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すこし前のnoteに書いた朗読教室のミニ発表会が、先日行われた。クラスのメンバー10人ほどの中で読むだけのものだけれど、緊張する。普段の課題作品とは違い自分で作品を選ぶから、その人の読書歴や内面が詳らかになる。それで値踏みするような人はいないし、ただみんな新しい作品に出会うことやクラスメイトの新しい一面を知ることを楽しみにしている、それだけなのだけれど、その期待があることを知っているからやっぱりどきどきする。
それで私はすこし言い訳するように、たいてい季節の作品を選ぶ。なんとなく心のどこかで「季節柄です」という弁明を、誰に問われることもないが仄めかしている。そう考えると昔の茶道や着物のコーディネイトも、一見難しそうに思われるけれど、季節に託すことですこし自分の生々しさを覆えるから、人に優しい制約とも言える。

なにせそんなわけで、今回はクリスマスをテーマにしようと思い、最初に太宰治の短編「メリイクリスマス」を手にした。タイトルそのままだし長さも少し削れば収まりそう。何度か読んでみて、いけるかなあと思ったけれど、初老のおじさんの皮肉や自虐の入り混じった作品で、私が読んでも聞き手があんまり気持ち良いクリスマスを迎えられそうな気がしない。断念。
次に手にしたのは江國香織さんの「とくべつな早朝」という短編。発表会の時間は一人10分あって、この作品を私が読むと7分半くらい。ちょっと短いけれど、悪くない。こちらは大学生の男の子が主人公。一人称が「俺」だし、クリスマスイブの夜にコンビニでバイトをしている子だから、ちょっとやさぐれた感じで読み込んだ。

そんななか、ちょうど発表会の前日の夕方、仕事で関東学院大学を訪れた。最近新しくできた関内キャンパスは最新鋭のタワービルだけれど、この日訪れた金沢八景のキャンパスは広々とのんびりした雰囲気。夕暮れ、バスを降りると中庭のシンボルツリーに電飾が施されていてピカピカ光っている。チャペルに進む階段もイルミネーションが灯っていて、贅沢。だけどそのキラキラにはもう見慣れたらしい学生たちは、おしゃべりに夢中になって学校を後にする。みんな笑ってる。本当に若者ってなんでも楽しいんだろうな。眩しいな。
放送研究会の部長のインタビューで、部室にお邪魔する。授業を終えた学生たちが狭い部室に集まって、カップラーメンを食べている子もいて、熱気もニオイもすごい(笑)。男子も女子も1年生も3年生もなく、ぎゅうぎゅう詰め。まだ部活の始まる時間には早いから、ほとんどはただ集まってわいわいしてる。段ボール箱の中の生まれたての仔犬たちみたいだ。甘酸っぱくてきゅんきゅんする。
私は大学時代にそんなふうに部活やサークルに夢中になったりできなかったから、それは懐かしい景色ではなくて、羨ましくて眩しい景色。
クリスマスツリーの輝く海沿いのキャンパスの夕暮れ、青春をたっぷり浴びた。

そして迎えた発表会の朝。
もう一度江國さんの小説と向き合う。作品の中の彼が、立体的になり、命をもった。昨日会ったあの子達。私は主人公のキャラクターを大きく変更した。

私の読んだ物語は、みんなの耳に、私がみた景色みたいに、キラキラしたかな。きゅんきゅんしたかな。どうかな。だけど少なくとも私自身のなかでは、江國さんの物語の主人公は、とてもチャーミングな男の子になった。

朗読する、という行為はそれ自体とても身体性の高いもので、本の中にいた物語は、目から体の中に流れ込み、脳を通って、声帯を通して私の声で社会に飛び出していく。体内を通過している間に、物語はじわじわと私に染み込んでいく。今回のように練習を重ねて読む時ならなおのこと、何度も読み、その物語について考え、出会う人や見た人がそこに調味料のように混じっていく中で、だんだん自分の体験になって、ついに声に発する。だからもうそれは、自分の体験になる。私はすこし、大学生の男になれる。
そして、この物語を読んだ後にはもう、夕暮れの関東学院大学のキャンパスにいた、あの子達の景色の一員になったみたいな気がした。

朗読は、傍観者だった私を物語の一員にしてくれる。

(写真は関東学院大学ではなくて、すこし前に訪れた母校。)

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