「差別をしない」ということは「自然でいる」ということ。後編
ブラッドフォードゆり絵です。
読んでくださっている方、ありがとうございます。
前回の記事▼
今日は後編です。
「差別について考える」
そんなことをテーマに、実体験を含めながら書いています。
前回の記事は前置きばかり長くなり
実際にあった出来事までたどり着けなかったので
さっそく、
息子に起きた出来事
(繰り返しになりますが、
嫌な思いや悲しい想いはしておりません!!)
をシェアしたいと思います。
これを読んでくださっているどこかのどなたにとって、
ほんの少しでも
『ほぉ〜そうなんだぁ〜メモメモ』
くらいで良いので、
私と一緒に
「差別について考える」
きっかけになって欲しいな。と小さな期待を込めて書いております。
つい先日のこと。
長男(4)といつものカフェでリラックスをしていました。
そのカフェは近所にあるのですが
いつもキラキラ♪の若者でごった返していて、
店員さん・お客さん皆んながいつも笑顔で素敵な場所。
息子も私もとても大好きな場所です。
カフェ自体の雰囲気も相まって
お客さん同士が交流しやすく、
私もその日は
そこで出逢ったオーストラリアの女の子と一緒にコーヒーを飲んでいました。
そこに、私たちのテーブルへ
笑顔が可愛い女の子(日本人)がやってきて言いました。
(息子を見て)
可愛い〜!!!!!
髪もふわふわ!!!!!
触っていいですか????
(満面の笑顔)(悪気マジゼロ)(本気で可愛いと思ってくれてるのが伝わる)
息子(4)
嬉しそうにうつむく。
そしてその女の子
息子の自慢のくるくるヘアー
を
ぽんぽんっ
と触り、
可愛い〜〜〜〜〜〜!!!!!
ありがとう!!!!!
(笑顔全開)
と言って、去って行きました。
息子の為に書いておくと、
息子は自分の髪の毛がとても大好きで
『My curly hair is so special!』
(僕のカーリーヘアはとってもスペシャルなんだ!)
とか
『I don’t wanna cut them because I love them!』
(髪切りたくない!だって大好きだから!)
と、言っていて
そろそろ4歳、
周りの日本人のお友達は皆んなストレートヘアなのに対して
自分の髪の毛はくるくるアフロヘアだけど
私たち両親の日々の声かけもあって
本人にとっては、
自分のアイデンティティの一つであり
誇るべき自分の身体の一部だという認識しているようです。
親としては、
我が子が自分自身を愛している事実をとても嬉しく感じています。
なので、今回のことも
息子は全然嫌な想いをしていないし
私も
特に彼女の行為自体を「差別だ!!」と感じたわけでも全くありません。
むしろ、
私が
世界一可愛いと思っている愛息子の魅力に気がついてくれたことに
感謝を申し上げたいくらいです。
が、
隣にいたオーストラリア人の女の子が小声で私に言ったのです。
『Does that happen to him often in Japan?』
(これって日本では彼によく起こることなの?)
ほぉ・・・・・・・。
考えてみれば
まぁ
言われてみれば
いきなり頭をさわられる!
なんてことはさすがにないけれど
指を指されて
『なんで皆んなと違うの?』
と言われたり
『ぐちゃぐちゃ頭!』
とか
『大阪のおばちゃんみたい!』
と、言われた経験は、ある。
でも
本人はといえば傷つく年齢にまだないし
親としても、
子どもの目からはそう見えるよね、
むしろユニークな発想だな、と思ったり
話しが分かりそうな相手には、
冷静にそして丁寧に
我が子がミックスで、それが理由で髪の毛がこうなることを説明したりもします。
大切な我が子のことだし
また、疑問に思うことも、
その子どもが感じた大切な質問なので
いちいち面倒だなんて思いません。
これらを
差別だ!!!
と
騒げばきっとそれはもう差別になるのでしょう。
そんなこと言われて悲しくないの!?
ひどくない!?!?侮辱だよ!!
人に話せば
そんなふうに言われることもあるし
確かになぁ、とも感じます。
【差別だって思うから差別なんだ】
とか
【言いたい奴には言わせとけ!】
みたいな話しでもないことも、分かっています。
その上で、
彼女が言った
『これは日本ではよく起こることなの?』
という言葉の意味を考えてみました。
そして私がたどり着いた答えが、
「差別をしない」
ということの本当の意味は
「自然体で接すること」
ではないかな?
ということでした。
髪がカーリーでも
目の色が青くても
肌の色が真っ白でも
もっと言えば
足が片方なくても
目が見えなくても
年をとっていても
生みの親と育ての親が違っても
姿が見えない友達がいても
背が高くても
顔が大きくても
太っていようが痩せていようが
相手がどんな姿でどんな状況であっても
それを疑わず、特別視せず、
そのまま受け止める。
「君は○○なんだね!」
で、
済ませる。
大きなことであっても、小さなことであっても。
だってそれがその人なんだから、ね。
アメリカ人の夫にも一連の話しをしましたが
先日の出来事が差別だ!という話しにはならず、
ただ、
『We don't really talk about how they look because it's a very personal topic.』
(僕たちは、人の外見についてほとんど話し合うことはない。
なぜならそれはとてもパーソナルなトピックだからだよ。)
と言っていました。
先日も、アリアナグランデの記事が出ていましたね。
(痩せたとか太ったとか、外野が話し合う文化がない、というような。)
日本では結構、というかだいぶ?
え〜痩せた!!可愛いじゃーん♪
あの子、眼めっちゃデカくない!?いいなぁ!
その髪の毛天パ?自然のパーマみたいで素敵〜♪
みたいな、
それがポジティブな場合も多いかもしれませんが
(今回の場合も然り)
その人の身体のつくりについての性質・特質について話すことってよくありますよね。
文化のひとつなのかな。
私もよく言っていると思います。
私は日本人なので、
その文化について否定したい気持ちはありません。
が、
あえて、
前回の記事で出てきた
当事者
として、感じること、
そして
これを読んでくれている皆さんに考えてみて欲しいな、と思うのは
差別
という言葉がひとり歩きしているからでしょうか。
例えば自分のお子さんが
私の息子を見て
『ママみて!あの子の肌茶色い!髪も、もじゃもじゃだ!』
と言ったら、
なんと返しますか?
日本の文化なら、
『シッ!そんなこと言わないの!!皆んな違うのよ!!』
(そして笑顔で、すみません、と挨拶して、そそくさと去る。)
おそらく、こんな感じでしょうか?
なんか、腫れ物に触る、というような。
誰も
「差別」という言葉からは遠のきたいですものね。
私も、
当事者じゃなければきっとこんな風だったかもしれません。
でも
当事者
の今思うのは、
もっと、
この世界の「違い」に、目を向けて欲しい。
そして、正しい知識を、子どもに、しっかり教えてあげて欲しいのです。
それから、その「違い」と「自然に」「共存すること」を、皆さん自ら実践して欲しいのです。
「もじゃもじゃ」
という表現が少しマイナスに聞こえるなら
「くるくる」
なんかいいですね♪
「なんで違うの?」
と聞かれたら、
ゆっくり、丁寧に、
この世界には沢山の「違い」があることを教えてあげてください。
それがきっかけで
親子の会話が弾むかもしれません。
子どもの純粋な疑問に向き合って
それに気がついたことを褒めてあげてください。
親の私たちに知らないことがあるなら
一緒に勉強するのも良いですね。
「見ないの!」
ではなくて、
見て、知って欲しいです。
皆んな同じじゃないことを。
そしてそれが世界を創っていることを。
それを見て、知り、そして学び、
そうすることで
自然と
違いを受け容れる
ことが出来るように、なると私は思うから。
そしてその「違い」がいつしか
彼らの「当たり前」になると思うのです。
そして、そんなふうに出来る子どもが増えたなら、
差別のない世界
には、、
なる!!!とは言いませんが。(言いたいけど)
世の中、色んな考えの人がいるからネ。
でも
少なくとも
差別をなくしていく世界に近づける為に
私たちに出来る「なにか」かな、と、
私は思っています。
これを読んでくださっている
どこかの誰かに
ほんの少しでも、
届いたら嬉しく思います。
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