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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 10

今回から後半戦です。4⃣は明治期の内閣をめぐる問題です。大隈重信関連の問題ですから早大受験生ならば確実に押さえたいところです。

※大学公式ページで問題を確認してください。執筆時未掲載

※東進データベースは要登録です。執筆時未掲載

◎問A ( イ )にあてはまる語句

1. 伊藤
2. 黒田
3. 山県
4. 松方
5. 桂

4⃣には3つの史料が掲載されています。出典は鳥谷部春汀『明治人物月旦』となっています。3つの史料Ⅰ~Ⅲはいずれも「ある人物に関する同時代の評論」とされていますので、史料から「ある人物」を探っていきます。

〈史料Ⅰ〉では、

( イ )候が、自ら骸骨を乞ふて〔※辞表を提出して〕大隈板垣両伯を奏薦し、以て内閣開放の英断を行ふや

とあります。このことから、自ら内閣を辞め、「大隈板垣」を次の内閣に推薦した人物が( イ )であり、「ある人物」だと考えられます。

次に、〈史料Ⅱ〉をみると

 公は自ら新官制に基きたる内閣の総理大臣と為りて、各行政機関の運用を試みたりき。

とありますので、「ある人物」は「新官制に基づきたる内閣の総理大臣となった」人物ということになります。

この時点で、「ある人物」は初代内閣総理大臣の伊藤博文であるとわかります。

伊藤博文はヨーロッパでの憲法調査から帰国したのち、1884年に華族令を定めて将来の貴族院の基盤を整備するとともに、翌1885年に内閣制度を創設して初代内閣総理大臣(宮内大臣兼任)となります。

伊藤博文は初代となった第1次内閣から間をあけながら第4次内閣まで合計4回組閣します。そのうち、〈史料Ⅰ〉は、第3次伊藤内閣が退陣して、「大隈板垣両伯」に内閣を譲ったことを書いています。

1898(明治31)年に成立した第3次伊藤内閣は、総選挙でのび悩んだ自由党との提携をあきらめて超然主義に戻った。これに対し、自由・進歩両党は合同して憲政党を結成した。衆議院に絶対多数をもつ合同政党の出現により、伊藤内閣は議会運営の見通しを失って退陣し、かわってはじめての政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立した①。(292頁)

最後に〈史料Ⅲ〉も確認しておくと、

 候は窃かに故陸奥伯の手を通じて自由党と提携するの端を啓き、

とあります。これは第2次伊藤内閣で自由党と提携したことをさしています。

 その後、第2次伊藤内閣の外相陸奥宗光は、自由党の支持によって国内の改正反対の声をおさえ、日清戦争直前の1894(明治27)年、…日英通商航海条約の調印に成功した。(288頁)
自由党は第2次伊藤博文内閣を公然と支持して板垣退助を内相として入閣させ、軍備拡張予算を承認し、(291-292頁)

伊藤博文内閣については、第1次(藩閥)、第2次(自由党と提携)、第3次(超然)、第4次(立憲政友会)という特徴も押さえておきたいところです。

そういうわけで、( イ )に入るのは、1.の「伊藤」です。第4次伊藤内閣の後は、その後継を5.の「桂」と西園寺が交互につとめます。

2.黒田、3.松方、4.山県はそれぞれ2代、3代、4代の内閣総理大臣です。松方、山県はともに2度組閣し、それぞれ薩摩閥、長州閥のドンとして大正期まで元老の立場で力を発揮し続けます。

〇問B 下線部ロ(板垣)に関して 正しいもの2つ

1. 廃藩置県にともない参議に就任した。
2. 征韓論の政変で下野後、議会開設後に入閣するまで、一貫して在野の立場で政治活動を行った。
3. 矢野文雄や小野梓といったブレーンに支えられ自由民権運動を推進した。
4. 1882年のヨーロッパ行きをめぐっては自由党内からも反対の声が起こり脱党者が出た。
5. 大同団結運動に際して岐阜で暴漢に襲われて負傷した。

「大隈板垣両伯」を並べておいて、あえて下線部ロを(板垣)にしてくるなど、なかなかいやらしい問題です。もっとも早大では板垣にまつわる話は昨年も出題されており、大隈重信の創設した学校にもかかわらず「板垣」や「福澤」はむしろ頻出分野です。

選択肢は年代順となっています。

1.の「廃藩置県にともない参議に就任」ですが、廃藩置県後の官制改革では、太政官を正院・左院・右院の三院制として、正院のもとに各省を置く制度になります。そして、新政府内では薩長土肥の4藩から若き実力者たちが参議や各省の卿・大輔となって実権を握ります(263頁)。

土佐藩からは板垣退助・後藤象二郎・佐佐木高行の3名の名が要職についたとして263頁脚注②で挙げられていますが、板垣がこのとき「参議に就任」したことまではわかりません。

しかし、274頁では岩倉使節団が欧米へ滞在中の「留守政府首脳」として「西郷隆盛・板垣退助」の名があり、274頁では「征韓派参議」として「西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣」の名があげられています。

板垣は廃藩置県の時点で参議に就任して、留守政府トップの一人であったと考えても差し支えないでしょう(ただ、教科書だけでは「途中で参議に昇格」した可能性は否定できません)。

2の「一貫して在野の立場」は誤りです。

征韓論で敗れて下野した板垣らは民撰議院設立の建白書を左院に提出して自由民権運動を開始します。これに対して政府側は、1875年に漸次立憲政体樹立の詔をだすとともに、元老院、大審院、地方官会議を設置します。これは、下野していた木戸孝允の政府復帰を目論んで開催された大阪会議の結果でした。

1875(明治8)年初めに、大久保利通と、台湾出兵に反対して下野していた木戸孝允、それに板垣退助の三者が大阪で会談し、木戸の主張を入れて漸進的な国会開設方針が決定した(大阪会議)。この結果、木戸・板垣はいったん政府に復帰した。(276頁 脚注②)

板垣は木戸とともに「いったん政府に復帰」していますので、「議会開設後に入閣するまで、一貫して在野の立場」ではありませんでした。

3.の「矢野文雄や小野梓といったブレーンに支えられ」たのは、板垣ではなく大隈です。矢野文雄(矢野竜渓)は立憲改進党のメンバーで政治小説『経国美談』の作者(312頁脚注②)。小野梓は交詢社設立メンバーでもあり、早稲田大学関係者です。残念ながら小野梓は教科書には出てきません。

4.「1882年のヨーロッパ行き」は「板垣洋行」といわれるものです。

① 民権運動の弱体化をはかる政府の伊藤博文・井上馨らは、ひそかに三井からその費用を出させ、自由党の板垣退助・後藤象二郎らを洋行させた。旅費出所の疑惑をついた立憲改進党が自由党を攻撃すると、自由党側も大隈重信と三菱との関係を暴いて反撃した。(281頁 脚注①)

板垣・後藤の「ひも付き」洋行には、立憲改進党だけでなく、「自由党内部にも批判があり」(280頁)ました。4.の「脱党者が出た」までは教科書では書かれていませんが、正しい文ということになります。

5.の「大同団結運動に際して」は誤りです。

板垣が岐阜で暴漢に襲われた「岐阜事件」または「板垣遭難」は1882年4月のことです(281頁資料)。「板垣死すとも自由を死せず」の名言を残したといわれるこの事件ですが、昨年は「岐阜事件で死亡した」という誤りを見つけさせる問題が出題されています。

大同団結運動というのは、1886年から1887年にかけて、井上外相の条約改正交渉失敗からおきた三大事件建白運動をきっかけにおきた、星亨・後藤象二郎らが中心になって「小異を捨てて、大同につく」大同団結で国会開設にそなえようという運動です。政府は保安条例で対抗し、運動の主要メンバーを東京から追い出します(282頁)。

大同団結運動と岐阜事件は関係ありません。

正解は、1.と4.ですが、いずれも細かいところで断定できていません。しかし、残る2.3.5.については教科書で誤りであることを確認できますので、〇評価となりました。

◎問C 下線部ハ(徳川慶喜の政権奉還)に関して 正しいもの2つ

1. 土佐藩士後藤象二郎が全藩主山内容堂を通じて建策したものである。
2. 同じ日にいわつる倒幕の密勅が下された。
3. この挙により天皇・三職らによる小御所会議が政策決定の場となった。
4. この挙と同時に大老・老中職も廃止された。
5. この挙により江戸幕府は廃絶した。

徳川慶喜の大政奉還に関する出題です。

家持の急死を受けて将軍に就任した慶喜はフランスから援助を受けて幕政の立て直しをこころみます。しかし、同盟を結んだ薩長両藩が武力討幕路線にむかいます。

これに対し土佐藩はあくまで公武合体の立場をとり、藩士の後藤象二郎と坂本龍馬とが前藩主の山内豊信(容堂)を通して将軍徳川慶喜に、討幕派の機先を制して政権の返還を勧めた①。慶喜もこの策を受け入れ、ついに10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出した。(258頁)

徳川慶喜は朝廷に政権を返上した上で、諸藩連合の新政府を徳川家主導で成立させる目論見がありました。

 同じ10月14日には、朝廷内の岩倉具視らと結んだ薩長両藩が、倒幕の密勅を手に入れていた。(同上)

機先を制された討幕派は、12月9日にクーデターを決行し、王政復古の大号令を発して天皇中心の新政府の樹立を宣言し、江戸幕府は滅亡します。新政府は将軍・摂政・関白を廃止し、総裁・議定・参与の三職を新たにおいて雄藩連合の形をとります。

さらに同日の小御所会議で慶喜の辞官納地(内大臣の職の辞退と領地の返上)を命じる決定をしたため、反発した旧幕府勢力は新政府と軍事的に対立、翌年初頭からの鳥羽伏見の戦いを皮切りに函館戦争までつづく戊辰戦争が始まります。

正解は、1と2でした。これは教科書本文の引用通りです。

3の小御所会議は12月9日に開かれた会議です。

4と5は王政復古の大号令と小御所会議の際の決定です。

今回はここまでです。

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