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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 7

1994年に社会科学部に入学した学生たちは、入学後4ヵ月で旧14号館の使用が停止され、そのまま1号館、6号館、7号館、15号館と学内を転々と移動する学生生活を余儀なくされました。そして、新校舎のA棟が完成した1998年にはもう大学を卒業してしまっていたのです。ただし、留年したものを除いて…

引き続きⅡをやっていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

〇問6 洋学に関して 不適切2つ

イ 志筑忠雄は『歴象新書』を著した。
ロ 大槻玄沢は江戸に芝蘭堂を開いた。
ハ 宇田川玄随は『蘭学階梯』を著した。
ニ 高橋景保は西洋暦を取り入れた寛政暦をつくった。
ホ 蛮所和解御用は幕末期に蕃書調所となった。

儒学、国学ときて、次は洋学です。18世紀の初めに西川如見や新井白石が洋学の先駆けとなり、享保の改革で漢訳洋書の輸入が実学に関して緩和され、青木昆陽・野呂元丈らがオランダ語を学んだことから、蘭学が発達しました。「教科書」225頁の「洋学者系統図」にまとめられています。「解体新書」作成にかかわった、杉田玄白・前野良沢・桂川甫周(と中川淳庵)らから、高野長英、緒方洪庵などへつながっていきます。

志筑忠雄は元オランダ通詞です。オランダ商館医師のケンペルが帰国後に著した『日本誌』の一部を「鎖国論」の題で翻訳したことで知られます。

元オランダ通詞の志筑忠雄は『歴象新書』を著し、ニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介した。(245頁)

『歴象新書』は天文学の発展に貢献しました。正しい文です。

大槻玄沢は杉田玄白・前野良沢に学んだ蘭学医、宇田川玄随は桂川甫周に学んだ蘭学医です。

③ 大槻玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂を開いて多くの門人を育てた。宇田川玄随は、西洋の内科書を訳して『西説内科撰要』を著した。(225頁 脚注③)

大槻玄沢は江戸の芝に家塾芝蘭堂を開きました。正しい文です。

『蘭学階梯』は大槻玄沢が著したものなので、不適切です。

の寛政暦をつくったのは、高橋景保ではなく高橋至時です。不適切

洋学では、幕府が天文方の高橋至時に西洋暦を取り入れた寛政暦をつくらせた。また天文方に蛮所和解御用①を設け、至時の子高橋景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。(245頁)

高橋至時は伊能忠敬に測地・暦法を教えた人でもあります。子の高橋景保は銅板印刷の『新訂万国全図』を製作し、伊能忠敬の日本地図にも協力しましたが、シーボルト事件で投獄され牢死しました。

正しい文です。蛮所和解御用は「幕末期に洋学の教育研究機関である蕃書調所」(245頁 脚注①)になります。のちに洋書調所→開成所→開成学校→東京大学となっていきます。「蛮」所和解御用と「蕃」所調所の漢字に注意してください。


◎問7 和歌や和歌から派生した連歌・俳諧・川柳・狂歌などに関して 不適切2つ

イ 一条兼良は応安新式を策定した。
ロ 香川景樹は桂園派をおこした。
ハ 宗鑑は俳諧連歌をつくった。
ニ 蕉風俳諧は談林俳諧の流れをくむものである。
ホ 宿屋飯盛は石川雅望の戯号である。

和歌、連歌、俳諧、川柳、狂歌などに関わる問題です。

の応安新式を策定したのは、一条兼良ではなく二条良基です。不適切

南北朝時代に出た二条良基は『菟玖波集』を撰し、連歌の規則書として『応安新式』を制定したが、『菟玖波集』が勅撰集と同格とみなされてからは、和歌と対等の地位を築いた。(145頁)

一条兼良は応仁の乱の頃の摂政・関白で、有職故実の研究(『公事根源くじこんげん』『花鳥余情かちょうよぜい』)で知られるほか、9代将軍足利義尚に対して政治の指南をし、「足軽」の語がでてくる『樵談治要しょうだんちよう』でも知られます。

香川景樹は化政期から天保期にかけて歌人です。こちらは正しい説明です。

また、和歌は化政期から天保期に香川景樹らの桂園派が平明な歌風をおこしたがあまり浸透せず、わずかに越後の禅僧良寛に独自の生活歌がみられた。(246頁)

時代が行ったり来たりしていますが、の(山崎)宗鑑がつくったのは俳諧連歌です。正しい説明です。応仁の乱の頃、(飯尾)宗祇が正風連歌を確立して『新撰菟玖波集』を撰したのに対して、

宗鑑はより自由な気風をもつ俳諧連歌をつくり出し、『犬筑波集』を編集した。(145頁)

次は元禄文化です。蕉風俳諧は松尾芭蕉が確立したものです。

松永貞徳に始まる貞門派の形式を乗り越えて、自由な用語で言葉の面白みを追求したのが、西山宗因に始まる談林俳諧(談林派)でした。

 芭蕉は伊賀の出身で、奇抜な趣向をねらう談林俳諧に対し、さび・かるみで示される幽玄閑寂の蕉風(正風)俳諧を確立し、自然と人間を鋭くみつめて、『奥の細道』などの紀行文を著した。(212-213頁)

蕉風俳諧は談林俳諧の流れをくむものではありませんので、不適切となります。

正しい文です。天明期から寛政期、化政期、天保期にかけて、俳句の形をとった川柳や和歌の形をとった狂歌が世相や風俗を風刺し、政治を批判しました。狂歌の代表者が「太田南畝(蜀山人)・石川雅望(宿屋飯盛やどやのめしもり)」(230頁)でした。


今回はここまでです。

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