短編【ホテルのある風景 vol.3】 鎌倉わかみや(神奈川県鎌倉市)
「俺だけの夏の思い出」
オーシャンビューの温泉宿 「鎌倉わかみや」(神奈川県鎌倉市)
主人公は、40代のサラリーマン。実在するホテルを舞台にした、ビジネスショートストーリーです。
産業機器メーカーの営業マンであり、4人家族のパパでもある倉田恵司。第3話は、神奈川県の鎌倉を訪れます。
*************************
江ノ電の由比ヶ浜駅から、朝来た道を戻る。
鎌倉在住の会社員に見えているだろうか。夏休みに入ったばかりの子供たちを連れて訪れたのは「鎌倉わかみや」。
海岸まで徒歩2分の絶好のロケーションに、全室オーシャンビューの部屋、「熱海の湯」なる温泉もあるリゾートホテルだ。広いキッズルームに前庭のうさぎやりすのイルミネーションは、子供歓迎の表れだろう。妻の明美が見つけてきた宿だが、くつろげる雰囲気が好ましい。
皆んなは夏休みだが、平日につき俺は仕事。昨日は接待で断念したが、今日は会席料理にありつこうとギリギリで戻った。明美の妹家族が山形から合流し、風呂上がり後食事を終えた小学生2名は畳の部屋で大はしゃぎしている。
むしろひとりの食事は静かで好都合だ。
軽くビールを空け、日本酒を頼むと、お勧めは森嶋の純米大吟醸とのこと。口に含むと、爽やかで美味い。急にテンションが上がり、目の前の季節の料理たちはちょっと輝きを増した。よし、今日は俺のための夜だ。
次々と来る料理に舌鼓を打つ。刺身に鱧寿司、鮎の塩焼き。いい店での食事はたいていが接待、会話の内容に気を取られ、味わいに集中することなど滅多にない。デザートのメロンまで、ゆっくりと味わった。
夜はドイツの客先と電話会議がある。消灯した部屋の広縁に出て、障子を閉めた。ミーティングはほぼ技術的な内容で、営業の俺は退屈を悟られぬよう、真面目な顔を作る。
1時間ほどで終わり、内輪だけの雑談になると、駐在の佐久間さんが「明日から夏休み、クルーズに行くんでよろしく」と言う。羨まし過ぎて「俺は今鎌倉のホテルで家族サービスです」と多少自慢げに対抗してみた。隠れるように広縁でひとり息を潜めている事実はさておき、嘘ではない。
Zoom終了後、ふとカーテンを開けて、ハッとする。
見事な月夜が広がっていた。暗い、凪いだ海を、明るい月の光が照らす。薄墨の空に黒い雲が流れていき、白い月に照らされたさざ波が揺れる。イルミネーションのうさぎちゃんは、眼下でまだピカピカと光っている。
美しい月夜。俺だけの、夏の夜の思い出だ。
*************************
ご参考までに、写真を添付します。全室オーシャンビュー、3階のお部屋からの眺めは見ていて飽きませんでした。お料理は器もお味も素晴らしくて、テンション上がりました。