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クジャクチョウを見たこと 

 夏休みを、父の実家である古民家で過ごしていた時のことだ。
「お父さん、お宮に変な蝶がいた」
と、小学生だった私は言った。
「どんな蝶だ?」
父は古民家の中にいて、何かの作業をしている最中だった。
「タテハチョウみたいな形の羽で、外側は黒いの。羽を広げると赤いんだけど左右で色が違って、眼玉模様が全部の羽のすみにあって…」
父は色めきだった。
「クジャクチョウだな。左右の色が違う?」
「うん」
「どこにいたって?」
「お宮」
「いつ?」
「さっき」
お宮とは、北東の畑の外れにある神社のことである。歩いて五分もかからない場所だ。
父は慌しく土間に降り、捕虫網をとりあげた。畑の中を走って行く父の姿が、開け放された台所の掃き出し窓から見えた。

「いなかった」
しばらくして戻ってきた父は、私を叱った。
「どうして、すぐに走って帰ってきて知らせなかったんだ?」
「‥‥ごめんなさい」
謝るしかなかった。
あまり見かけない蝶が飛んでいたら、羽がこわれていないかをチェックし、父の鑑識眼にかないそうなら、すぐに知らせるようにしていたのに。
すごく珍しいということは理解していたのに、しかも、どこも壊れていない綺麗な蝶だったのに。
なぜ、すぐに知らせなかったんだろう?
自分でもわからなかった。

夕食の時に、父は話を蒸し返した。
「左右の色が違ったって?」
「‥‥うん。びっくりした。見かけない黒い蝶がいるなと思って近づいたら、羽を広げて‥」
想像もしなかった激しい色彩と四つの目に、私は度肝を抜かれた。しかも、左右の色が違うなんて、この世のものとも思えなかった。
「光線の加減で、色が違って見えたんだろう、きっと」
そんなことはないと思ったが、口にはしなかった。
「こすれて、鱗粉が落ちていたのかもしれないな」
そんなことも絶対になかった。鱗粉は綺麗にそろっていた。

幼い頃から山の中を連れ歩かれて、三角紙の折り方から、羽を傷めない持ち方や気絶のさせ方、食草などなどを教えこまれていた。ついでに、毒草薬草の類も教え込まれた。そう、「蝶よ花よ」と育てられた(?)のだ。
おかげで、小学生時代は悲哀にさらされた。「あ、モンシロチョウだ」という同級生に「あれは、モンキチョウのメスよ」と言っても理解されない。私が「スジグロシロチョウがいる」と言うと、「スジグロチョウだろ?」と叩かれる。「蛾だ〜」と逃げる相手に「あれは、イチモンジセセリだよ。チョウだよ」と言っては微妙な顔をされ、教室内に入り込んだチョウを素早く素手で捕まえて外に出してやると、女子はもとより男子にも引かれ‥‥。
その私が、小学校の高学年にもなって、そんなものを見間違えるわけがなかった。

       ○

中学生になってすぐに、国語の教科書でヘルマン•ヘッセの『少年の日の思い出』を読んだ。見ているものの異様さに支配されて、ふだんなら取らない行動をとってしまうという体験を、私はクジャクチョウで済ませていた。

『少年の日の思い出』の主人公を「初めての盗み」へ導いてしまう蛾には、大きな眼状紋があった。クジャクチョウにも目立つ眼状紋がある。
眼状紋は不思議だ。単なる模様だと知っていても、あれに見つめられた私は、すぐにそれを父に報告に行くことができなかった。家に戻ってからもしばらく黙っていた。
「お宮に変な蝶がいた」と父に言えるようになるまで、私の意識はあの眼状紋の支配下にあったような気がする。

一方で、私はエーミールの立場も理解できた。夏休みの自由研究と称して小学校の廊下などに飾られている野蛮な標本に、私は充分に辟易していた。
しかし、エーミールには主人公の少年のやむに止まれぬ事情を理解することは決してできないだろうとも思った。

「珍しい蝶を見かけたら、すぐに知らせろ」と、私は父に言われていた。あの左右で色の異なるクジャクチョウを見た時、珍しすぎて、不思議すぎて、私には知らせることができなかった。
それを説明する言葉を当時の私は持たなかったし、説明したとしても、父には理解されなかっだろう。

       ○

私は蝶の中では、コミスジがいちばん好きだ。サイズもデザインも良いが、何と言っても飛び方が可愛い。パタパタ、スイー、パタパタ、スイーを繰り返すような飛び方だ。見ているだけで楽しくなる。
ケヤキの屋敷林のほとりを、よくコミスジが飛んでいた。
その、屋敷林も、今は無い。

後年、蝶の雌雄体というものがこの世にあることを知った。右半分と左半分とが異なる標本というのも、都立多摩動物公園の昆虫館で見た。

あの時に私が見たクジャクチョウは、いったい何だったのだろう?
あれから50年近くたった今でも、私は時々考える。

(クジャクチョウ)

(クジャクチョウの羽の黒い外側)

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