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教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 12

2021人科編の第12回です。大問Ⅳの残り、昭和時代についてみていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。


※東進データベースは要登録です。



◎問8 「昭和時代になると、軍部や現状打破を掲げる勢力が政治的発言力を強めていった」に関連して 誤りを1つ

ア 陸軍省は、「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを発行し、議論を巻き起こした。
イ 菊池武夫は、貴族院で美濃部達吉の憲法学説を反国体的と非難した。
ウ 斎藤実内閣は、天皇機関説を否定する国体明徴声明を出した。
エ 広田弘毅内閣は、軍部大臣現役武官制を復活させた。
オ 北一輝が大正時代に刊行した『日本改造法案大綱』は、この時期の右翼運動家のバイブルとなった。


美濃部達吉の学説に関する選択肢が2つあるので、まずはイとウについてみていきましょう。

前回解説したように、美濃部達吉の憲法学説=いわゆる天皇機関説は正統学説とされていましたが、上杉慎吉の天皇主権説など対立する勢力も存在しました。大正デモクラシーから「憲政の常道」の時代が終了する1932(昭和7)年頃になると、美濃部への攻撃はさらに強まっていきます。

 かねてから美濃部達吉の憲法学説は右翼の攻撃を受けていたが、1935(昭和10)年、貴族院で軍出身議員の菊池武夫がこれを反国体的と非難したのをきっかけに、にわかに政治問題化した(天皇機関説問題)。(350頁)

学問の自由や大学の自治への攻撃はそれまでも1920年の森戸事件や1933年の滝川事件などがありましたが、貴族院での菊池武夫の攻撃をきっかけにして全国的な排撃運動が展開されることになりました。

 天皇機関説はそれまで明治憲法体制を支えてきたいわば正統学説であったが、現状打破をのぞむ陸軍、立憲政友会の一部、右翼、在郷軍人会などが全国的に激しい排撃運動を展開したので、岡田内閣は屈服して国体明徴声明を出し、天皇機関説を否認した。こうして、政党政治や政党内閣制は、民本主義と並ぶ理論的支柱を失った。(同上)

激しい運動の結果、海軍穏健派の岡田啓介内閣は国体明徴声明を出して天皇機関説を否認することになりました。一国会議員の学説への攻撃が政府による学説の否定にまで進んでしまったこの歴史をよく理解しておくことは、学問の自由を考えるうえで極めて重要です。

内閣を屈服させて発言力を増した陸軍は、この後、二・二六事件を経て、さらに発言力を高めていきます。

国体明徴声明を出したのは斎藤実内閣ではなく次の岡田啓介内閣ですので、ウが誤りとなります。イは引用の通り正しい文です。

残る、ア、エ、オもいずれも正しい文です。

アですが、軍部や反既成政党・革新・現状打破を掲げる勢力が伸長し、革新官僚とよばれる一部官僚とも手を組んで国家主義的改革をめざしました。

1934(昭和9)年に陸軍省が発行したパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」は、陸軍が政治・経済の運営に関与する意欲を示したものとして、議論を巻き起こした。(350頁)

次にエです。二・二六事件後に岡田内閣のあとを受けて成立した広田弘毅内閣は軍の要求を入れて成立しました。

① 1936(昭和11)年に、陸軍の要求に従って軍部大臣現役武官制を復活させた。(351頁 脚注①)

大正政変後の第1次山本権兵衛内閣で予備役などまでに緩和されていた軍部大臣現役武官制が復活したことで、陸相、海相は現役武官に限定され、各軍が大臣を推挙しなければ内閣が成立しなくなりました。この結果、組閣の大命が下った宇垣一茂は組閣を断念することになります。

オです。北一輝は第一次大戦後に『日本改造法案大綱』を記します。

④ 右翼の理論的指導者で、天皇と軍隊を中核とする国家改造方針について論じた『日本改造法案大綱』(1923年刊)は、右翼活動家のバイブルとなっていた。(350頁 脚注④)

北一輝は二・二六事件の首謀者とされて処刑されました。

△問9 「憲法改正」に関連して 誤りを1つ

ア GHQが憲法改正を指示したのは、幣原喜重郎内閣に対してであった。
イ GHQは、憲法問題調査委員会が提示した「憲法改正要綱」を拒否した。
ウ GHQは、封建的身分制の廃止を含む3つの原則をふまえて、「帝国憲法改正草案要綱」を作成した。
エ GHQは、憲法改正の草案作成にあたって、大塚久雄らによる憲法研究会が発表した「憲法草案要綱」も参照した。
オ GHQによる憲法改正草案の、家族生活における男女平等を規定した条項は、ベアテ=シロタが起草した。

戦後の憲法改正からの出題です。戦後の改革はポツダム宣言の実施という視点で見ることが大切です。

憲法改正への流れもよく知っておかないと、フェイクニュースにすっかり騙されて頓珍漢なことを恥ずかしげもなく言う輩になりかねません。

1945(昭和20)年10月、幣原喜重郎内閣はGHQに憲法改正を指示され、憲法問題調査委員会(委員長松本蒸治)を政府内に設置した。しかし、同委員会作成の改正試案が依然として天皇の統治権を認める保守的なものであったため、GHQは極東委員会の活動が始まるのを前に、みずから英文の改正草案(マッカーサー草案)を急きょ作成して①、1946(昭和21)年2月、日本政府に提示した。政府は、これにやや手を加えて和訳したものを政府原案として発表した。新憲法制定は手続き上、大日本帝国憲法を改正する形式をとり、改正案は衆議院と貴族院で修正可決されたのち②、日本国憲法として1946(昭和21)年11月3日に公布され、1947(昭和22)年5月3日から施行された。(375頁)
① 高野岩三郎らによる民間の憲法研究会は、1945(昭和20)年12月に主権在民原則と立憲君主制をとった「憲法草案要綱」を発表し、GHQや日本政府にも提出していた。GHQはマッカーサー草案を執筆した際、この「憲法草案要綱」も参照した。(375頁 脚注①)

やや長い引用になってしまいましたが、これが憲法改正の経緯です。マッカーサー草案の和訳を政府原案として、国会で一院制を二院制に、9条2項に「前項の目的を達するため」を追加するなど、修正可決して成立しました。

それでは、各選択肢を見ていきましょう。

アは引用の通り正しい文です。改正指示をされたのが幣原内閣で公布・施行は第1次吉田内閣です。施行直後に片山哲内閣が成立します。

イも正しい文ですが、憲法問題調査委員会の提示した改正試案の名前は「教科書」にありませんでした。「憲法改正要綱」(松本案)は「用語集」にあります(「用語集」343頁L)

ウも正しい文ですが、3つの原則などについては「教科書」にありません。「用語集」でマッカーサー三原則(天皇は元首、戦争放棄、華族の政治権力の否定)について説明されています(「用語集」343頁R)。

エは民間の憲法研究会の発表した「憲法草案要綱」をマッカーサー草案が参照していたことは引用の通りです。憲法研究会のメンバーは、森戸辰男・鈴木安蔵・高野岩三郎ら学識経験者でした。大塚久雄は経済史学者で憲法研究会のメンバー7人には入っていません。したがってエが誤りです。

オについても「用語集」で確認できます。「家族生活における男女の平等を規定した第24条は、日本育ちのアメリカ人女性ベアテ=シロタが起草した」(「用語集」343頁R 「マッカーサー草案」の項)

(私はベアテ=シロタさんの話をじかに聞いたことがあったはずなのですが、何の機会だったかは忘れてしまいました)

エの誤りを確定することができないのですが、それ以外は「用語集」までで正しいことが確認できましたので△評価です。

◎問10 「憲法問題調査委員会」の委員長を務めた人物

ア 有沢広已
イ 鈴木安蔵
ウ 寺崎英成
エ 松本蒸治
オ 森戸辰男

すでに前問の引用で書いた通り、政府の憲法問題調査委員会の委員長を務めたのは、国務大臣の松本蒸治です。正解は、エでした。

アの有沢広已は1938(昭和13)年の第2次人民戦線事件で検挙されたのち、戦後大学に復帰し、法政大総長。傾斜生産方式の発案者。

イの鈴木安蔵は前問でも紹介の通り、憲法研究会のメンバー。マルクス主義憲法学者で戦後も憲法会議などの護憲運動に参加。

ウの寺崎英成は外交官。戦後は昭和天皇の通訳をつとめた。『昭和天皇独白録』を記録。

オの森戸辰男は1920(大正8)年に論文「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想とされて東大を休職処分にされる森戸事件がおき、起訴されて有罪となる。戦後は憲法研究会のメンバーであり、芦田内閣では文部大臣を務めた。

大問Ⅳは以上です。◎7〇2△1でした。

次回、大問Ⅴに入ります。

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