一人旅体験エッセイ ドイツ ドクメンタ15〜作品鑑賞 カッセル駅と木更津駅編〜
午後一時半、暑くてジャケットを脱ぎ腰に巻いた。
ここからは完全にアート体験だ、感じて感じて感じまくるのだ。
カッセル中央駅は小さいながらも天井が高く骨組みの間から日が差して明るかった。
ドクメンタ15のポスターが垂れ、ついにカッセルに着いた!とワクワクする。
日曜のわりに人は思ったよりも少ない。
ドクメンタ15について
もともと現代美術に疎かった私だが、ドイツに来る前には友人の誘いで
瀬戸内、新潟、名古屋の芸術祭に足を運んだ事があった。
現代美術の知識なく訪れても、圧倒的な視覚的作品や地域とのつながりの作品が思い出に残っている。
ドクメンタという芸術祭の存在を知ったのは2年ほど前のことだった、
ロイス・ワインバーガーというアーティストが好きになり、彼がよく参加していた芸術祭として認識していた。
植物や自然と、文明や政治を扱った作品が多いという印象だ。
ちょうど一年前の2021年秋にロイスの生前最後の展示を見にウィーンに訪れたのが懐かしい。
日曜と月曜の2日間、ベルリンから鈍行で7時間半かけて訪れたドクメンタ、エンターテイメント的に体感でどこまで楽しめるのかというのも一つの試みだが、
ロイスの作品からも分かるように、視覚だけでなく
どんなアーティストがどんな意味合いを込めて作ったのか、そういった文脈も同時に知ることも作品の持つ魅力を膨らませる。
体と頭、どちらも上手く使っていきたい。
今回ドクメンタの構成を司るキュレーターは、インドネシアのグループRuangrupa(ルアンルパ)で、西洋の流れが主流だったドクメンタのキュレーターをアジア人グループが務めるという点でも注目を浴びている。
テーマとして掲げているLumbung(ルンブン)という言葉はインドネシア語で共同の米の納屋を意味するらしい。
収穫した恵みを共有し循環させる、
ちなみに江戸時代の日本にも同じように共同の米倉「郷倉(ごうぐら)」が存在したようだ、年貢米の一時保管場所として使われていたが、中期以降は凶作に備えて備蓄を補完し、非常用に当てたらしい。
ルンブンを通して自国日本の歴史を一つ知る事ができた。
これも共有から生まれる新しい知識なのかもしれない。
ジミー ダーハムと森の中の道端の棒
早速駅構内の建物内に作品ブースがあった。
入り口ではドクメンタの鑑賞チケットをチェックするスタッフがいて、日本で訪れた瀬戸内国際芸術祭や越後妻有の大地の芸術祭を思い出す。
早速その場で2日分のオンラインチケット(45€)を購入し、メールで届いたバーコードリーダーを提示し最初の鑑賞に足を踏み入れる。
中に入ると、自然史博物館のような雰囲気。
亀の頭蓋骨、ガラスのうねった物体、木の根のような形をした彫刻。
暗幕の向こうで映像作品が流れている、
クッションに座って見てみると、枯れた植物で覆われた空間に光が差し、ひたすら乾いた植物が映し出される作品だった、
水の流れのような心地い音が流れている。
アーティストにつての説明を読んでみる、
アーティスト名は
「Jimmie Durham & A Stick in the Forest by the Side of the Road」
「ジミー ダーハムと森の中の道端の棒」
道端の棒、しかも森の中の。
どういうことだろう。
説明文が書いてあるオンラインサイトにQRコードで読み込めるようになっており、翻訳の力も借りながら調べてみる。
ジミー ダーハムはアメリカ出身の彫刻家、エッセイスト、詩人
先住民族運動や、歴史や環境、建造物、政敵構造など社会と自然を介しているアーティストのようだった、
昨年2021年11月に亡くなったため、彼と組んでいたアートチームがそれぞれ作品を展示に繋げたらしい。
彼が死の前夜に残した言葉
„Was für eine wunderbare Welt – ein Stock im Wald“.
「なんて素晴らしい世界だろう、森の中の棒だ」
の言葉から今回のコレクティブ名は付けられたらしい。
こういう発言を死に際にできるような人間の、頭の中を垣間見れるのが作品の面白いところだと思う。
しかもドイツ語でWelt-ヴェルト(世界)とWald-ヴァルド(森)で韻を甘く踏んでるのも渋い。
気になった映像作品はイタリアにある放置された植物栽培用の温室だった。
15世紀からヨーロッパで大量に作られたグリーンハウス、次第に放置されるようになり、様々な生態変化を得て枯渇し植物の記念碑のように残されているものを映像として儚くも美しく残していた。
ジミーは日本でも横浜ビエンナーレや越後妻有の大地の芸術にも参加しており、驚きなことに私の地元からほど近い東京の立川駅すぐ近く、ファーレ立川にも空間作品を残しているらしい。
遠く離れたドイツ、カッセルと東京の地元が一瞬で繋がった気がした。
カッセル中央駅と木更津駅
出だしから時間を忘れて見入っていたが先はまだ長い。
ドクメンタ15の案内地図をもらって足早に駅を出る。
小さい街のあちこちに作品が散らばっている、
その土地を歩き回れるのもビエンナーレのいいところ。
瀬戸内の芸術祭は船と原付で、越後妻有は車で移動した記憶があるが、カッセルは歩きかバスで回れる距離だ。
振り返ってカッセル中央駅を見る。
素朴な建物、
なぜか急に10年以上前に一度だけ訪れた木更津駅を思い出した。
似てると言えば似てるかもなあ、
青春時代にドラマ木更津キャッツアイを見過ぎた影響かもしれない、
予期せずともまたドイツ、カッセルと日本の木更津が繋がってしまった。
街はなだらかな斜面になっていて、街の向こうに遠く広がる森が見える。
WH22 ワイン会社の跡地
駅から5分くらい歩いたところにいくつか作品が固まっているWH22というエリアがあるようだ、信号を渡り坂を少し下ると黄色い目印の看板が道の端に建てられていた。
一見ナイトクラブやらライブのチラシが貼られた暗いアーチの入り口、その奥にどうやら複合的に建物や庭の空間が広がっている様子。
中に進むと味のある背の低い煉瓦造りの建物が並び、ビアガーデンや庭が続いていた。
どうやらこのWH22という施設は、19世紀にワイン会社によって作られた建物らしく、時は経ち普段はナイトクラブとして使われているらしい。
ドクメンタの期間は、展示やレジデンシー、ビアガーデンとして利用されている。
建物への入り口が5カ所ほどあり、その全てにチケット確認のスタッフが待機していて本を読んだり、談笑したり、お昼を食べたりしている。
さて、どこから入ろうか、
なんだかゲームボーイのポケモンを思い出した。
相手の目の前に行き、話しかけられバトルをして勝ったら先に進める。
私はポケモントレーナーでは無いのでバーコードを提示するだけで先に進めた。
煉瓦の建物内はひんやりしていて、かつてはワインの貯蔵庫に使っていたのかもしれない。
地下に続く階段を降りる。
地下のスペースは暗く入り組んでいて、暗い空間の中に思い出したように作品が現れる。
本当にゲームのダンジョンのようだった、
7歳の頃ゲームボーイで遊んだポケモンレッドの洞窟の場面は、ゴースト系のポケモンが出るのが怖くて姉の友達に勧めてもらっていたっけ。
2個上の姉は怖がりだった私をよくからかって遊んでいた。
おかげで怖いものへの恐怖心はいつの間にか箱の中に押し込めて鍵をかけてしまったが、恐怖心とは子供が生み出すイマジネーションなのかもな、とも最近思う。
暗くてひんやりする煉瓦造りの地下、1人で知らない場所を歩いているにもかかわらず、楽しんでいる自分がいた。
どこに繋がっているのかも分からないが、道がある限りはどこかに出れるだろう。
真っ暗な大きい部屋で映像作品が流れている、男女が水に浮かぶ映像。
床に寝転んで見ている人を踏みつけないよう目を凝らして進み、階段を登る。
薄暗い倉庫から地上の外に出ると日差しが目に飛び込みピカピカした。
中庭スペースを奥に進むと本格的な庭が見えてきて、どうやらこれも作品のようだ。
移民の庭 ヘチマとオオイヌノフグリ
力強く伸びる植物たち、多様な植物が育てられているようで庭をぐるっと歩いてみる。
なんだか地元の山奥の親戚の家に遊びに来たような気分になった、うるさい蝉の声まで空耳で聞こえてきそうだ。
ここで育てられているのはアジア圏の植物だろう、普段ヨーロッパで見かけるものとは明らかに雰囲気が違うことがわかった。
背高く伸びたとうもろしの葉の向こうには長く伸びた蔦と大きく垂れ下がるヘチマがあった。
ヘチマ、久しぶりに見たなあ。
普段何気なく目に映る街中の木々の葉や雑草は国や街によって特徴が異なる。
植物は土地に根付いている、
そんな当たり前のことも住み慣れてしまうとあまり意識することがなくなるものである。
こうして久しぶりにアジア圏の植物を目にしたら、新鮮さと共に懐かしさが襲ってきた、
私の感覚がベルリンの植物に馴染んできているということだろう。
思い返せばベルリンに来た当初はあちこちに生える大ぶりな葉っぱや秋に落ちる黄色い葉っぱ、夏の終わり頃どこでも見かける黄色い花が新鮮に目に映っていたなぁ。
植物だけでなく目に映る街の風景も風土につながっている、かつてドイツ式の建築に見とれていた私も、今では日本の古民家を見たら悲鳴をあげるほど興奮するだろう。
この庭の作品はニャンサンコレクティブというベトナムのハノイで集まったアートグループによるものだった。
タイトルはVietnamese immigration garden( ベトナム移民庭)
ドイツ、特にベルリンではベトナム系の移民が多く根付いている、
私が仕事で関わっているレストランのオーナーもベトナム人が大半だ。
彼らがドイツで子供を産んで、その子供がドイツで育ち大人になる。
ベトナム人と関わっていると、たくましいな、と思わされることが多々ある。
この庭の植物もベトナムのものだろう、あの蒸し暑い国の植物が、この乾いた土地でよくここまで育ったなと感心してしまう。
手入れもしただろうが場所は違えどたくましく育つものなんだな、植物もこの土地の気候に合わせて少し変化しながら生き延びようとしているのかもしれない。
気候が目まぐるしく変わっていく昨今、同じ土地に昔から根付いている植物も変化に晒され、外来種が根付き、植物にとっても安住の地はもはやないのかもしれない。
移民とは、原住民とは、
私の好きな花の名前ナンバーワンである「オオイヌノフグリ」も外来種だと知って驚いた記憶がある、あちこちにあの青い花が咲いているのが当たり前だったから。
外来種であろうが私の好きな花の一つには変わりがなかった。
今は日本全土に帰化しているらしい、外来種の帰化。
時代の変化の中を生きる私たちも植物と一緒。
この庭のように力強く、オオイヌノフグリのように美しく(そしてどこか滑稽な響きを含ませつつ)生きたいものだ。
ビアガーデンスペースで寛いでる人たちが目に入ったが今日はまだ夜まで歩き回る予定なので足早に目の前を通り過ぎ来た道へ戻る。
密かな趣味 ガチャシリーズと遭遇
もと来た通りに出ると壁に大量のガチャマシーンが並んでいることに気がついた。
ドイツの街中に潜む昔ながらのレトロ感溢れるガチャガチャ、
通称Kaugummiautomat、(カウグミオートマット・ガム自販機)
中身はガム、子供向けのおもちゃが入っている事が多く50円前後で楽しめる。
いつか記録をまとめるために密かにベルリンの街でも見かけたら写真に撮って集めているお気に入りの光景だ。
ベルリンのガチャの大半は落書きやシール、タバコで焼かれた跡があるが、カッセルの街のガチャは綺麗だった。
意図しないところで街の治安指標が浮き彫りになる。
しかも建物の外装の一環として派手なピンク色に塗られている、
かわいい。
こんなに一堂にガチャが会しているのも珍しい。
興奮してガチャの写真を撮っていたら、横に停められたチャリをまたごうとしていたおじさんが不思議そうに私を見て、
「それ、作品じゃないよ?」と話しかけてきた。
芸術祭に訪れた観光客が何気ないものを作品と間違えることはよくあることだろう、しかしガチャに関しては私もよくわかっている。
「うん、ドイツのガチャが好きで写真集めてんだよね、
ベルリンでよく見かけるんだけど、カッセルの街にもあるんだね」
「へ〜、カッセルの街にも割とあちこちにあるよ、探してみるといいよ
じゃあ、いい1日を」
「ありがと、いい一日を〜」
おじさんはヘルメットの顎部分をカチッと締めて、下り坂を緩やかに漕いで行った。
小さな中心地と101匹わんちゃんのチョコチップクッキー
そのまま同じ方向に道を下ると街の中心に続く、
途中博物館などサクッと寄って地図を頼りに進むと、次第にカフェや店が増え道幅が広がる。
街の中心地らしき道に出た、建物や看板にもドクメンタ15の装飾が溢れる。
ドクメンタ柄にラッピングされたトラムが道を走る、
このトラムもドイツ共有チケットで乗れるが、中心地は歩いて移動できるくらい小さかった。
芸術祭のメインの案内所のような建物を覗いてみると、トークイベントスペースがあり本屋にはグッズやアーティストの出版物が置かれていた。
ここは明日帰る前に寄ろう、気に入ったアーティストがいたら本を買おう。
ディズニーランドではお土産のクッキーを先に買って、ボリボリ食べながら園内を回るのがルーティーンの私も、今回は流石に作品を見てからお土産を買うことにした。
ちなみにディズニーランドでは必ず101匹わんちゃんのチョコチップクッキーを買うと幼少期から決めている。
丸くてプチっと弾けるチョコチップがサイコーに美味しいのだ。
中心地の目の前には開けた広場があり、ドクメンタ芸術祭のメイン会場の2つが並ぶ。
歴史的な美術館と、近代的なガラス張りの会場。
入るか迷ったが今日はホステルのチェックイン時間も考えて移動できる範囲まで動いてあちこちの作品に寄ることにした。
事前に予定を立てるのは苦手だが、今回は限られた時間でできるだけ多くの作品をまわり体験を増やしたい。
一人旅のアテンダンスもプランナーも自分、
わざわざ7時間かけカッセルまで来て芸術祭のチケットを買ったのにも関わらず、作品をひとつも回らずにずっと公園でビールを飲んで過ごすことも、ホステルのベッドに篭ることもできる。
そしてそんな旅をしたとしても、母親に怒られることも、友達に無理やり連れ回されることもない。
自分のために動いて経験を得ていく。
何だかハードボイルドなようで、純粋な子供の遊びのようにも思えた。
丘陵地を下り切ると州立公園が広がる、
片道2km、バロック式の公園には川が流れ木々が生い茂る。
公園に点在する作品に向かって足早に歩く。
州立公園と木漏れ日
公園に降り立つとより日差しが強く感じられた。
木の日陰になった道を歩く。
ひたすら続く道、風はあまり吹いていない。
公園を気持ちよさそうに自転車で移動している人が多く、トボトボ歩いている人間は私のほかにあまり見かけなかった。
レンタルのチャリやスクーターがあれば移動の時短にはなるが、作品間の移動の一歩一歩の風景を楽しむことにした。
今更中心地まで戻るのが面倒なのも正直なところ。
細長い公園を半分以上進むと次第に木々が増え、庭というより森のような風景になってきた。
道を少し逸れて木々の間を縫って歩いてみる。
午後3時、高く登った太陽の光が木々の葉の間を抜け、木漏れ日を作っていた。
芝生に落ちる木漏れ日をじっと見つめる、
よくみると輪郭はぼんやりとしていて、常にゆらゆら揺れて捉えようがなかった。
常に変化している。
次第に秋が来て、すぐに冬が来て、この葉も、太陽の光も消えるだろう。
私は夏の終わりを、木漏れ日の光を、体感していた。
リュックを背中から下ろし、ぬるくなった水を取り出して飲むと
Tシャツの背中にだいぶ汗をかいていた事に気がついた。
アート作品でもない、何気ない光景も美しい一瞬になる。
ここまで書いてようやく記事の4分の1程度、、自分がとんでもない時間をこの記事に費やしている事に気がついた。
何とか残し切って、たくさんの人に体験を共有したいと思う
参考サイト
すごく詳しく書かれ参考にさせていただいてる齋木優城さんのレポート↓
次の記事