日本男装史をたどる旅 - 直江津・糸魚川編
※注意……こちらの文章では、明治時代の女性同士の心中事件について言及しています。現在、性にまつわることで生命に関わるほど悩んでいらっしゃる方、こうした話題に敏感になっていらっしゃる方は、いまはどうぞ閲覧を控え、まずは栄養摂取や休養で生命を大切になさっていただきたいとわたしは思います。誰かと話したいけれど身の回りの人じゃこわいなという方は、「(ご自身のお住まいの自治体の名前)+公的相談機関」で検索するか、心療内科などの専門医療機関にご相談なさることをお勧めします。わたしはそれで生きてこれを書いています。
では本文、男装の歴史をたどる旅の話です。
“「新潟では男の子と杉の木は育たない」ということわざがある。江戸時代から新潟では女がよく働き、男は目立たないと言われた。ぼて振りや馬子、土運びなど力仕事をいとわない女たちに、旅人は驚いた。また、遊女として売春をしなければならない女が多くいた。湊町新潟にとって彼女たちの働きは重要であった。”
-新潟市歴史博物館みなとぴあ 展示説明文より
「男女平等っていうのはね、男がやってあげている重労働を女もやるっていうことなんですよ。それでいいんですか!」みたいな声が、今も聞かれる。
それがいい、って声が聞こえる。確か、明治時代の雑誌『青鞜』に書かれたことだったと思う。男の人の手に持たされている重たい荷物を、男も女も分け隔てなく持つことができたなら、人類は……性別関係なく、わたしたち人類は、腹を満たす糧を稼ぐ仕事に潰されず、心を満たす文化を育む余裕を持つことができるのではないか。そんなようなことが、明治時代から言われてきたはずだ。いま旅の途中で、手元に本がなく、きちんと出典を確かめられないのがお恥ずかしいけれど、それを読んだときの感動は確かだ。
このところ、秋刊行予定の書籍『日本男装史(仮題)』のための調査研究に取り組んでいる。戦乱や革命のさなか身を守るための、護身男装。医術・学術・飛行機操縦など、「女にはできない」と考えられていたことを諦めないための、開拓男装。日本列島の人々は、様々な理由で男装してきた。いわゆる「男装の麗人」のような、華やかにスポットライトを浴びてきた人々だけではない。蕎麦屋、魚屋、青物商、バス運転手、通訳者……落ちては昇る太陽のもと、くるくる続く日常を、小粋に羽織ひっかけて、男装者たちは働いてきた。
そんな話を、本ではするが……
それができなかった人、それをしなかった人の話も、本の外では書いておきたい。きちんとここで書いておきたい。たとえば通訳者として働くために男装した人がいたということは、裏を返せば、女の姿では通訳者として働けなかった人がいたということだから。
特に明治・大正・昭和初期には、はっきり言えば、男との結婚を拒んだがゆえに死んだ女たちがいた。女は稼げなかった。女中や工女として、悪条件の低賃金で使い潰された。男装の少女歌劇スタアたちは、「どうせ嫁入り前のお嬢さんのお遊戯なんだから」と、わずかな出演料で買い叩かれた。スタアを見上げる女学生たちも、少女歌劇の愛の夢が幕を閉じたなら、憧れのお姉さまへの想いを少女時代に残し、親が決めた相手に嫁いでいかなければならなかった。女同士で愛し合い暮らしを立てようとしても、二人が一生食べていけるだけのお金を稼ぐことはたいへん難しかった。女には……“女扱い”される人間には、たいへん難しかった。
たった五行。
たった五行くらいの短い新聞記事に残る、彼女たちの死。メリンス工女が、お抱え女中が、遊郭から逃げ出した村娘たちが、女と女で愛し合い、手を取り合って死んでいった。日本男装史をたどるため、各地の図書館に残る地方新聞の縮刷版を一枚一枚読んでいく過程で、わたしは、たった五行の死に何度となく直面した。資料をコピーして「男装史」ファイルを作っていくかたわら、自然と、「女同士の情死」ファイルもできていった。
重たいファイルになった。
本当は、「糸魚川心中事件」についてだけ調べるつもりだったのに。前の記事「日本男装史をたどる旅 - 柳都越後編」にも書いた、明治44年、新潟県糸魚川市での女性同士の心中事件。
女学校時代から交際してきた女性二人が、男性との結婚を強いられたがために、東京から家出し、新潟まで逃げて、何日か生きる道を模索したけれども結局は海に身を沈めてしまった、という話だ。
新潟で調べた結果、二人が飯田橋→直江津→糸魚川のルートを辿ったようだということがわかった。それから……糸魚川心中事件が大きく報じられたのは、彼女たちの父親が社会的地位の高い人物だったからだということ、同時期にはたった五行の記事で片付けられる貧しい女たちの心中がたくさんあったのだということもわかった。
悔しかった。
女の地位を、父親の地位ではかるな。
人間の生命を、父親の地位ではかるな。
重たくなったファイルを抱え、糸魚川行きの電車に乗った。「たった五行」の積み重なった重みを抱きしめて、夫を求めず子供も産まない女であるわたしは、ことばの届かない赤ちゃんに気持ちを伝えるときみたいに念じた。
「あなたたちのこと絶対語り継ぐから。いま、2020年だよ。あなたたちが死んでから100年以上経っちゃった。でも、あなたたちが生きてた時に願ったことはね、少しずつ叶えられてるんだよ。医師になった女性も、大工になった女性もいる。親が決めた人じゃない、自由恋愛で結婚する人がほとんど。異性愛じゃなくてもね。わたしは『百合のリアル』という本で女性同士が愛し合うことについて書いて文筆家になったんだよ。でもね、この島ではまだ性のことで人が死ぬんだ。もういやだよ。悔しすぎるよ。性のあり方が普通じゃないからっていじめられて死ぬ子を見たり、女の子二人が一緒に死んだ事件のニュースをいまだに見たりするの、もういやだよ。悔しすぎるんだよ。わたしたち怒ろうよ。泣いて死なずに生命を燃やそう。未来のわたしたちは必ずあなたたちの願いをかなえるから。受け継ぐから。異性と結婚して子供を産むことこそが幸せだ、お姫様は王子様と結婚してハッピーエンドだ、って物語を、生きたい人はいいけど、そこに当てはめられたくない人だっているじゃない。ね。こないだ書いた本ね、『ハッピーエンドに殺されない』って題をつけたんだ」
直江津駅には、海辺にたたずむ少女像があった。
少し離れて、ひとりと、ひとり。
「ここで一番古い旅館を教えてください」
歴史を巡る旅をする時、わたしはネット予約じゃなくて、地元の観光協会に電話してそう聞くことにしている。ご案内いただいた旅館に泊まり、風の音を聴いていた。
ものすごい風だった。「千の風になって」の歌を思い出した。糸魚川心中の二人が宿泊した旅館は、もう現存しないみたいだった。「直江津には、たとえば立派な漆塗りの内装の素敵な旅館がたくさんあったんですけどね、もう、それを維持しようと思っても、漆塗りの内装職人さんも少なくなってしまってね」。そんな話を聞いた。明治から100年以上経っている。
2019年10月。大型の台風が近づいているところだった。
1911年8月。彼女たちが死んだ年も列島は台風に見舞われていた。
糸魚川に向かう旅路で地元の方が教えてくださった。
「この街の海はねえ、浪曲の海ですよ。東映のロゴだとか、演歌のミュージックビデオだとか、そういうのの背景になっている、あの、ドッパーン、っていう海ですよ。私なんか、ここに住んでますけどね、海、見に行こうと思わないですよ。波の音で眠れない夜もある」
海沿いを走る電車は風で止まり、鉄道会社の方々はバスを用意してくださった。自然現象で事故防止のために電車を止めたんだから、本来、バスまで用意する責任は鉄道会社にないのではと思うけれども、お客さんを送り届けるというプロ意識のために、こういう時はバスを出すらしい。
風が止むのを少し待ち、わたしは、糸魚川の海に向かった。
「親不知(おやしらず)」
その海は、そう呼ばれている。
“親知らず 子はこの浦の 波枕 越後の磯の あわと消え行く”
源平の世、越後に移った平敦盛に会いにいく妻が、赤ん坊を波にさらわれ、その悲しみを詠んだものです。これが親不知の地名の由来といわれています。
-糸魚川観光案内板より
調べたところによると、糸魚川心中で亡くなった娘さんの母親は、結婚を強いられた娘に同情的で、「気晴らしに旅でもしてきたら」なんて言っていたらしい。娘は旅に出て、そして帰らなかった。子を失った親の悲しみが詠まれた親不知の海から帰らなかった。母親は、どんなに自分を責めたことだろう。せめて、源平の世に詠まれたこの歌が、明治の世に生きた彼女にも届いていたらと思った。“親知らず 子はこの浦の 波枕”……。
親不知の波は荒れ狂っていた。大火や自然災害から立ち直るべく、糸魚川駅には、「がんばろう糸魚川」と大きく張り出されていた。
とほうもない力に何度も何度も何度も何度も打ち倒され、しかし、それでも立ち上がってきた。それが、人間の歴史だ。
糸魚川駅で、「九郎右エ門」というお店のおいしい笹寿司と、「マルエス醤油味噌醸造店」というお店のおいしい煎り豆を買った。
本当においしかった。
現在は2020年2月、わたしはニュージーランドに来ている。笹寿司はさすがに持ってこられないけれど、煎り豆を現地の人に「クリスピービーンズですよ」と言ってあげた。「えっ何これ」って言っていた地元のゴーイングマイウエイジジイが、「ハァッたまんねえな!」と言ってボリボリ食べていた。テレビではAu Goodとかいうリアリティ番組がやっていて、男女カップルに混じり、女同士のカップルの大ゲンカが放映されていた。「俺はこのクリスピービーンズをオンラインでオーダーできるのか?」。わたしは答えた。
「できないと思います。でも、また持ってきますよ。糸魚川から」
食べて、生きよう。生きていこうと思う。だって、殺されてたまるかと思うじゃん。消させてたまるかと思うじゃん。彼女たちのことを。
旅は続く。“女扱いされてナメられてたまるかよ”と、髪を刈り、勇しく男装で生きた人々の足跡を追って。
わたしは糸魚川から直江津へ戻る電車に乗った。糸魚川心中の二人はどうも、一度は戻る電車に乗ろうとしていたらしい。でも、乗らなかったのだ。彼女たちは、戻らなかったのだ……戻れなかったのだ。戻ったら別れさせられて、結婚させられてしまうから。押し付けられるハッピーエンドに殺されてしまうから。
糸魚川から直江津行きの、戻りの切符。生きる方角に向かう切符。わたしは、彼女たちが乗れなかった電車の切符を、窓辺に置いて、写真を撮った。スマホに保存して、おごそかなお守りにしようと思った。それをインターネットに載せて、進んでいこうとするあなたと共有しようと思った。
これを、わたしたちの生きるお守りにしよう。わたしたち、進んで行こう。
(つづく)
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