または「桂太郎」「元老」などが正しい。
残るはオですが、これは正しい文です。大正政変で民衆は国会議事堂を包囲します。中学の教科書にも写真が掲載されています。また、都市部では政府系新聞社や交番が襲撃される事件も発生するのですが、これらは教科書にも「用語集」(いずれも山川)にも書かれていませんでした。
今回はここまでです。次回でこのシリーズは終了です。