『コミック百合姫』2022年12月号にエッセイを寄稿させていただいておりました
もう廃盤になった香水、ヴィヴィアン・ウエストウッドの「ブドワール」にちなんで、なんと言いますか、「自分で自分の加害的欲望を許せないままそれでも欲望し続けてしまう自分を憎み嫌うことで"あの子"を傷つけないように独りでいる感じ」について書きました。
一部を引用します。
お知らせするまでに1年半も経ってしまいました。
わたしにはなんというか、「わたしのような汚らわしい人間が女子更衣室や女湯に入ることをゆるされてよいはずがない」という感覚がずっとずっとずっとあります。
だからバイトしてた時はバイト先にあらかじめ制服を着た状態で出勤してそれを上着で隠し、自分のような存在が女子更衣室に入らないで済むように気をつけていました。
女湯に入る時も、メガネをおでこの上に上げ、「わたしはいまメガネをかけていないので何も見えていませんよ」というアピールをした上で目を閉じないと、自分で自分をゆるせませんでした。
それはあくまで、「わたしがわたしをゆるせない」ということです。
こんなにも醜くて汚らしいわたしがあの子に触れたなら、あの子のことまで汚してしまうんだ、という感覚がずっとある。そのようにしてまで存在をゆるされていいはずがない、と思うのに、みにくいよだかは目を閉じて口を開け、飛び込んでくる虫を食べてしまわずには空に届くことができないんだよね。
そして、醜いというのは、見た目のことではないんだよね。
綺麗事に聞こえるだろうけどさ。
見た目にもつながるのだろうとは思うが、なんて言うかもっと、こう、心根みたいなもの。
「心の整形手術したいな」って、アーバンギャルドが歌い踊っているけど、ほんと、それ。それオブそれ。
ブドワールっていうのは、それが売られていた平成の頃、わりと、いわゆるバンギャ、ヴィジュアル系ライブハウスにたむろする女の子たちが使っていた香水だったと記憶しています。その当時のヴィジュアル系ライブハウスはまだ禁煙じゃなくて、ブドワールとブラックストーンが混じり合ったような甘ったるい匂いだった。
ヴィジュアル系バンドマン、いわゆる「麺」のプロフィールも、平成の頃はつらつらと長かったよね。おそらく「100の質問」とか「前略プロフィール」の文化からきていたんだろうけど。大体、メンバーの香水とタバコの銘柄が書いてあった。ヴァージニアスリムとかの、いわゆる「女タバコ」を堂々と吸って、女物の香水をつけて化粧をするんだけど別に女形じゃないっていう感じが「池」(=イケ=かっこいい)みたいな風潮もあったし、「女タバコの麺は無理」みたいなことを言う子もいた。
そんな平成はもう過ぎて、いまや、令和。ジェンダーレスでダイバーシティ、ライブハウスは禁煙、吸うにしても加熱式。ブドワールはもう廃盤になり、ヴィヴィアン・ウエストウッドは楽しそうに両手でダブル中指を立ててべえっと舌を出している写真をトップにした追悼記事で見送られていった。それでも、女の子が——ヴィヴィアン・ウエストウッドをヴィヴィアン・ウエストウッドというおばあちゃんじゃなくてブランド名だと思っているであろう女の子がヴィヴィアンのオーブネックレスのパチモンを首からさげてグル〜ミ〜ではなく病みくまのパーカーで新宿HOLIDAY近くを歩いているのとすれ違う時、わたしは、なんだか、
あれはあたしが処女懐胎で産んだ娘よ、
って、空想したくなってしまう。
百合の花って、しつこいですよね。花粉、洗っても取れないし、匂いの主張もめちゃくちゃ強いし。綺麗な切花にされたとして、地中には、鱗片でできた球根の内側にじっとりと自分の芯を守っている奴らだし。
そういう、かたくなさ、しめりけ、怨念めいた生命の暗部、そうした部分がわたしの好きな百合なんです。花を見て綺麗だねって言いながら、わたしは密かに、湿った地中の、鱗の塊を想像する。花を見て綺麗だねって言ってろよ、と、思う。わたしたちの百合園は、純潔を保つために排他的で、それがゆえに、いちばんきたないものを芯に隠したわたし自身が中に混ざっていることを、わたし自身がゆるせないんです。
こういう文章を書いていたら手の甲がかぶれてきた。
「ブドワール」という言葉が、どういう意味なのか。
あなたが根っこで鱗に隠して守るものがなんなのかを知らないまま、わたしはこれを書きましたよ、というお話を、させていただきました。お知らせするのに一年半かかってしまいましたが、よかったら、電子版などもありますし、読んでください。