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2年ぶりのスカートを通して性別や器としての身体を意識する日

約2年、気がつけばスカートを履いていない。今いるベルリンという街が洒落っ気がないのも理由かもしれない。

ヒールやドレス、スーツよりもドクターマーチンのブーツやビリビリに破れた黒い服を着ている方がよく馴染むベルリンでは、煌びやかに着飾っている人間は野生のキツネやリスを見かけるよりも珍しい。

私自身、なんでもありなベルリンスタイルに馴染み過ぎてよそ行きを着飾る感覚を忘れつつある。女性である、というよりも私である、という感覚で過ごしているが、どこかで女性的なものを避けているのかもしれない。

そんな感覚を刺激されたのは、先日友人からおさがりのワンピースをもらったことがきっかけだった。

もう着ないからと黒い麻のワンピースをもらった。

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使われてきた麻の生地の手触りは気持ちよく、表面にも個性が出ていて美しい。

しかし自分では選ばないような少しふわりとしたスカートで着こなせるだろうか。さらにサイズ感も日本サイズM~Lの私に着れるだろうか。

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翌日早速腕を通してみると若干の肩まわりのパツパツ感はあるものの着ることができた、ヨーロッパのXSは日本のMくらいなのか。

少し強そうな肩周りが気になりつつも、何よりも違和感があるのはやはり久しぶりのスカート、晒された脚は思うままに毛が伸び、荷物運びで常に付く青あざだらけ。

スカートの裾から伸びる脚にしてはあまりにもワイルド過ぎて対比に目がチカチカする。股のスースーする違和感も相まって「男の人が女装する時ってこんな気分かな」と考える。

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とはいえ女である私がスカートを履く行為は女装でなくただの装い。黒いタイツを履いて足を覆いベストを尽くす。

最近は女性らしさからだいぶ遠い場所にいる自分は、スカートを履いたところで違和感しかないんじゃなかろうか、そう思いつつ鏡の前に立つ。

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なんてことは無い、ただの女性がそこにいた。いくら自分では違和感を持っていたとしても、女性である体に女性のワンピースを纏う行為はなんの違和感もなかった。

もっと言えば、身体とは自分の意識の外側にあるものなので、その身体を意識的に好きな服で装飾することもできるが、好きでないものを装飾したとしても身体からしたら何の問題もないのだ。似合うとか似合わないとかの基準は、社会や自分の中、あちこちに様々な基準があり過ぎてもはや無いに等しい。もう何でもあり、好きでも嫌いでも何でも着ていい。

何でもいいからこそ人はそこに個性やこだわりを持ち、服や見た目を通して自己(意識)を表現させるのではないか。

自分だと思い込んでいる物は、服という装飾を纏うただの器でしか無い。

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スカートを纏った器の私はそのまま出かけることにした。

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スカートを纏った器が自転車をこぐ。

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スカートを纏った器が近所のカフェに立ち寄る。

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スカートを纏った器が美味しいカプチーノに感動する。

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スカート纏った器が通りかかったセレクトショップに足を止める。

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スカートを纏った器が素敵なマスクチェーンを見つけ思い切って購入する。

1日を通して私はスカートを纏ったただの器だった。しかし分かったことは服とはただの装飾だけでなく、服を通して気分が上がったりする、服側から意識側へもアプローチをしてくるものである。1日中新鮮な気持ちだったし、スカートってひらひらして綺麗だな、と楽しめた。

誰でも何でも着ていい、器人生を楽しんでいこうと思う。