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「ドネツクとルハンスク共和国」について知っておくべきこと

アルジャジーラ 2/22/22の記事を翻訳しました。

ウクライナで物議を醸している、モスクワが支援する小州をロシアに追随して承認したのは誰なのか?そして、そこでの生活はどのようなものなのでしょうか?

ウクライナ・キーウ 

ドネツクとルハンスクは、ドンバスと総称されるウクライナ南東部の地域で、モスクワに支援された分離主義者が約8年間支配してきた。

しかし、ロシアのプーチン大統領は月曜日(2/21/22)になって彼らを承認し、ドネツクとルハンスクの約3分の1を占める反乱軍支配地域にロシア軍が公式に駐留する道を開いたのである。

今までのところ、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、シリアだけが、ジョージアから分離した州である南オセチアとアブハジアと共に、ドネツクとルハンシクを認識するためにプーチンに加わっている。 彼らは皆、月曜日に(独立を)承認した。

中心的な問題は、ロシアが現在の国境でそれらを承認するかどうかである。もしロシアが反政府勢力を元の国境に「戻す」手助けをすることになれば、モスクワとキーウの間で大規模な戦争が起こるかもしれない。

現時点では、ロシアは「ドネツク人民共和国(DNR)とルハンスク人民共和国(LNR)の指導者が権限を実行している国境」を承認すると、アンドレイ・ルデンコ外務副大臣は25日、インタファクス通信に語った。

しかし外務省は、国境問題はまだ解決されていないとも述べている。

ウクライナと西側諸国が戦争を回避しようとする一方で、他の問題が立ちはだかる。

この地域の分離主義の根源は何なのか。2014年以降、これらの地域が生き続けているのはなぜか?そして、彼らの未来はどうなるのか?

2月21日、ウクライナの分離主義者が支配するドネツク市で、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ東部のロシアが支援する2つの分離独立地域を独立組織として認める法令に署名した後、路上で反応する親ロシア派の活動家達 [Alexander Ermochenko/Reuters] =写真

ネオ・スターリン主義


ウクライナ南東部の分離独立地域の首都ドネツクには、高さ13.5メートルのソ連創設者ウラジーミル・レーニンの像が今も中央広場にそびえている。

そして、レーニンの後継者であるヨーゼフ・スターリンが採択した憲法が、2014年に中央政府から離脱したドネツクと隣接するルハンスクのモスクワの支援を受けた分離主義指導者によって復元されている。

この憲法は多くの犯罪に対して死刑を規定しており、分離主義者の「人民共和国」、そしてその近くにある権威主義者のベラルーシは、ヨーロッパで唯一死刑のある国となっている。

約8年間続いた「共和国」は、全体主義的で北朝鮮のような国家に発展していると理解されている。

外国人がこの地域に入ることは不可能に近い。ウクライナ人は、ドネツクとルハンスクに親戚がいる場合のみ訪問することができ、まずロシアに渡らなければならないが、それには約30時間かかり、100ドルかかる。居住者にはソ連時代の居住者登録が必要だ。

この小さな国では、秘密警察と「忠実な」住民が、全ての言葉、電話、テキストメッセージを監視している。

「人民共和国のニーズ」のために資産を「寄付」することを拒否した反体制派やビジネスマンは、裁判も受けずに「地下室」や何十もの間に合わせの強制収容所に放り込まれている。

2017年にドネツクで誘拐され、分離主義者の「裁判所」から「スパイ行為」で懲役15年を言い渡された広報担当のスタニスラフ・アセーエフ氏は、アルジャジーラに語った。「まるでソ連の1930年代のようで、古典的な収容所だ。」

2017年に分離主義者が彼と他の数十人の囚人を交換するまで、約2年間、彼はこの「地下室」に収監され、拷問を受けた。

権利団体や目撃者によると、その他にも何千人もの人々が「地下室」で拷問され、虐待を受けたという。重大な人権侵害によって、ドネツクとルハンスクは現在のロシアよりもはるかにひどい状態になっていると、国際的な人権擁護団体は述べている。

「ドネツクの囚人が収容されている地下室や、広範囲に及ぶ拷問の実施は、最も明白な人権問題の一つです」と、人権監視団体であるノルウェー・ヘルシンキ委員会の上級政策顧問、アイヴァー・デール氏は述べた。

しかし、市民権や政治的権利など、より広範な問題がある、と彼は言う。
「ロシアにおける政治的抑圧は、ドネツクやルハンスクなどのプーチン政権の実効支配下にある地域では、二重に感じられていると言えるでしょう」と、デール氏はアルジャジーラに語った。

さびれた廃墟


こうした傾向は、経済的な劣化と密接に関係している。
生活水準は「戦前の2013年の何倍、いや何十倍も悪い」と、現在キーウに住み、ドネツクでの出来事を描いた小説を出版しているアセエフ氏(32)は言う。

ドネツクとルハンスクの決して古くはない歴史を考えると、この逆行は更に驚異的に見える。この2つの都市は、2人のイギリス人によって設立された。

イギリス人のチャールズ・ガスコインが現在のルハンスクに金属工場を建設したのは、ロシアがオスマントルコの属国でほとんどがイスラム教徒だったクリミア半島とウクライナ東部を併合した直後の1795年のことだった。

2月22日(火)、ウクライナ東部の親ロシア分離主義政権が支配するドネツク地域から避難する子供達
【Roman Yarovitcyn/AP Photo】

その数十年後の1869年、ウェールズ人のジョン・ヒューズが現在のドネツクで製鉄所と炭鉱を始め、ソ連時代までこの街は彼の名をとってヒュゲソフカまたはユゾフカと呼ばれた。

両都市の誕生と急成長は、現在のウクライナ東部にある膨大な石炭と鉄鉱石の鉱床を開発しようとする皇帝政府の動きに追随したものであった。

さらに共産主義のモスクワがこの地域の開発に拍車をかけ、数万人のロシア系民族が移住し、都市部はほとんどロシア語圏になった。

使い終わった鉱石でできた丘の横にあった石炭や鉱山はより深くなり、石炭鋳物工場や化学工場、発電所がこの地域に点在していた。

ドネツクの政治的最盛期は2010年に始まった。ドネツク出身のヴィクトル・ヤヌコヴィッチがウクライナ大統領になり、彼の取り巻き連中をキーウに連れて来たのである。

彼らはウクライナの政治と経済の主導権を握ろうとしたが、2013年11月に始まった数カ月にわたる(マイダン)抗議行動を引き起こし、2014年2月にはウクライナ議会がヤヌコビッチ大統領の解任を決議して幕を閉じた。

この抗議行動はウクライナでは「尊厳の革命」と呼ばれている。しかし、ロシアのプーチン大統領はいまだに「クーデター」と呼んでいる。

ロシアの春


皇帝時代、この地域はノヴォロシヤ(新ロシア)と呼ばれ、クレムリンは2014年、ウクライナ東部と南部のロシア語圏の「ロシアの春」または「解放」を宣言する際に、この名称を使用することになる。

だが、ウクライナ第2の都市ハリキウや黒海最大の港町オデーサでの親ロシア派の集会や反乱は失敗に終わった。

しかし、何千人ものロシア人ボランティアがドネツクとルハンスクに集まり、分離主義者の民兵を支援した。一方、多くの地元の人々は「ロシアの春」に有頂天になっていた。

「プーチンが来て、ここの秩序を回復してくれるだろう」と、彼らの支持者の一人、ヴァレリーという丸々としたミニバスの運転手は、2014年4月にドネツクで本誌記者に語った。

しかし4カ月後、分離主義者が彼のミニバスを没収しようとした時、彼はアパートに鍵をかけ、バスに最も貴重な持ち物を積み込んで、キーウに向けて出発した。

値札

ウクライナは分離主義地域との経済的な結びつきを禁じているが、(実際には)それはまだ存在しており、トップ政治家さえも関与している。

「尊厳の革命」の後に政権を握った親欧米派のペトロ・ポロシェンコ大統領は、2014年から2015年の冬にかけて、ドネツクの石炭と引き換えに数千万ドル相当の政府資金を投入したことを認めた。そうしなければ「ウクライナの半分が凍っていた」かもしれないからだ。

しかし、ロシアはそれでも年間数十億ドルを費やして分離主義者の(ドンバス)地方を銀行融資しなければならなかった。

では、ドンバスにおけるモスクワの経済目標は何なのだろうか?

キエフ在住のアナリスト、アレクセイ・クシュ氏はアルジャジーラにこう語った。「占領地を維持するための価格を下げるという、とてもシンプルなことだ。」

そのためには、石炭や鉄鋼の輸出や人道支援物資の輸送で大きな利益を得ていた中間業者を排除し、すぐに闇市場で転売することが必要だろう。

そのためにロシアは、仲介業者を排除したいのだろう。彼らは石炭や鉄鋼の輸出や人道支援物資の配送で得た利益の大半を即、闇市場で転売していた。

「彼らは利益の70パーセントを握っていたのです」とクシュ氏は言う。

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