41 作品が残るかどうかを気にすること
ここ二週間ほど、「ニーア・オートマタ」の実況(牛沢さん)を視聴していた。
昨夜、ラストだった。
このところ、いろいろな意味で徒労感に襲われていたので、心にしみた。
「ああ、こういうものによって、私は何度も救われてきたんだ」と思った。
○
母はマンガやアニメやゲームを「くだらないもの」と決めつけた。これに関する苦労なら山ほど語れる。心理的にも物理的にも、いろいろな手口で攻撃されたよ。
私を何とかこの世につなぎとめているものを否定されることについて、私はせめて日記の中だけでも反論しようとした。
「『時の流れの中で、多くの人に選ばれ守られてきた古典こそ、読むべきもの』と言う人に言いたい。あなたが平安時代に生まれたら、きっと源氏物語を読まずに迫害したことでしょう。
私は源氏物語よりも紅楼夢の方が好きと言えるくらいには古典も読んでいる。たしかに面白いものに出逢う率は高いかもしれない。でもね、私はあらゆる作品を、すべて同列に並べて読んで、味わって、その上で判断しているんだよ。作品の価値は、『時の流れの中で、どれだけ長く生き残ってきたか』ではないの。それは『ベストセラーだから、よい作品だ』と言っているのと同じ主張だよ。単に、時間に軸を置くか、空間に軸を置くかの差だって、どうして気がつかないの?」
こんなふうに。
○
だから、光瀬龍が私に向かって、
「作品が残るかと思うとね。‥‥残らないだろうね」と言った時に、
「残りますよ、絶対に」なんてことを口に出来なかった。
むしろ、私は悲しかった。
私の読書量なんてたいしたことはないかもしれないけれども、割と古今東西まんべんなく読んでいるよ。その上で、あなたの作品が好きだと言っているんだよ。それこそが、時間も空間も超えた価値ではないの? でも、それは、あなたにとっては意味のないことなんだね。まぁ、そうなんだろうね。仕方がないよね。
そう思った。
だから、私は意地悪に笑ってみせた。
「どうして、そんなふうにお思いになるんですか?」
「まぁ、どう足掻いてところで、日本文化は傍流だよね。残るのは、主流か、主流に近い作品だろう」
「はあ」
彼は文化論に話を逸らし、結論のように、また言った。
「‥‥私の作品なんか、残らないだろうね」
私には何も言えなかった。
彼が「傍流」と言って自嘲したものが「日本文化」でないことを、私はよく知っていた。
○
私にそう言った時、光瀬龍は既にガンにおかされていた。
私は、もちろん、そのことを知らなかった。
彼がそのことを気にしたのなら、彼の作品を残らせることについて貢献したいと思う。
いや、それも、頭の表層で考えたことだ。
「この状況だと、いつコロナにかかって死ぬかわからないよなぁ」と思った私がかられた衝動が、「『百億の昼と千億の夜』から『と』を取りたい」だもんね。
○
「残したい」
私も心の深いところで、そう思っているんだろう。
「この作品が、この世から消えてしまうことに耐えられない」
そうなんだね。
ならば、その方向で頑張ってみるしか道はあるまい。