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教科書だけで解く早大日本史 2021法学部 3
2021法学部編の第3回です。大問Ⅰの後半4問を見ていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
△7 北条泰時が執権の時代に、港湾を整備する目的から勧進聖の往阿弥陀仏によって鎌倉の海浜部に築かれた人工島は何か
漢字指定の記述問題です。
正解は、和賀江島です。4日後におこなわれた教育学部の入試でも全く同じ問題が出ました。
和賀江島の位置は教科書97頁の鎌倉要図で確認できますが、「往阿弥陀仏によって築かれた人工島」などの詳細は『用語集』(84頁L)を必要とします。
○8 『十六夜日記』の作者は誰か
漢字指定の記述問題です。
下線部fで「鎌倉と京都の間を旅した人の紀行文」となっています。
正解は、阿仏尼です。教科書では116頁の鎌倉文化の主な著作物のところに名前があります。『十六夜日記』は、阿仏尼が実子冷泉為相と継子二条為氏の播磨国細川荘をめぐる所領争いの解決のために、京から鎌倉へ赴いた時の紀行文です。
この時代の紀行文は他に、『海道記』(作者不詳)、『東関紀行』(源親行?)などがあります。
◎9 「尾張国」の中世の状況について述べた文として、正しいもの1つ
あ 道元が禅宗の道場として、永平寺を開いた。
い 窯業が盛んで、瀬戸焼や常滑焼の生産地であった。
う 守護の山名氏清が、将軍足利義満により討伐された。
え 民衆の自治が発達し、今堀や菅浦などの惣村が生まれた。
お 『一遍上人絵伝』に描かれていることで有名な、福岡の市があった。
また、宋・元の強い影響を受けながら、尾張の瀬戸焼①や常滑焼、備前の備前焼など、各地で陶器の生産が発展をとげた。それらの陶器は日本列島に広く流通し、そのため京都・鎌倉をはじめとして、備後の尾道など各地の湊や宿といった町の遺跡から発掘されている。こうした町には有徳人と呼ばれる富裕な人びとが成長していた。(119頁)
正解は、「い」です。瀬戸の陶器(瀬戸物)は加藤景正によって始められたと言われていましたが、現在では事実の裏付けはないとされています。ただ、瀬戸焼に宋・元の影響があるのは事実です(119頁 脚注②)。常滑焼の常滑はかつてはボートレースで有名な場所でしたが、現在は中部国際空港(セントレア)がある場所として知られています。
「あ」道元が永平寺を開いたのは越前です(115頁)。
「う」尾張守護は斯波氏です(124頁)。鎌倉時代、尾張は足利氏が守護をつとめた土地でした。鎌倉で中先代の乱が起きた時や尊氏が九州に落ち延びた時も尾張は足利氏の拠点として重要な役割を果たしました。
「え」今堀は現在の滋賀県東近江市今堀町(131頁「惣掟」注②)、菅浦は滋賀県長浜市。ともに近江国。
「お」福岡の市は備前国(110頁)です。
○10 近江国から伊勢国と美濃国へ入った場所にある律令体制下の関の名称の組み合わせ
あ 伊勢国-足柄関 美濃国-逢坂関
い 伊勢国-不破関 美濃国-鈴鹿関
う 伊勢国-愛発関 美濃国-足柄関
え 伊勢国-鈴鹿関 美濃国-不破関
お 伊勢国-逢坂関 美濃国-愛発関
まずは律令体制下の関(三関)を確認しましょう。教科書見開きの「古代の行政区画」の地図左上に「畿内付近」が拡大されています。
そこでは、近江国から伊勢国方面へ鈴鹿関、近江国から美濃国方面へ不破関が書かれています。もう一つの三関である愛発関は近江国から若狭国への関です。
壬申の乱で大海人皇子軍が美濃から不破関を、伊勢から鈴鹿関を越えて大友皇子の近江朝廷軍と戦いました。また、奈良時代以降は、地方反乱などの際には関を閉じて都への侵入を防ぐ役割を果たしました。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では、仲麻呂が近江国の国司であったことから、吉備真備の進言で関を封鎖して仲麻呂を追い込みました。また、平城太政天皇の変(薬子の変)でも、東国へ逃亡を図る上皇と薬子をおさえるために関が封じられました。
正解は「え」です。足柄関は駿河国から相模国、逢坂関は近江国と山城国の境にある関です。「これやこの いくもかえるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき」(蝉丸)、「よをこめて とりのそらねを はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ」(清少納言)などの歌にも詠まれました。
これで大問Ⅰは終了です。◎6○3△1でした。和賀江島は難問でしたが、それ以外は標準的だったのではないでしょうか。
次回、大問Ⅱは「一揆」がテーマです。